第19話 森の中の黒狼獣人と、隠された過去
街道沿いの詰所を出発してから、しばらく。
俺たちの乗った馬車は、再び山道を進んでいた。
盗賊たちを引き渡したことで、少しだけ気が楽になった――と思ったのだが。
「……道、悪くなってきたな」
俺は馬車の窓から外を眺めながら呟いた。
王都へ続く街道とは違い、今走っている道はかなり細い。
ところどころ地面がえぐれていて、馬車が揺れるたびに尻が浮く。
「ここから先は、辺境の中でもかなり人の少ない地域だからな」
御者席からガルドが答える。
「ネリス村までは、まだ少しかかる」
「なるほど」
俺は地図を確認した。
目的地のネリス村は、王都からかなり離れている。
王国の管理が届きにくい地域。
それだけに、盗賊だけでなく魔物や野生動物、天候、地形など、様々な危険があるらしい。
「まあ、ここまで来たら気を抜かないことだな」
ミリアが周囲を警戒する。
「森が深くなってきてる」
「魔物の数も増えるかもしれない」
ロイドが弓に手を添える。
セラも杖を持ったまま、森の奥へ視線を向けていた。
「……」
俺も黙って森を見る。
木々の間から差し込む光。
風に揺れる葉。
鳥の鳴き声。
一見すると平和だ。
だが――。
「海斗さん」
隣に座っていた唯衣が、小さな声で呼んだ。
「何?」
「さっきから、森の中に何かいる気がする」
「……何か?」
「うん」
唯衣が森を見る。
「見えないんだけど……なんとなく」
「なんとなく?」
「うん。誰かに見られてるような感じ」
「……」
俺も森へ視線を向けた。
木々が密集している。
枝と葉が重なり、その奥まではほとんど見えない。
「俺には分からないな」
目を凝らしてみる。
鳥が飛び立った。
風で木の葉が揺れた。
それ以外には、何も見えない。
だが――。
「……」
妙な感覚だけが残った。
誰かがいる。
そう断言できるほどではない。
けれど。
森の奥から、こちらへ向けられた視線があるような気がした。
俺は無意識に腰の短剣へ手を伸ばす。
「ガルドさん」
「何だ?」
「森の中、少し気になりませんか?」
ガルドが振り返る。
「どこだ?」
俺は森を指差した。
「あの辺りです」
ガルドが目を細める。
ロイドも弓を構え、森へ視線を向けた。
しばらくして。
「……何も見えないな」
ガルドが言う。
「そうですね」
ロイドも首を横に振った。
「気配も分からない」
「……」
俺は森を見つめる。
やはり何も見えない。
気のせいなのかもしれない。
そう思いかけた。
そのとき――。
森の奥。
木々の隙間から、黒い影がこちらを見ていた。
黒い髪。
頭から伸びる狼の耳。
そして、身体の後ろには黒い尾。
男だった。
年齢は20代後半ほど。
鋭い目をしている。
男――ペローは、馬車をじっと見つめていた。
「……王国」
小さく呟く。
馬車に刻まれた王国の紋章。
それを見た瞬間。
胸の奥に、嫌な感覚が蘇った。
『お前がやったんだろ!』
『知らないなんて言わせないぞ!』
『……最低だな』
誰かの怒鳴り声。
冷たい視線。
嘲笑。
そして――。
自分ではない誰かの罪を、押し付けられた記憶。
「……っ」
ペローは目を閉じた。
「もう終わったことだ」
そう呟きながら、胸元に手を入れる。
指先が、小さな古びた袋に触れた。
ずっと持ち歩いているもの。
失うわけにはいかない。
それだけは、今でも変わらない。
「人間は……」
ペローは馬車を見つめる。
「簡単には信用できない」
そう呟いた。
その直後。
ペローの耳が動いた。
森の奥から、何かの気配。
それも――。
かなり大きい。
「グルル……」
遠くで低い唸り声が響いた。
続いて。
「ガサッ!」
茂みが激しく揺れる。
複数の狼が、一斉に森の奥から飛び出してきた。
「狼?」
ペローが目を細める。
だが、普通の狼ではない。
狼たちは明らかに何かから逃げている。
「……何があった?」
ペローが立ち上がる。
次の瞬間。
森の奥から巨大な影が現れた。
「……!」
赤黒い角。
分厚い身体。
巨大な爪。
そして、血のように赤い角。
「ブラッドホーンベア……」
ペローが呟いた。
巨大な熊が、逃げる狼たちを追っている。
その身体には無数の傷がある。
明らかに興奮していた。
「こっちに来る!」
ペローは一瞬だけ馬車を見る。
そして――。
「……チッ」
舌打ちした。
このままでは馬車が巻き込まれる。
「人間は嫌いだ」
そう呟きながら。
「だが、見殺しにするほどではない」
ペローは森から飛び出した。
「グルァァァァッ!」
ブラッドホーンベアが咆哮する。
「来い!」
ペローが迎え撃つ。
爪と爪がぶつかった。
「ガァッ!」
ペローの身体が吹き飛ばされる。
地面を転がる。
「……っ!」
それでもすぐに立ち上がる。
「まだだ!」
ペローが懐へ潜り込む。
拳。
蹴り。
爪。
