第53話 危機一髪! 唯衣を救った狼獣人
紙作りの準備を始めてから、二日目。
「うーん……やっぱり、簡単にはいかないな」
俺は机の上に並べた植物の繊維を見つめていた。
昨日、森から採取してきた四種類の植物。
そのうち二種類は、茎から繊維を取り出すことができた。
ただ、繊維が硬かったり、短すぎたりして、紙にするには少し工夫が必要そうだった。
「海斗さん、こっちはどうですか?」
隣で作業していた唯衣が、細い繊維の束を持ち上げた。
「おっ。そっちは結構いい感じだな」
「ですよね!」
「ただ、まだ紙にできるかどうかは分からないけどな」
「まずは試してみましょう!」
唯衣はやる気満々だった。
その足元では、三匹のスライムがぷるぷると揺れている。
プルル、ブルル、グルル。
「ぷるっ!」
「はいはい。これは食べ物じゃないからね」
唯衣がプルルを指でつつく。
スライムは不思議そうに身体を揺らした。
……本当に分かっているのだろうか。
「とりあえず、今日は繊維をほぐしてみよう。植物によっては、水に浸したり、叩いたりする必要があるらしい」
「叩くんですか?」
「そう。細かくほぐして、繊維同士が絡みやすくなるようにするんだ」
「なるほど……」
唯衣が興味深そうに頷いた。
俺は検索スキルで調べた情報を思い返す。
紙作りの基本的な仕組みは分かった。
だが、どの植物が適しているか、どれくらい処理すればいいのかまでは、実際に試してみなければ分からない。
この世界の植物は、日本の植物と同じとは限らないからな。
「まずは少量ずつ試して、違いを比べてみよう」
「分かりました!」
こうして、俺たちは再び紙作りに取り掛かった。
……とはいえ。
「海斗さん」
「ん?」
「ちょっと休憩しませんか?」
「……そうだな」
始めてから、まだそれほど時間は経っていない。
しかし、細かい作業を続けていると、思った以上に疲れる。
俺は手を止め、肩を回した。
「少し外の空気でも吸ってくるか」
「私も行きます!」
「いや、唯衣はここで休んでいてもいいぞ?」
「せっかくですから、村の近くを散歩してきます。プルルたちも一緒ですし」
唯衣は足元の三匹を見た。
プルルたちは、待ってましたと言わんばかりに跳ねている。
「……分かった。ただし、森の奥には入るなよ」
「もちろんです!」
「村から離れすぎないこと。魔物を見かけたら、近づかずに戻ってくること」
「分かってますって!」
唯衣が頬を膨らませる。
「海斗さん、心配しすぎですよ」
「この世界じゃ、用心するに越したことはないからな」
「……はい。気をつけます」
唯衣は笑顔で頷くと、三匹のスライムを連れて家を出ていった。
俺はその後ろ姿を見送る。
まあ、村の近くを散歩するくらいなら大丈夫だろう。
そう思いながら、俺は机の上の植物に目を戻した。
まさか、この直後に問題が起こるとは思いもしなかった。
◇ ◇ ◇
「うーん! いい天気!」
村の外れを歩きながら、唯衣は大きく伸びをした。
朝の空気は澄んでいて、風も気持ちいい。
遠くでは村人たちが畑仕事をしている。
少し離れたところには森が広がり、その向こうには山々が連なっていた。
「やっぱり、自然っていいなあ」
「ぷるっ!」
「ふふっ。プルルもそう思う?」
唯衣はしゃがみ込み、プルルの頭に当たる部分をそっと撫でた。
ブルルとグルルも、負けじと彼女の足元に寄ってくる。
「はいはい。みんな可愛いね」
スライムたちを順番に撫でてから、唯衣は再び歩き始めた。
日本にいたころから、唯衣は動物や自然が好きだった。
だからこそ、異世界での暮らしは大変なことも多いが、楽しいこともたくさんある。
見たことのない植物。
不思議な魔物。
そして、狼の耳や尻尾を持つ獣人。
「……ペローさん、今頃何してるのかな」
ふと、唯衣の頭に黒い狼獣人の姿が浮かんだ。
