第21話 辺境の村ネリスと、冒険者たちとの別れ
「ようこそ、ネリス村へ」
村長の言葉に、俺たちは改めて頭を下げた。
「これからお世話になります。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。王国から皆様のお話は伺っております。何か困ったことがあれば、遠慮なく相談してください」
「ありがとうございます」
村長は穏やかな笑顔を浮かべていた。
その表情を見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
第一印象は悪くない。
少なくとも、いきなり厄介者扱いされるようなことはなさそうだ。
もっとも、これから長く暮らすことになるのだから、第一印象だけで判断するわけにもいかないけど。
「それにしても……」
俺は小さく息を吐いた。
「やっと着いたな」
「本当に……」
唯衣が腰に手を当てながら、しみじみと頷いた。
「私、もう馬車には乗りたくないです……」
「分かるぞ、唯衣ちゃん」
慎之助さんが勢いよく同意する。
「途中から尻が限界だった。あの揺れは反則だろ」
「慎之助さん、途中で何度も座り直してましたよね」
「そりゃそうだ! 同じ場所に座り続けてみろ。尻がどうにかなっちまうぞ!」
「俺も最後のほうは、道の凹凸が来るたびに身構えてました」
蝉丸が苦笑した。
「現代日本の道路って、相当快適だったんですね……」
「本当にな」
俺も頷く。
舗装された道路に、車のサスペンション。
座り心地のいいシート。
普段は何とも思っていなかったものが、今になってありがたく感じられる。
「まあ、これからはそう頻繁に馬車に乗ることもないだろ」
「そうだといいんですけど……」
唯衣はまだ腰をさすっていた。
「皆様、長旅でお疲れでしょう。まずは村をご案内いたしましょうか」
村長がそう提案してくれた。
「お願いします」
俺たちは村長の後について、ネリス村の中へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
ネリス村は、想像していたとおりの辺境の村だった。
木造の家が並び、道の両側には畑が広がっている。
家の前で洗濯物を干している女性。
荷車を押している男性。
家畜の世話をしている子供たち。
村人たちはそれぞれの仕事をこなしながら、俺たちをちらちらと見ていた。
珍しいのだろう。
王都から来た人間が4人も移住してくるのだから、無理もない。
「この辺りは農業が中心なのですか?」
蝉丸が尋ねる。
「そうですな。畑仕事と家畜の世話、それから森で採れる木材や薬草などを扱っております。規模は小さいですが、村の中で必要なものは、ある程度そろいますぞ」
「なるほど」
「ただし、何でもあるわけではありません。珍しい道具や大量の資材が必要な場合は、町まで買いに行く必要があります」
「町までは、どのくらいかかるんですか?」
俺が尋ねると、村長は少し考えた。
「馬車なら半日ほどです。ただ、道の状態や天候によっては、もう少しかかることもありますな」
「半日か……」
近いとは言い難いが、どうしようもない距離でもない。
何か必要になったら、計画を立てて買い出しに行けばいいだろう。
俺たちがそんな話をしていると、慎之助さんが村長の肩越しに辺りを見回した。
「ところで、村長さん」
「はい、何でしょう?」
「この村に酒場はありますか?」
「ええ。小さな店ですが、村の中央にありますぞ」
「おおっ!」
慎之助さんの顔がぱっと輝いた。
「素晴らしい村だ!」
「まだ酒場しか確認してませんよね?」
蝉丸が冷静に突っ込む。
「いやいや、住む場所を決めるうえで、酒が飲める環境かどうかは重要だぞ」
「その基準は慎之助さんだけだと思います」
「そんなことはない!」
「本当ですか?」
「……少なくとも、俺にとっては重要だ」
「自分で認めましたね」
唯衣がくすくすと笑う。
村長も楽しそうに笑っていた。
どうやら、慎之助さんの調子はいつもどおりらしい。
俺は苦笑しながら、村の景色を眺めた。
山が見える。
森がある。
川のせせらぎも聞こえる。
王都のような賑やかさはないが、俺が求めていた生活には、むしろこちらのほうが合っている気がした。
