第2話 わたしたちの主の名前
川沿いを歩くこと十分ほど、背の高い木々に隠されていた煙の正体が見えてきた。
それは、等間隔で集落を囲むように配置されているかがり火だった。星神様とはまた種類の違うふうにずっと見ていられそうな橙色は、夜の闇の中でゆらゆらと揺れている。
その一回り内側には、人が通る隙間もないほどぎっしりと並ぶ木製の杭。天を鋭く刺して、ソルダお兄様が腕を伸ばしてようやく届く高さのそれは、まるで何かから集落を守っているようだった。
ぱちぱちと小さく爆ぜる音、どこか懐かしさを感じる木の燃える匂い。それらにはまだ少し距離がある。わたしたちは、円形になっている集落の周囲の木々に隠れて歩いていた。
木の枝や木の葉が散らばる中を当たり前のように最小限の足音だけで歩くソルダお兄様。わたしは、そのひるがえる白いシャツの裾を追うので精一杯。
指先どころか、体の芯まですっかり冷えてしまって、だけど、吐く息はじわりと暖かくて。それは不思議と苦痛ではなくて、むしろ少し楽しんでいる自分もいて。
そんなことを考えながら歩いていたら、ソルダお兄様が足を止めたことに気づくのが遅れた。ぶつかる直前で踏みとどまり、いかにも何事もなかったという風にして、お兄様の耳元に近づいて問いかける。
「どうされましたか……?」
視線で示されたのは、かがり火のそばに立つ一人の男性だった。金属が先端についた槍を持って、黒いズボンと同じ色のフードがついた丈が長めの上着を羽織っている。
杭の途切れたところ——出入り口をふさぐようにしているその人は、この集落を守っているようだった。
レンガでできた建物が所狭しと並ぶ街ならまだしも、この規模の集落に門番がいるなんて……。少なくとも、わたしが知っている集落にはいなかったはずだ。
「……この集落には、何かあるのでしょうか」
「おそらくはね」
ソルダお兄様も同じ考えに至ったようだった。そして、じっと門番の男性の方を見ること数十秒。その切れ長の金色の瞳にはきっと、男性ではなく、ものすごい速度で加速する思考が映っている。
ふと、ずっと同じ位置にあった視線が動いた。そろそろ声をかけても良さそうだ。
「行かないのですか?」
振り返りざまにわたしの頭を一撫で。ソルダお兄様の手はわたしのそれと違ってじわりと暖かい。
「いや、行く。だけどその前に確認するよ。いい、ウィラ」
闇の中でも見失うことのない金色の瞳は、真っ直ぐとわたしを映す。その真剣な色に呑まれて、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「俺はソルダ・ファミニア。そして君はウィラ・ファミニアだ」
そのあくまで淡々としている言葉をすぐに理解することはできなかった。炎がゆらりと揺れる音、辺りから聞こえる控えめな虫の声。目の前には、変わらない金色がふたつ。空一面に広がる星神様方の光を反射して、静かに輝いていた。
「……ファミニア様のお名前を使わせていただいてよいのでしょうか?」
率直な疑問だった。お名前を使わせていただくことは、すなわちそのご加護をいただきたいと願うこと。ご加護は、お力を分けられる星神様とそれを願う者とが双方向に同意して、初めていただけるものだ。
星神様の使いともあろう者が、直接お聞きせずにご加護を願うというのは、あまりよくないことではないのだろうか。
ソルダお兄様は大きく頷いて、ずっと淡々とした声で言う。
「本当はファミニア様に確認を取った方が良いけど、今回ばかりは仕方がない。俺たちを身ひとつで旅に出したんだ。これくらいは許していただけるさ」
その言葉からはどこか皮肉げなものを感じた。もしかすると、わたしの認識以上にファミニア様へ思うこと、言いたいことがあるのかもしれない。そしてきっと、ソルダお兄様のそれをファミニア様は苦笑しながらも最後まで聞くのだろう。
「ソルダお兄様……」
「何?」
すぐさま返ってきた強めの語気は、暗に、これ以上追求するなと言っていた。だから、「三番目のわたしにはないその信頼関係が羨ましい」と、すぐそこまで上がってきていた言葉を微笑みの下に隠した。
