第7話 わたしにできること
白色だった日は橙色に変化して、あたりを同じ色に染めながら木々の向こうへと沈んでいく。
地界はだんだんと青く、暗くなっていく。静けさと共に母なる闇が姿を現す。ゆらゆらと漂っていた、どこまでも届きそうな花の香りが濃くなっていく。
日の光の眩しさの代わりに、星神様方の優しい光が部屋の中に差し込んだ。
開いた窓から入った遠慮がちな冷たい風は、そっと、黒いカーテンとわたしの白金の髪を揺らす。ベッドに腰掛けて、今日も星神様の時間がやってきたと息を吐く。
何か、静かすぎるような気がした。虫の声も、鳥の声も、村の人々の声も聞こえない。まだこの時間は起きて夕食の準備をしているはずなのに、皆、どうしてか息を殺している。
薄暗さに慣れた目で東の空を見上げると——あるはずの位置に、あるはずの金色の光がなかった。
心臓がどくんと嫌な音を立て、指先はあっという間に冷たくなる。瞬きをしてみても、ぐるりと見回してみても、ない。震える手で掴んだ反対の手は、しっとりと湿っていた。
「ファミニア、さま?」
そのお名前を呼んだって、ファミニア様がお姿を見せてくれるなんて都合のいいことは起こらない。
ふと、昨日まではなかったはずの白色の光に気づいた。
それはどの星神様よりも大きく、強く輝き、今すぐにでも落ちてきてしまいそうなほど近くに在られる星神様。
——こわい。
ぎらぎらとわたしを照らすその異様なお姿が、こわい。
そして同時に、どこか寂しいものを感じた。ただ一柱、仲間はずれにされているようだった。
「……ファミニア様」
そうだ、ぼんやりとその星神様を見つめている場合ではない。
わたしは慌てて窓を閉めて、一階にあるリビングへと駆け出した。静かに歩こうねと注意されてしまうかもしれないが、今は知らない。
踏み外しそうになりながらも階段を降りて、ユズノード様とそろって小さな驚きを向けてくるお兄様へ。
「ソルダお兄様! ファミニア様が……!」
その黒いケープに縋り付く。すると、優しく肩を掴まれて、金色の瞳と目が合った。お兄様は真正面からわたしを映して、あくまでいつも通りの声色で言う。
「落ち着いて、ウィラ。今日は星神〈ファミニア〉の朔だ」
「朔……?」
わたしの疑問に答えたのは、ソルダお兄様が羽織っているものと同じ色のコートをまとったユズノード様だった。その手には黒い鞘に入った銀色の鍔の長剣が握られている。
「星神の加護の力と明るさが弱まる日のことです。ウィラさんは決してこの家から出ないように。月狼に襲われたくはないでしょう?」
「その、月狼というのは……」
「ソルダさんあなた教えていなかったのですか?」
目を見開いたユズノード様は、勢いよくソルダお兄様を見た。当の本人はあからさまに視線を逸らした。
「まあいいです。空は見ましたか。月神が出ていたでしょう」
「白くて丸くて大きくて、その……こわい雰囲気の星神様ですか?」
ユズノード様は静かに頷く。その表情は無を映しているはずなのに、どこか怒っているようにも見えた。
「あれは地界に近づきすぎた星神だったもの——月神です。月神は星神の加護の力が弱まったときに襲ってきます。月神に従う獣、それが月狼です。詳しい説明はまた後日、私は行きます」
どこへ、行くのだろう。
いや、わかっている。襲ってくるという月狼と戦いに行くのだろう。その剣で戦うのだろう。
……大丈夫、なのだろうか。怪我はしないだろうか。戦っていれば怪我をしない方が難しいのかもしれないけど、それでも、傷ついてなんてほしくない。
青い瞳を見つめていたら、浮かんでいた覚悟のようなものがほんの一瞬だけ揺らいだ気がした。
「……村を守らなければいけませんので」
そうするのが当たり前というように伸びてきた手が、わたしの頭に触れる直前で止まる。数秒その状態で固まって、ユズノード様の手はそっと離れていった。
玄関に視線が向けられるまでのわずかな時間、彼が見ていたのはわたしであってわたしではなかった。
「俺も行くから」
やっぱりか、と思った。いつもより動きやすさに重点を置き、今にも外に出ていけそうな服を着ているから。勘違いであってはくれなかった。
ユズノード様は、玄関の壁に立てかけられていたもう一つの長剣を取って、投げ渡す。軽々と片手で受け取ったお兄様は小さく笑い、闘志をちらつかせた。
「どうなっても知りませんよ」
「これでも剣の腕には自信がある」
「そうですか」
先に行きますと出ていった彼の背から視線を移して、ソルダお兄様と向き合う。
行かないでください。ここにいてください。一緒にいてください。そうやって言ってしまいたい。
だけど、これはわたしのわがままでしかない。言えるはずがないし、言いたくもない。
唇を噛んで、それでも視線を逸らさないように努める。
「ウィラ、君は絶対にここから出ないで」
「ですが、」
お兄様は行くのですよね。その言葉は口に出せなかった。
「絶対に、出ないで」