……問題は、これからどうやって暮らしていくか、だけど。
◇ ◇ ◇
村の案内を終えたところで、俺たちは村の入口近くへ戻ってきた。
そこには、護衛をしてくれた冒険者パーティーの4人が待っていた。
剣士のガルド。
盾役のミリア。
弓使いのロイド。
魔法使いのセラ。
王都を出発してから、彼らには本当に世話になった。
盗賊に襲われたときも、魔物が現れたときも、彼らがいたからこそ、俺たちは無事にここまでたどり着けたのだ。
「皆さん、ここまで本当にありがとうございました」
俺は4人に向かって頭を下げた。
「いや、俺たちは依頼を受けて仕事をしただけだ」
ガルドが気さくに笑う。
「それでもです。皆さんがいなかったら、もっと大変なことになっていたと思います」
「本当ですよ!」
唯衣も大きく頷いた。
「盗賊が出たときなんて、どうしたらいいか分からなかったですし。魔物が出たときも、皆さんがいてくれたから安心できました!」
「ふふ、どういたしまして」
ミリアが優しく微笑む。
「唯衣ちゃんたちも、よく頑張ったわね。慣れない旅だったでしょう?」
「はい……。特に、お尻が……」
「そっちか!」
ロイドが思わず吹き出した。
「いや、分かるぞ。あの道は俺たちでも尻が痛くなるからな」
「やっぱりそうですよね!」
唯衣が少しだけ元気を取り戻す。
「俺も途中から、もう少し道を整備してほしいと思ってました」
蝉丸も苦笑した。
「王都の近くと比べると、この辺りは道の整備が十分ではないからな」
ガルドが頷く。
「だが、ここまで来ればひとまず安心だ。村の中で無茶をしなければ、街道を歩くより危険は少ないだろう」
「分かりました。気をつけます」
俺は素直に頷いた。
俺たちは冒険者ではない。
多少の護身術やサバイバルの知識があったとしても、魔物が出る森へ気軽に入るつもりはなかった。
まずは生活基盤を整える。
それが最優先だ。
「俺たちは、これから王都へ戻って報告をする」
ガルドが続けた。
「盗賊の件もあるし、今回の護衛任務の報告も必要だからな」
「そうですよね……」
唯衣が少し寂しそうな顔をする。
旅の間、ずっと一緒にいた人たちだ。
別れるとなると、やはり寂しいものがある。
「またどこかで会えるといいですね」
俺が言うと、ガルドは笑った。
「ああ。お前たちが王都へ来ることがあれば、冒険者ギルドで俺たちの名前を聞いてみてくれ」
「分かりました」
「そのときは酒でも飲もうぜ!」
慎之助さんが手を上げる。
「お前は本当に酒の話ばかりだな」
ガルドが呆れたように笑った。
「いいじゃないか。酒は人と人を繋ぐ!」
「そういうものか?」
「そういうものだ!」
「……まあ、否定はしないがな」
ガルドは苦笑しながら、慎之助さんと握手を交わした。
俺たちも順番に4人と握手をする。
「皆さんも、道中お気をつけて」
「おう!」
「元気でね!」
「そちらもな」
やがて冒険者たちは馬に乗り、王都へ向かって走り出した。
俺たちは、その背中が見えなくなるまで見送った。
「……行っちゃいましたね」
唯衣がぽつりと呟く。
「そうだな」
俺は頷いた。
長い旅だった。
危険なこともあった。
けれど、彼らのおかげで無事にここまで来られた。
いつかまた会えるだろうか。
そんなことを考えながら、俺は小さく手を振った。
◇ ◇ ◇
「では、皆様のお住まいになる土地へご案内しましょう」
村長の言葉に、俺たちは顔を上げた。
「いよいよですね!」
唯衣が目を輝かせる。
「ああ。まずは、どんな場所なのか確認しないとな」
俺たちは村長の後について、村の外れへ向かった。
村の中心から歩いて数分。
家並みが少なくなり、畑を抜けると、視界が一気に開けた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
そこには、かなり広い土地が広がっていた。
緩やかな斜面。
近くには小川。
少し離れた場所には森があり、その向こうには山々が連なっている。
村から遠すぎるわけでもない。
かといって、家々が密集している場所でもない。
静かに暮らすには、ちょうどいい距離感だった。
「ここが、皆様に使用を認められた土地です」