人間とは思えないほどの速度で攻撃を叩き込んでいく。
だが。
「硬い……!」
ブラッドホーンベアは怯まない。
巨大な腕を振り下ろす。
ペローは避けた。
地面が大きく抉れる。
「……あれ、何だ!?」
馬車が止まった。
ガルドが立ち上がる。
「魔物だ!」
「ブラッドホーンベア!」
ロイドが叫ぶ。
「誰か戦ってるぞ!」
俺も馬車から飛び降りた。
森の中を見る。
そこには――。
「狼……?」
いや。
違う。
「獣人だ!」
ミリアが叫んだ。
黒い狼の耳。
黒い尾。
俺たちが見たことのない獣人が、1人でブラッドホーンベアと戦っていた。
「助けるぞ!」
ガルドが剣を抜く。
「待ってください!」
俺が叫ぶ。
「まず、周囲を確認したほうが――」
「大丈夫だ!」
ガルドが走り出す。
「俺たちならやれる!」
「……なるほど」
こういうところは、やっぱり冒険者だ。
迷いがない。
ミリアが盾を構え、ロイドが弓を引く。
セラも杖を構える。
「援護する!」
矢が飛ぶ。
ブラッドホーンベアの肩に突き刺さる。
「グオオオッ!」
熊が怯んだ。
その隙にガルドが懐へ入る。
「今だ!」
剣が振り抜かれる。
ミリアが横から盾で熊の動きを止める。
セラの魔法が炸裂する。
「はああっ!」
ブラッドホーンベアが大きくよろめいた。
ペローも、その隙を逃さない。
「これで……終わりだ!」
鋭い一撃が叩き込まれる。
巨大な熊が地面に倒れた。
「……」
静かになった。
俺は息を吐く。
「終わった……?」
「ああ」
ガルドが剣を下ろす。
「もう動かない」
俺たちは、しばらく倒れたブラッドホーンベアを見つめた。
巨大な身体。
赤黒い角。
分厚い毛皮。
どう見ても普通の熊とは違う。
そのとき。
「……」
俺は、最初に戦っていた黒狼獣人を見る。
彼がいなければ、そもそも俺たちは魔物の接近に気付くのが遅れていたかもしれない。
「助かった」
俺は彼へ向き直った。
「あなたが最初に戦ってくれなかったら、俺たちは巻き込まれていたと思います」
獣人は黙っている。
「俺たちを守るために戦ってくれたんですよね?」
「……別に」
「それでも、本当にありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「助けてもらいました」
唯衣も続く。
「ありがとうございました」
慎之助も頭を下げる。
「いやあ、本当に助かった。あんなのが馬車まで来てたら大変だったよ」
ペローは少し驚いたように俺たちを見る。
まさか礼を言われるとは思っていなかったのかもしれない。
「……礼なんていらない」
「そう言われてもな」
俺は苦笑した。
「助けてもらった以上、ちゃんとお礼は言わせてください」
「……」
ペローは何も答えなかった。
そのとき。
ガルドが倒れたブラッドホーンベアを見る。
「さて……」
ガルドが剣を収めた。
「こいつの素材をどうするかだな」
「素材?」
俺が聞くと、ガルドが頷く。
「ああ。魔物は種類によって、角や毛皮、牙、肉なんかが売れる」
「なるほど」
俺はブラッドホーンベアを見る。
「それなら、素材を回収するんですよね?」
「ああ」
ガルドが答える。
「基本的には討伐した冒険者側に権利がある。今回なら、俺たちのパーティーが討伐した魔物だからな」
「……」
俺は少し考えた。
そして。
「ガルドさん」
「ん?」
「お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「その……肉を少し分けてもらえませんか?」
「肉?」
「はい」
俺はブラッドホーンベアを見る。
「さっき、ペローさんに助けてもらったので。そのお礼というわけじゃないんですけど……せっかくなら、みんなで食べてみたいなと思って」
「なるほど」
ガルドは笑った。
「そんなことなら構わないぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
ロイドも頷く。
「俺たちだけで全部食べるつもりもないしな」
「肉なら、結構な量が取れると思います」
セラも笑う。
「少しくらいなら問題ありません」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げる。
「ただ――」
ガルドがペローを見る。
「この人にも分けたほうがいいんじゃないか?」
「……」
ペローが顔を上げる。
「俺はいい」
「そう言うと思ったよ」
ガルドが苦笑する。
「だが、あんたが最初に戦っていたのも事実だ。少なくとも肉くらいは受け取ってくれ」
「……」
ペローは少し考える。
「……なら、少しだけ」
「決まりだな」
ガルドが頷いた。
「解体して、肉を分けよう」
「ありがとうございます」
俺は改めて頭を下げた。
これなら誰かの権利を奪うことにもならない。
冒険者たちが討伐報酬を得る。