ペロー。
第1章で海斗たちが助けた、狼獣人の男性だ。
旅の途中で出会い、しばらく行動を共にした。
彼の黒い狼の姿を見たとき、唯衣は思わず大興奮してしまった。
何しろ、狼そのものの姿にもなれるのだ。
耳も尻尾も、毛並みも、全部が魅力的だった。
……いや、本人に聞かれたら怒られるかもしれないが。
「また会えたら、狼の姿を見せてもらいたいなあ」
「ぷるっ?」
「ううん、何でもないよ」
唯衣は笑って首を振った。
ペローは、まだ海斗たちと一緒に暮らしているわけではない。
助けたことをきっかけに知り合っただけで、彼には彼の事情がある。
それでも、唯衣にとっては気になる相手だった。
もっと話してみたい。
獣人の暮らしについても知りたい。
そして、できることなら、またあの狼の姿を見てみたい。
「……あっ」
そんなことを考えながら歩いているうちに、唯衣は森の入口近くまで来ていた。
昨日、紙作りの材料を探しに来た場所だ。
「ここ、昨日も通ったところだよね」
唯衣は周囲を見渡した。
村からそれほど離れてはいない。
少し歩けば、すぐに戻れる距離だ。
「ちょっとだけ、あっちを見てみようかな」
木々の隙間から、見慣れない花が見えた。
淡い紫色の花弁。
細長い茎。
風に揺れる姿が、どこか可愛らしい。
「わあ……綺麗」
唯衣は思わず近づいた。
もちろん、森の奥へ入るつもりはない。
ただ、少しだけ花を見たいと思ったのだ。
そのときだった。
「……グルルル」
「え?」
低い唸り声が聞こえた。
唯衣は顔を上げる。
茂みの向こうから、大きな獣が姿を現した。
灰色の毛並み。
鋭い牙。
普通の狼よりも一回り大きな身体。
そして、赤く光る目。
「……魔物?」
唯衣の表情が強張った。
獣は唯衣をじっと見つめている。
口元から涎が垂れ、低い唸り声が続いていた。
「……っ」
唯衣はゆっくり後ずさった。
逃げなければ。
そう思った瞬間――。
「グルルルッ!」
魔物が地面を蹴った。
「きゃっ!」
唯衣は咄嗟に横へ飛び退く。
鋭い牙が、ほんの少し前まで彼女がいた場所を通り過ぎた。
「な、何なの!?」
唯衣は慌てて走り出した。
プルルたちも必死に後を追う。
だが、逃げた先の茂みから、別の魔物が飛び出してきた。
「えっ!?」
右側にも、もう一匹。
気づけば、複数の狼型魔物に囲まれていた。
「うそ……!」
完全に油断していた。
村の近くなら大丈夫。
森の入口なら危険も少ない。
どこかで、そんなふうに考えていたのかもしれない。
けれど、ここは異世界だ。
魔物に人間の都合は関係ない。
「……どうしよう」
唯衣は震える手で短剣を抜いた。
王国から支給された護身用の武器だ。
訓練は受けている。
けれど、複数の魔物を相手に戦った経験はない。
「みんな、下がって!」
唯衣はスライムたちを背中側へ下がらせようとした。
「ぷるっ!」
プルルが前に出る。
「駄目! 危ないよ!」
だが、スライムたちは唯衣を守ろうとするように、魔物たちとの間に立った。
その直後。
一匹の魔物が飛び掛かってきた。
「っ!」
唯衣は短剣を振る。
刃が魔物の身体をかすめた。
しかし、相手はすぐに距離を取る。
そこへ別の一匹が横から迫った。
「きゃあっ!」
唯衣は身体をひねって避けたが、足を滑らせて地面に倒れた。
短剣が手から離れる。
「……っ!」
魔物たちが一斉に距離を詰めてきた。
怖い。
身体が震える。
早く立ち上がらなければ。
逃げなければ。
そう思うのに、足に力が入らなかった。
「ぷるるっ!」
プルルが魔物の一匹へ体当たりする。
だが、相手の身体をわずかに揺らしただけで、弾き飛ばされてしまった。
「プルル!」
唯衣が叫ぶ。
そして――。
一匹の魔物が、唯衣へ向かって飛び掛かった。
「いやあああっ!」
唯衣は目を閉じた。
その瞬間。
ドンッ!