村長が説明する。
「王国からの許可証もありますので、家を建てることも、畑を作ることも問題ありません」
「ありがとうございます」
俺は改めて周囲を見回した。
家を建てる。
畑を作る。
水場を整える。
必要なら薪を確保する。
考えることは多いが、悪くない。
むしろ、こういう生活をしたかったのだ。
「ここ、いいですね!」
唯衣が小川のそばまで歩いていく。
「水もきれいそうだし、景色も最高です!」
「確かに」
蝉丸が頷く。
「水源が近いのは大きいですね。生活用水の確保がしやすそうです」
「畑もできそうだな」
俺は土を少しだけ手に取ってみた。
場所によっては石が多いものの、工夫すれば野菜くらい育てられるかもしれない。
「俺は、家の近くに薪置き場が欲しいな」
慎之助さんが腕を組む。
「それと、酒を保管できる場所」
「酒の話に戻るのが早いですね」
「生活の楽しみは大切だぞ、蝉丸君」
「否定はしませんけど」
そんな話をしていると、村長が真剣な顔になった。
「ただし、1つだけ気をつけていただきたいことがあります」
「何でしょう?」
「森の奥には、危険な魔物が出ます。村人でも、普段はあまり近づかない場所です」
俺たちは森へ目を向けた。
木々が密集し、奥の様子は見えない。
「特に山に近い場所は、強い魔物が現れることもあります。必要がない限り、森の奥へ入らないようにしてください」
「分かりました」
俺は頷いた。
森には木材もあるだろうし、山には資源もあるだろう。
だが、今すぐ取りに行く必要はない。
危険を冒してまで急ぐことではないのだ。
「まずは、この土地で暮らすための準備ですね」
蝉丸が言った。
「そうだな。いきなり森に入るのはやめておこう」
「賛成!」
唯衣も手を挙げる。
「まずは家! それから畑! あと、お風呂!」
「風呂は重要だな」
俺は真剣に頷いた。
「トイレもだ」
「それも重要です!」
唯衣が力強く同意する。
異世界に来てから、衛生面の大切さを痛感していた。
水道もない。
電気もない。
現代日本なら当たり前に使えていた設備が、ここでは何もないのだ。
だからこそ、少しでも快適に暮らせるように工夫する必要がある。
「よし。ここを拠点にしよう」
俺が言うと、3人が頷いた。
こうして、俺たちの生活拠点が正式に決まった。
◇ ◇ ◇
とはいえ、土地が決まったからといって、すぐに家が建つわけではない。
「……さて、どうするか」
俺は広い土地を見渡した。
家を建てるには、まず材料が必要だ。
木材。
石材。
屋根材。
それに、釘や工具もいるだろう。
村でどこまで用意できるのかも、まだ分からない。
「とりあえず、村長さんに必要なものを聞いてみよう」
「そうですね。材料を調達する方法も知りたいです」
蝉丸が頷く。
「村の製材所なら、木材を加工できますぞ」
村長が教えてくれた。
「ただ、村の規模も小さいので、大量に必要となると時間がかかります。皆様がどのような家を建てるのかにもよりますが……」
「なるほど」
やはり、そう簡単にはいかないらしい。
現代日本なら、ホームセンターに行けば加工済みの木材が並んでいる。
必要な道具も大抵は揃う。
だが、ここにはそんな便利な場所はない。
「まずは、どんな家にするか考えないとな」
「私は可愛い家がいいです!」
唯衣がすぐに手を挙げた。
「窓が大きくて、明るくて、花を飾れる場所があって!」
「俺は酒を置く棚が欲しい」
慎之助さんも負けじと主張する。
「できれば、涼しく保管できる場所も欲しいな」
「私は作業場と本棚が欲しいですね。錬金術の道具を置くスペースも必要です」
蝉丸は真面目な顔で考え込んでいる。
「……みんな、注文が多いな」
「海斗さんは?」
唯衣に聞かれ、俺は少し考えた。
「俺は……そうだな」
まずは雨風をしのげること。
冬も暖かく過ごせること。
清潔な水が使えること。
それから――。
「トイレと風呂だな」
「やっぱりそこですか!」
「いや、重要だろ」
「もちろん重要です!」
唯衣が大きく頷く。
「それに、できれば台所も使いやすくしたいですね」
蝉丸が続ける。
「食料を保存する場所も必要だ。せっかくなら、長く暮らせる家にしたい」
「そうだな」
俺は頷いた。