そのうえで、俺たちは好意で肉を分けてもらう。
そしてペローにも、彼の分が渡る。
それが一番自然だろう。
「じゃあ、解体を始めるぞ」
ガルドたちが準備を始める。
俺も手伝う。
こういう作業は、キャンプの経験が少し役に立つ。
「海斗さん、解体できるの?」
唯衣が驚く。
「動物を捌いた経験くらいはある」
「すごい……」
「都会育ちでも、キャンプやってると多少はな」
慎之助が手を挙げる。
「俺も何か手伝うぞ」
「じゃあ肉を運んでください」
「任せろ」
「食べる分だけ持っていかないでくださいね」
「信用ないなぁ」
「今までの言動のせいです」
「反論できない!」
そんなやり取りをしながら、解体が進んでいく。
角。
毛皮。
爪。
そして大量の肉。
魔物の身体は、想像以上に大きかった。
「これだけあれば、しばらく食べられそうだな」
俺が言う。
「だな」
ガルドも頷く。
「肉は俺たちの分、村へ持っていく分、それからペローの分に分けておく」
「ありがとうございます」
その横で。
ペローは少し離れた場所から、俺たちの様子を見ていた。
「……」
自分が倒した魔物。
その肉を巡って、奪い合うこともない。
勝手に持っていくこともしない。
最初に討伐権を持つ者を尊重し、そのうえで必要なものを分け合っている。
「……変な奴らだ」
小さく呟く。
だが。
嫌な感じはしなかった。
むしろ――。
ほんの少しだけ。
昔にはなかった、奇妙な安心感があった。
そのとき。
「……おい」
ペローが自分の左腕を見る。
傷口から、また血が流れていた。
「怪我してるじゃないですか」
唯衣が気付いた。
「近づくな」
ペローが低い声で言った。
唯衣が止まる。
「……でも」
「大したことない」
「血が出てるよ?」
「これくらい、どうってことない」
ペローは傷を押さえる。
だが、その顔には明らかに痛みが浮かんでいた。
「治療くらい受けたほうがいい」
俺が言う。
「必要ない」
「いや、必要だろ」
「人間に助けてもらうつもりはない」
「……」
俺はペローを見る。
敵意。
警戒。
そして――。
何かを恐れているような目。
「どうして、そこまで人間を嫌うんです?」
俺が聞いた。
「……」
ペローの表情が固まった。
そして。
「人間は……簡単には信用できない」
それだけだった。
ペローは踵を返す。
「待って!」
唯衣が声を掛けた。
「名前だけでも!」
「……」
ペローが振り返る。
「ペロー」
「ペロー……」
唯衣がその名前を繰り返す。
「それだけだ」
そう言って、森の中へ戻ろうとする。
「待て!」
ガルドが呼び止める。
「せめて傷の手当てくらい――」
「必要ない」
ペローは振り返らなかった。
そのまま木々の向こうへ消えていく。
「……行っちゃった」
唯衣が寂しそうに呟いた。
「追わないのか?」
慎之助が聞く。
「追ったところで、今の状態じゃ警戒されるだけでしょう」
俺は首を横に振った。
「それに、本人が嫌がっている」
「まあな」
慎之助も頷く。
「でも、あの怪我……大丈夫かな」
「獣人は身体能力が高い種族も多い」
ガルドが答える。
「それに、あの動き。かなり強いぞ」
「そうなんですか?」
「ああ」
ガルドは森を見る。
「少なくとも、そこらの冒険者より強い」
「……」
唯衣が心配そうに森を見つめている。
「また会えるかな」
「分からない」
俺は答えた。
「でも――」
なぜか。
俺は、もう一度会う気がしていた。
あの目。
人間を警戒している目。
王国の紋章を見たときの反応。
何かを思い出したような表情。
そして、あの古びた袋。
「……何かあったんだろうな」
「海斗さん?」
「いや」
俺は首を振った。
「何でもない」
今は、無理に聞くことじゃない。
ペローが話したくなったとき。
そのときに聞けばいい。
「それより、出発しましょう」
俺たちは再び馬車へ乗り込んだ。
御者が手綱を握る。
馬車がゆっくり動き始める。
森の中。
ペローは木の陰から、その様子を見ていた。
「……」
馬車が遠ざかっていく。
その手は、無意識に古びた袋を握っている。
「……王国の人間か」
胸の奥に、また嫌な記憶が蘇る。
怒鳴り声。
冷たい視線。
誰かの笑い声。
そして――。
自分ではない誰かの罪を背負わされた、あの日。
「……もう、あの頃には戻らない」
ペローはそう呟いた。
だが。
まだ知らない。
あの馬車に乗っていた人間たちと。
自分が、再び出会うことになることを。
そして。
その中の1人――武藤唯衣が。
自分の閉ざしていた心に、少しずつ踏み込んでくることになることを。
今のペローには。
まだ、それを知る由もなかった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
もしよろしければ、ブックマークと評価の方もよろしくお願いいたします。