「いえ、何でもありません」
「そう。……確認の続きだけど、俺たちが星神〈ファミニア〉の使いだということは、真正面から明かすよ」
確かにファミニア様のお名前を使わせていただく以上そうなるだろうと思っていたけど……。
「これ以外、夜にこんな格好で森から出てきたことを説明できる気がしない」
「確かに……事実としてもそうですからね。ですが、その、大丈夫なのでしょうか? わたしたちが星神様の使いだと知って、何か悪いことをしてくる人もいるのでは……?」
ソルダお兄様は先ほど、何よりも怖いのは人だと、そう言っていたはずだ。冷え切った左手を同じ温度の右手で握る。視線がだんだんと下がっていく。すると、名前を呼ばれた。
ゆっくりと見上げたソルダお兄様はいつも通りの凪いだ表情をしていて、握りしめていた手からほどよく力が抜ける。
「こればかりはファミニア様を信じるしかないよ。俺たちをあの場所に降ろしたのだって、何かしらのお考えがあってこそだろうから」
「……はい」
暖かい手に手を取られて、「行くよ」とただひとこと。ソルダお兄様に続いて、門の方へと近づく。突然、ぱきり、と何かを踏んだ音が響く。お兄様の足元には折れた木の枝が落ちていた。
わかりやすく音を立てたのはもちろん意図的なものなのだろう。当然ながら門番の男性に気づかれた。
「誰だっ!?」
「っ、ソルダお兄様」
槍の切っ先がわたしたちの方を向く。自分の喉から悲鳴にならない音が出る。ソルダお兄様の左腕に縋り付く。
嫌なほど大きい心臓の音、じわりと出てくる冷たい汗、思い通りに止めることなんてできない震え。
わたしという存在が許されていないような、そんな怖い感覚に引き摺り込まれてしまいそうなところを、ソルダお兄様の暖かい手が繋ぎ止めてくださった。
足元を見て、一度静かに深呼吸をして、わたしは門番の男性に視線を向けた。彼はその亜麻色の瞳を大きく見開いて、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で呟く。
「男と、……女の子?」
そのあっけに取られたような表情と雰囲気に、怖いものはもう見えなかった。縋り付いていたソルダお兄様の腕からそっと離れる。
お兄様はこの場から一歩も動かず、わたしと繋いでいない方の手をゆっくりと横に広げた。
「まず、このような時間に突然訪れたことをお詫びする、申し訳ない」
そして左胸に手を当てて、浅く礼の姿勢を取る。わたしは慌ててそれに倣った。
敵意はないと判断したのか、男性は、こちらに向けていた槍の刃を上にして地面に突き立てる。
「あ、ああ。……それで、あんたたちは何者だ?」
一切動じることのないソルダお兄様は、すべてを予測しているようだった。ファミニア様やわたしたちと接するときと同様に、その表情も声色も、立ち振る舞いが落ち着いている。
「俺たちは星神〈ファミニア〉の使いだ。俺はファミニア様の一番目の使い、ソルダ・ファミニア。こっちが……」
「ふぁ、ファミニア様の三番目の使い、ウィラ・ファミニアと申します」
門番の男性の瞳は、かがり火と星神様方の明かりだけでもわかるほど、亜麻色の瞳を揺らしていた。ぱくぱくと口を開いては閉じて、震えながらもわたしたちを指差して。
「ふぁみにあ……さま?」
わたしたちの主の名前を口にした。
繋いでいるソルダお兄様の手に、わずかに力が込められたのがわかった。わたしはそっと握り返して、その横顔をこっそり窺う。毎日接しているからこそわかるくらいの緊張が浮かんでいた。
お兄様に声をかけようとしたちょうどそのとき、集落の中から第三者の足音が近づいてくる。かがり火に照らされてだんだんと見えてきたその人は、さらりと揺れる金色の長髪と明けの空のような青い瞳を持つ、綺麗な男性だった。
無という感情を映している彼は、わたしたちに視線を向けたあと門番の男性へ問いかける。
「ベルル、騒がしいですよ。何事ですか」
身震いするような夜風がさらった金色には見覚えがあった。まだそんなに時間は経っていないはずなのに、ひどく懐かしさを感じる。
その男性の髪の色は、ファミニア様のそれとよく似ていた。




