第09話 初めての本格的な魔物と、騎士の強さ
――ズシン。
地面が、もう一度揺れた。
「……何だ?」
俺は足を止めたまま、森の奥を見つめた。
さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声が、いつの間にか消えている。
周囲の空気まで変わったように感じた。
「全員、その場から動かないでください!」
先頭の騎士が叫ぶ。
それに合わせるように、周囲の騎士たちが一斉に隊列を組み直した。
剣を抜く者。
盾を構える者。
後方を確認する者。
さっきまでとは明らかに違う。
その動きには迷いがなかった。
「……海斗」
唯衣が小さな声で俺を呼ぶ。
「ああ」
「何かいるよね?」
「たぶんな」
俺も無意識に拳を握った。
昨日の灰色狼。
さっきのホーンラビット。
これまでにも魔物は見た。
だけど。
今までとは、騎士たちの反応が違う。
それだけで分かる。
今度の相手は、簡単な魔物じゃない。
「来ます!」
誰かが叫んだ。
森の奥から――。
木々をなぎ倒しながら、何かが飛び出してきた。
ドンッ!
「うわっ!」
思わず声が出る。
現れたのは、巨大な猪だった。
いや。
猪と言っていいのか分からない。
全長は二メートル近くある。
頭には大きな角のような牙。
全身を覆う毛は黒褐色で、ところどころ硬そうな突起まである。
「魔物です!」
騎士の一人が叫ぶ。
「ブラッドボアだ!」
「ブラッドボア……」
慎之助さんが呟く。
「名前からして嫌な予感しかしねえな」
「同感です」
蝉丸も珍しく緊張した声を出した。
ブラッドボアは俺たちを見ると、低く唸った。
「グルルル……」
その目が赤く光ったように見えた。
「転移者の皆さんは、絶対に前へ出ないでください!」
騎士が叫ぶ。
「この魔物は私たちが対処します!」
「でも……」
俺が言いかける。
その瞬間だった。
「来るぞ!」
騎士の声。
ブラッドボアが地面を蹴った。
「――ッ!」
速い。
巨大な身体からは想像できない速度だった。
ドドドドドッ!
土を巻き上げながら、こちらへ一直線に突っ込んでくる。
「盾!」
騎士たちが前へ出た。
ガンッ!
巨大な衝撃音が響いた。
「ぐっ……!」
一人の騎士が吹き飛ばされる。
続いて別の騎士も押し込まれた。
「すごい……」
俺は思わず息を呑んだ。
騎士たちは強い。
そう思っていた。
けれど。
あの巨体を真正面から止めるのは簡単ではないらしい。
「海斗、下がって!」
唯衣が俺の腕を掴む。
「ああ」
俺たちは後ろへ下がった。
ブラッドボアは一度騎士たちを押し退けると、再び地面を蹴った。
「まずい!」
今度は――。
隊列の横を抜けようとしている。
「そっちには人が!」
俺たちの後ろには、大勢の転移者がいる。
疲れている人。
子供。
女性。
戦える人間なんて、ほとんどいない。
「止めろ!」
騎士たちが追いかける。
ブラッドボアが迫る。
俺は反射的に前へ出ようとした。
「海斗!」
唯衣の声。
だけど。
俺は止まらなかった。
昨日の狼とは違う。
この巨体を殴ればどうなるか分からない。
そもそも、俺が戦う必要なんてない。
騎士がいる。
そう思った。
だからこそ――。
俺は足を止めた。
ブラッドボアの進行方向を見て。
騎士たちの動きを見る。
「……あ」
一人の騎士が、横から回り込んでいた。
「そこだ!」
騎士が剣を振り上げる。
ブラッドボアが方向を変えた。
その瞬間。
別の騎士が盾を構えて突っ込む。
「――はあっ!」
ドンッ!
盾とブラッドボアが激突した。
今度は騎士が吹き飛ばされなかった。
ブラッドボアの勢いが止まる。
「今だ!」
別の騎士が横から斬り込んだ。
ザシュッ!