どうせなら、日本にいた頃より不便な生活をするだけで終わりたくはない。
ここでしかできない暮らしを楽しみながら、できるだけ快適に過ごしたい。
そのためには、知恵を絞る必要がある。
「……まあ、少しずつやっていこう」
焦ることはない。
俺たちには時間がある。
そう思ったところで、慎之助さんが手を叩いた。
「よし! 今日はまず、酒場の場所を確認しよう!」
「家の話はどこへ行ったんですか!」
「いや、生活環境の調査だ」
「絶対に違います」
「蝉丸君、異世界では現地調査が重要なんだぞ」
「酒場を調査する必要性を説明してください」
「……美味い酒があるかどうか」
「やっぱりそれじゃないですか!」
唯衣が笑い、俺もつられて笑った。
こういうやり取りができるのは、ありがたい。
異世界に来てから、不安が消えたわけではない。
日本に帰れるかも分からない。
両親や祖母がどうしているのかも気になる。
それでも、今は目の前の生活を整えていくしかない。
俺たち4人で協力すれば、きっと何とかなるはずだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
俺たちは村の外れに戻り、持ってきた荷物を確認していた。
まずは、支給されたテントを張る。
大きなテントが2張り。
1つは俺と慎之助さん。
もう1つは唯衣と蝉丸が使う。
家が完成するまでの仮住まいだ。
「よし、こんなもんか」
テントの張り具合を確認する。
キャンプには慣れているので、設営自体はそれほど難しくない。
ペグを打ち、ロープを張り、風で飛ばされないように固定する。
地面の傾きも確認しておく。
「海斗さん、こっちはどうですか?」
蝉丸が声を掛けてきた。
「問題なさそうだ。そっちもいい感じだな」
「ありがとうございます。テントって、思っていたよりちゃんとしていますね」
「王国が用意してくれたものだからな。粗悪品ではないんだろう」
俺は荷物を整理した。
食料、調理器具、寝袋、毛布、衣類。
それから、道具類。
まだ足りないものは多いが、何もない状態よりはずっとマシだ。
「しばらくは、これで暮らすことになるんだなぁ」
唯衣がテントを見上げる。
「ちょっとキャンプみたいで楽しそうです!」
「最初のうちはな」
俺は苦笑した。
「雨が降ったり、寒くなったりしたら大変だぞ」
「……それは嫌ですね」
「だから、なるべく早く家を建てよう」
「はい!」
唯衣が元気よく返事をした。
その後、俺たちは小川から水を汲み、簡単な夕食を用意することにした。
食事は、道中で手に入れた食料と、冒険者たちから分けてもらったブラッドホーンベアの肉だ。
せっかくなので、焚き火で焼いて食べることにした。
肉を串に刺し、火の上でゆっくりと回す。
脂が落ちるたび、じゅうっと音がした。
「うわぁ……いい匂い!」
唯衣が目を輝かせる。
「これは酒が欲しくなるな」
慎之助さんが真剣な顔で呟いた。
「もう、それしか言わないですね」
「美味い肉には酒。これは世界の真理だ」
「この世界でもそうなんですかね……」
蝉丸が呆れたように言う。
「少なくとも、俺の中ではそうだ」
「はいはい」
俺たちは笑いながら、焼き上がった肉を皿に取り分けた。
ひと口食べる。
「……うん、美味い」
しっかりとした旨味がある。
普通の牛肉や豚肉とは違うが、噛むほどに濃い味が広がった。
魔物の肉には魔力が含まれているらしい。
そのせいなのか、独特の風味がある。
「やっぱり美味しいですね!」
唯衣が嬉しそうに頬張る。
「こんな肉が食べられるなら、魔物狩りも悪くないかもしれません」
「いや、俺たちが狩る必要はないだろ」
俺はすぐに突っ込んだ。
「危険な魔物は冒険者に任せよう。俺たちは生活を整えるのが先だ」
「それもそうですね」
唯衣は素直に頷いた。
ふと、俺はペローのことを思い出した。
「……ペローも、今頃これを食べてるのかな」
俺たちが分けてもらった肉の一部は、ペローにも渡されている。
彼は最初こそ遠慮していたが、最後には受け取ってくれた。
そして唯衣と、また会う約束をした。
「食べてるといいですね」
唯衣が静かに言った。
「怪我も、早く治るといいな……」
「そうだな」
俺は頷いた。