声の大きさは変わらなかったけど、込められた意味の強さが違った。
ソルダお兄様がここまで言うのはわたしを守るため。戦う術を持たないわたしが付いていったところで、足手まといになるだけと決まっている。だから絶対に、一緒に行くということは許していただけないだろう。
最初からそうと決まっているのだ。お兄様を困らせたくなかったら、素直に頷くしかない。
「……はい」
気づけば、お腹の前で硬く組んでいる自分の両手を見つめていた。
すると、頭に確かな暖かさが触れる。わたしが不安がっているときにいつも安心させてくれる手の効果は絶大だった。
言ってしまえばたったそれだけのことなのに、呼吸が少し楽になる。
「行ってくる」
離れていく手を引き止めてしまわないように、手で手を押さえる。
「行ってらっしゃいませ」と言えたのは、ソルダお兄様が扉の向こうに消えて、気配が遠ざかっていってからだった。
ろうそくの火がゆらゆらと揺れ、わたしの影もゆらゆらと揺れる。ぎゅっと目を瞑って、胸の前で両手を組み直す。
獣が唸る低い声、固いものがぶつかり合う甲高い音、何かを断ち切るような恐ろしい音……時折、小さく聞こえるのは、剣が風を切る洗練された音。
静まり返った家に絶えず届くのは、ソルダお兄様とユズノード様が戦い続ける音だけ。
わたしには、二人の無事を祈ることしかできない。息を殺して待つことしかできない。
ファミニア様、どうか、二人を——……本当に、わたしにはこれだけしかできないのだろうか?
ふと頭によぎったのは、ファミニア様の御殿の〈捧げの間〉で、テンヴィスお兄様とお話ししたことだった。
『テンヴィスお兄様、その舞はどのようなものなのですか?』
お兄様はこのとき、星界儀と共に浮かぶ星神の杖を使った舞を見せてくださったのだ。
どこまでも届きそうで、どこまでも力に満ちていて、どこまでも目が離せない。まるで星神様のような舞に、わたしはひどく心を動かされた。
『これは〈想いの舞〉と言ってな、星界儀の下で捧げることによって、星神様のお力になれたり、星神様に頼らずともそのお力を再現できたりするものだ』
『〈想いの舞〉……』
これ以上ないほどにぴったりな名前だと思った次の瞬間、口走っていた。
『わたしも舞えるようになりたいです』
『やってみるか? ウィラならもしかすると私よりも上手くできるようになるかもしれない』
わたしとは違う銀色の瞳を嬉しそうに細めて、テンヴィスお兄様は手取り足取り教えてくださった。
〈想いの舞〉を舞うことなら、わたしもできる。
瞼を開いて、二階の部屋へと駆け出した。
必要なのは星神様の使いとしての正装、地界に降りたあの日着ていたものがそれだ。棚の中に綺麗に畳んでおいていたものを引っ張り出して、身にまとう。
袖の部分が太くなった真っ白なワンピースと、同じ色のズボン。裾の方にあしらわれている星神様を表す金色の模様が隠れないようにして、へその上の位置で帯を結ぶ。
背筋を伸ばして、一度大きく深呼吸。
わたしは星神〈ファミニア〉の三番目の使い。大丈夫、わたしならできる。より良いと思える選択を、わたしならできる。きっと、ファミニア様もそう言ってくださるから。
静々と部屋を出て、階段を降りて、ろうそくの明かりに照らされたリビングを見回す。
木でできた暖かみのあるテーブル、引いたままにされている灰色の椅子、等間隔に食器が入っている背の高い棚、青い花が咲く植木鉢……ゆらゆらと揺れるその影たちは、わたしを応援してくれているようだった。
リビングの中央にあるろうそくの火を吹き消して、玄関の扉に手をかける。
「……ごめんなさい、ソルダお兄様」
ゆっくりと取っ手を引き、一歩、外へと踏み出した。
近くに感じる得体の知れないこわい気配、これが月狼なのだろう。
見上げた空には月神様が浮かんでいる。周囲にほかの星神様も在られるにもかかわらず、ぽつりと、孤独に輝いている。
先ほどよりもずっと大きく聞こえるのは獣の唸り声だった。何かに怒っているように、何かを怖がっているように、低く這うようなその声に思わず身体が震えてしまう。
だけど、立ち止まっている暇はない。ソルダお兄様とユズノード様が戦っているのだから、早くしなければ。
剣が風を切る力強い音に背中を押されて、わたしは村の中心へと向かった。
銀色の輪が三重、中心には水晶の玉、それらを貫くようにして金色の矢印が東の空を指している。ファミニア様は、そこに在られる。
わたしはそちらを向いて、左胸に手を当て、腰から折るようにして……。何度も、何度も、何度も、お兄様方に付き合っていただきながら練習を重ね、ファミニア様から褒めていただけるようになった礼の姿勢をとる。
そして、身体中に響く心臓の音を受け入れて。
「お借りします」
星界儀の下に浮かぶ銀色の星神の杖に、触れた。
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