「グオオオオッ!」
ブラッドボアが悲鳴を上げる。
さらに二人。
三人。
騎士たちが連携して攻撃を加えていく。
やがて――。
巨大な身体が、ゆっくりと地面へ倒れた。
ドォン……。
静かになった。
「……倒した」
誰かが呟く。
俺も、しばらく動けなかった。
さっきまで目の前で暴れていた巨大な魔物。
それを、騎士たちは見事に仕留めた。
「すげえ……」
慎之助さんが感心したように呟く。
「これが騎士か」
「はい」
蝉丸も頷いた。
「昨日の灰色狼とは、まったく違いますね」
「でも、結構苦戦してたよな」
「それだけ危険な魔物ということでしょう」
その時。
先ほど盾を構えていた騎士がこちらへ歩いてきた。
「皆さん、お怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
俺が答える。
騎士はほっとしたように頷いた。
「よかった」
「今の魔物って、かなり強いんですか?」
「ええ」
騎士は倒れたブラッドボアを見る。
「ブラッドボアは、この辺りでは危険度の高い魔物です。普通の村人ではまず対処できません」
「なるほど……」
「ただ、幸い今回は数が一体でした」
そう言ってから、騎士は苦笑した。
「これが群れだったら、私たちもかなり苦戦していたでしょう」
「群れになることもあるんですか?」
「あります」
「……」
俺は何も言えなくなった。
この世界。
思っていた以上に危険かもしれない。
◇
その後、騎士たちはブラッドボアを処理することになった。
「食べるんですか?」
唯衣が聞く。
「もちろん」
騎士が笑った。
「魔物の肉は貴重な食料になります。特にブラッドボアは肉質が良く、人気がありますよ」
「へえ……」
唯衣の目が輝く。
「海斗」
「何だ?」
「今日の夕飯、楽しみだね」
「さっき食べたばかりだろ」
「でも、これは別だよ」
「そういうものか?」
「そういうもの」
よく分からない。
けれど、唯衣が楽しそうなので俺も少し笑った。
一方。
慎之助さんは別のところを見ていた。
「……肉」
「どうしました?」
蝉丸が聞く。
「いや」
慎之助さんは真剣な顔で言った。
「ブラッドボアの肉に合う酒って、どんな酒なんだろうな」
「結局それですか」
「重要だぞ」
「はいはい」
蝉丸が呆れている。
俺も苦笑した。
この人は本当に変わらない。
異世界に来ても。
魔物に襲われても。
酒のことを考えている。
ある意味、すごい。
◇
夕方。
ブラッドボアの肉を焼く準備が始まった。
大きな肉を切り分け、火にかける。
香ばしい匂いが辺りに広がっていく。
「……これは」
俺は焼けていく肉を見ながら呟いた。
ホーンラビットの肉も美味かった。
でも。
これは明らかに違う。
肉から出る脂。
香ばしい匂い。
そして――。
一口食べる。
「……うまい」
「でしょ?」
唯衣が嬉しそうに笑った。
俺はもう一口。
噛むほどに旨味が出てくる。
ただの豚肉とは違う。
なんというか。
肉そのものに力があるような味だった。
「魔物の肉って、こんなに美味しいのか……」
蝉丸も感心している。
「やはり魔力の影響でしょうか」
「魔力と味って、本当に関係あるんだな」
俺が言うと、騎士が笑った。
「魔物の肉には『魔味』がある、と料理人たちは言います」
「魔味?」
「ええ。甘味、塩味、酸味、苦味、旨味とは別のものだ、と」
「そんな味覚が……」
俺は思わず肉を見る。
この世界には、まだ知らないことが多すぎる。
魔法。
スキル。
レベル。
魔物。
そして、魔味。
日本で暮らしていた頃には、一度も聞いたことのない言葉ばかりだ。
「……面白いな」
「海斗、楽しそう」
唯衣が笑う。
「そう見える?」
「うん」
俺は少し考えてから答えた。
「まあ……知らないことばかりだからな」
怖くないと言えば嘘になる。
日本に帰れるかどうかも分からない。
この先、何が起こるのかも分からない。
それでも。
知らない世界を少しずつ知っていくことには、妙な楽しさがあった。
◇
食事を終えた頃。
辺りはすっかり暗くなっていた。
今日も野営だ。
まだ王都までは距離がある。
明日も歩く。
明後日も歩く。
そして、その先に王都がある。
「明日も歩くのか……」
慎之助さんが地面に座り込みながら呟いた。
「まだ二、三日はかかるんですよね?」
「この人数では、そのくらいは必要でしょう」
騎士が答える。
「うへぇ……」
「文句言わないでください」
蝉丸が笑う。
「これでもかなり安全に進めているんですから」
「分かってるって」
慎之助さんは空を見上げた。
「……でも酒は欲しい」
「そこに戻るんですか」
俺たちは思わず笑った。
笑い声が夜の草原に響く。
ほんの少し前まで。
俺たちは飛行機の中にいた。
普通に日本へ向かっていた。
それが今では。
魔物の肉を食べ。
異世界の騎士たちと一緒に野営している。
人生、何が起こるか分からない。
俺は夜空を見上げた。
日本で見ていた星空とは、少し違って見えた。
知らない星。
知らない世界。
知らない人生。
「……明日は何が起こるんだろうな」
誰に言うでもなく呟く。
その答えを、俺はまだ知らなかった。
翌日。
俺たちは、王都へ向かう途中で――。
初めて、この世界の人々が暮らす場所を目にすることになる。
いつも読んでいただきありがとうございます。
もしよろしければ、ブックマークと評価の方もよろしくお願いいたします。