ペローが人間を信用していない理由は分からない。
だが、彼にも彼の事情があるのだろう。
無理に聞き出す必要はない。
いつか、彼自身が話してくれる日が来るかもしれない。
そのときまでは、そっとしておこう。
◇ ◇ ◇
食事を終える頃には、空がすっかり暗くなっていた。
焚き火の向こうには、満天の星空が広がっている。
「……すごいな」
俺は思わず見上げた。
日本でも田舎へ行けば星空は見える。
だが、ここには街の明かりがほとんどない。
空を遮る建物もない。
星の1つ1つが、驚くほどはっきり見えた。
「きれい……」
唯衣が小さく呟く。
「本当ですね。こんなに星が見えるなんて」
蝉丸も感心したように空を見上げている。
慎之助さんは、焚き火のそばで満足そうに息を吐いた。
「いやぁ、いい夜だな。美味い肉に、きれいな星空。あとは酒があれば完璧だ」
「まだ言ってるんですか」
「当然だろ」
いつものやり取りに、自然と笑いがこぼれた。
俺は火を見つめながら、これからの生活について考える。
家を建てる。
畑を作る。
水を確保する。
トイレや風呂も、できるだけ快適なものにしたい。
考えることは山ほどある。
しかも、俺たちには建築の専門知識があるわけではない。
キャンプの経験はある。
道具の使い方も、簡単な小屋の作り方も、多少は知っている。
だが、本格的な家を建てるとなれば話は別だ。
「……せめて、作り方を調べられたらな」
ぽつりと呟く。
日本にいた頃なら、分からないことがあればスマートフォンを取り出して検索すればよかった。
木材の加工方法。
家の構造。
雨漏りを防ぐ屋根の作り方。
簡単な水回りの設備。
調べれば、誰かが知識を公開しているかもしれない。
けれど、ここにはインターネットがない。
スマートフォンも、当然ながら圏外のままだ。
「……インターネット検索ができたらなぁ」
何気なく、そう口にした。
その瞬間だった。
頭の奥で、かすかな違和感が走った。
「……ん?」
痛みではない。
何かが動いたような、不思議な感覚。
俺は思わず額に手を当てた。
「海斗さん? どうしたんですか?」
唯衣がこちらを見る。
「いや……何でもない」
そう答えたものの、妙な感覚はすぐには消えなかった。
脳裏に、あの鑑定結果が浮かぶ。
誰にも読めなかった、3つの文字列。
俺自身にも意味が分からない、奇妙なスキル名。
あのときは、役に立つのかどうかさえ分からなかった。
けれど――。
「…………」
もしかしたら。
あのスキルには、まだ分かっていない機能があるのではないだろうか。
そう考えた瞬間、頭の中に、見覚えのある文字列が一瞬だけ浮かんだ気がした。
異国の文字。
読めないはずの文字。
鑑定結果に表示された、あの3つのスキル名。
「……今のは?」
目を瞬かせる。
だが、もう何も見えなかった。
「海斗さん、本当に大丈夫ですか?」
「ああ。ちょっと考え事をしていただけだよ」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
まだ、何が起きたのか分からない。
気のせいかもしれない。
疲れているだけかもしれない。
それでも、胸の奥に小さな期待が生まれていた。
もし、あのスキルが本当に何かの役に立つのなら。
この世界での暮らしは、少しだけ楽になるかもしれない。
「……頼むから、何か役に立ってくれよ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、俺は呟いた。
返事はない。
頭の中も、いつも通り静かなままだ。
けれど、あの一瞬の感覚だけは、妙にはっきりと残っていた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
明日、切り出した木材を前にして、もう1度同じ願いを口にすることになる。
そして、その言葉がきっかけとなり――。
ずっと正体の分からなかったスキルが、初めて本当の姿を現すことになるのだった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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