何かが、魔物の横腹へ激突した。
「ギャンッ!」
魔物が地面を転がる。
「……え?」
唯衣は恐る恐る目を開けた。
目の前に立っていたのは――。
艶のある黒い毛並み。
鋭い牙。
大きな身体。
そして、見覚えのある後ろ姿。
「……ペローさん?」
黒い狼が、ゆっくりと振り返った。
間違いない。
この黒い毛並み。
あの鋭い眼差し。
そして、唯衣を守るように前へ出る姿。
「ペローさん!」
唯衣の声が震えた。
ペローは短く鼻を鳴らすと、再び魔物たちへ向き直った。
「グルルルル……!」
低い唸り声が森に響く。
魔物たちが警戒する。
だが、ペローは一歩も引かなかった。
次の瞬間、黒い影が走った。
一匹目の魔物が吹き飛ぶ。
二匹目が横から飛び掛かるが、ペローは身体をひねってかわし、鋭い牙を相手の首元へ突きつけた。
動きに無駄がない。
ただ力任せに戦っているわけではなかった。
相手の動きを見極め、危険な攻撃を避け、確実に相手を退けている。
唯衣は、その姿を呆然と見つめていた。
いつものように耳や尻尾を撫でたくなるような、可愛らしい狼の姿。
けれど、今のペローは違った。
大きな身体で唯衣を守り、魔物たちを相手に一歩も退かない。
その姿は、驚くほど頼もしかった。
「……すごい」
唯衣は思わず呟いた。
やがて、魔物たちは勝ち目がないと判断したのか、少しずつ距離を取り始めた。
ペローが低く唸る。
「グルルルッ!」
その一声に押されるように、魔物たちは森の奥へ逃げていった。
静寂が戻る。
ペローはしばらく周囲を警戒していたが、やがて唯衣のほうへ向き直った。
「……怪我はないか?」
「……え?」
聞き慣れた声。
唯衣は目を丸くした。
「ペローさん、今……」
黒い狼の身体が、淡い光に包まれる。
次の瞬間、そこに立っていたのは、人間の姿をしたペローだった。
頭には狼の耳。
背中側には、黒い尻尾。
服には少し土がついていたが、本人は気にした様子もない。
「怪我はないかって聞いてるんだ」
「あ……は、はい!」
唯衣は慌てて頷いた。
「大丈夫です! ペローさんこそ、怪我はありませんか?」
「俺は平気だ」
ペローはそう答えると、地面に落ちていた短剣を拾い、唯衣へ差し出した。
「ほら。落としたぞ」
「あ、ありがとうございます……」
唯衣は短剣を受け取った。
指先が少し震えている。
さっきまで、もう駄目だと思っていた。
もしペローが来てくれなかったら。
そう考えるだけで、胸が苦しくなった。
「……ペローさん」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとうございます」
唯衣は深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
「気にするな。無事でよかった」
ペローは少し困ったように笑った。
「ただ、森の近くを一人で歩くのは危ないぞ。村の近くだからって、魔物が出ないわけじゃない」
「……はい」
唯衣は素直に頷いた。
反論するつもりはなかった。
自分の判断が甘かったことは、十分に分かっている。
「海斗たちには知らせたほうがいいな。心配しているだろう」
「……そうですね」
唯衣は顔を上げた。
そして、改めてペローを見つめた。
いつもなら、耳や尻尾に目がいってしまう。
可愛い。
触ってみたい。
そんな気持ちが先に出ていた。
けれど、今は違う。
自分が危険な目に遭ったとき、ペローは迷わず助けに来てくれた。
身体を張って、魔物たちの前に立ってくれた。
その姿が、頭から離れない。
「……あの」
「どうした?」
「ペローさんは、どうしてここに?」
ペローは少しだけ視線を森へ向けた。
「村の近くを歩いていたんだ。森の様子も気になってな」
「それで、私の声が聞こえたんですか?」
「ああ。悲鳴が聞こえたから、急いで来た」
「……そうだったんですね」
唯衣は胸の前で手を握った。
偶然だったのかもしれない。
たまたま近くにいて、たまたま声が聞こえた。
それだけのことだ。
それでも。
今の唯衣にとっては、その偶然が何よりもありがたかった。
「……本当に、ありがとうございます」
「もういいって。無事ならそれでいい」
ペローは照れくさそうに頭を掻いた。
その仕草を見て、唯衣は少しだけ笑った。
そして、ふと思った。
この人のことを、もっと知りたい。
どんな暮らしをしてきたのか。
何が好きなのか。
何を考えているのか。
狼の姿だけではなく、人としてのペローを知りたい。
そんな気持ちが、胸の奥に芽生え始めていた。
「……ペローさん」
「ん?」
「もしよかったら、今度……もっとお話ししてもいいですか?」
ペローは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、穏やかに笑った。
「ああ。もちろんだ」
「……ありがとうございます!」
唯衣の顔がぱっと明るくなる。
その足元では、プルルたちが元気よく跳ねていた。
「ぷるっ!」
「ブルルッ!」
「グルルッ!」
「ふふっ。みんなも、ペローさんにお礼を言ってるみたい」
「そうか」
ペローは三匹を見下ろし、少しだけ表情を和らげた。
「お前たちも、よく頑張ったな」
「ぷるるっ!」
スライムたちは嬉しそうに揺れた。
唯衣はその様子を見て、また笑った。
けれど、胸の中では、さっきまでとは違う気持ちが静かに膨らんでいた。
可愛いから、好き。
それだけではない。
頼もしいと思った。
優しいと思った。
そして――。
もう一度、会いたいと思った。
唯衣はまだ、その気持ちに名前を付けられなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
今日から、ペローを見る目が少しだけ変わった。
そして、この出会いが二人の関係を変えるきっかけになることを、唯衣はまだ知らなかった。
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