第1話 正しく畏れ、正しく敬う
そこには、星空があった。
母なる闇に浮かぶ星神様方——純粋な白い光、燃えるような赤い光、やわらかい橙の光、孤高な青白い光。東の端で一際輝くあの金の光は、見紛うことなくファミニア様だ。
数えきれないほどの星神様方が在られる星界を、今のわたしは見上げることしかできない。空を差すように立つあの木々の頂点に立ったとしても、それは変わらないことなのだろう。
あふれる涙は重力に従って、頬から首へと伝っていく。ぬるかったそれは、あっという間に空気と馴染んだ。真っ白なワンピースの袖から出る手は、指先からだんだんと冷たくなっていく。
わずかに開いた唇から暖かい息をこぼして、今度は鼻から空気を吸い込んで。身体中に冷んやりしたものが巡ると同時に、上品で甘くて、どこまでも届きそうなほど高い、くすくすと微笑んでいるような香りがした。
久々に吸い込んだ花の香りは、体中の緊張をほどいて、止まらなかったはずの涙をあっという間に止めてみせた。
そのとき、ざあ、と木の葉たちのうわさ話が聞こえた。直後に真横を駆け抜けた風は、わたしの白金の髪を揺らして去っていく。
残ったのは、一定に流れる水の音だった。その正体は、二十歩ほど離れた位置にある小川。ソルダお兄様なら、思い切り勢いをつけて飛び越えられてしまいそうだ。
左隣に立っているソルダお兄様は、ファミニア様が在られる東の空を見つめていた。軽く口を引き結んで、眉を下げたその表情に浮かぶ感情はよくわからなかった。ただ、ファミニア様を想っているということは確かだと思った。
「ソルダお兄様は……その、よかったのですか」
わたしを映したその金色の瞳は、もう揺れてはいなかった。
「何も考えなかったら、俺だって旅になんて出たくなかったよ」
「でしたら、なぜ……。わたし一人で旅に出ることもできたと思うのですが」
一番目のソルダお兄様が全力で拒否すれば、さすがのファミニア様も考え直すことをしただろう。
小さく目を見開いたソルダお兄様はぴたりと動かなくなったあと、大きなため息を吐いた。
「あまりにも自己評価が低いのは考えものだね」
「自己評価が低い……ですか?」
この言い方だとわたしのことを言っているのは間違いないのだろう。だけどそんな自覚はないし、たとえそうだったとしても、そこまで大きく頷かれるほどではないと思う。
「俺はファミニア様の一番目の使いで、ウィラはファミニア様の三番目の使い。そして君は俺を『お兄様』と呼ぶ。それがすべてさ」
……その事実がどうつながるのだろうか。左下に視線を向けて、口元に手をやって考えてみてもよくわからなくて、わたしは首を傾げるしかなかった。
「……わかってなさそうだね」
「申し訳あり——」
とっさに出てきた謝罪の言葉は、頭に乗せられたソルダお兄様の手によって止められた。
「謝らなくていいよ。どうせそのうち嫌でもわかる」
そっぽを向かれて表情は見えなくなったけど、その声色はいつにも増してやわらかかった。きっとその言葉以上のものはなくて……、だけど、強いて言うなら優しさはあって。
ソルダお兄様の手が離れたところに自分の手を乗せてみても、あの暖かさは再現できなかった。
「ほら、行くよ」
「目的地は決まっているのですか?」
反射的に抱いた疑問を口に出したら、ソルダお兄様は勢いよく振り返った。真ん丸な金色の瞳には、同じように目を丸くしたわたしが映っていた。
「あの、ソルダお兄様?」
ソルダお兄様はわなわなと唇を震わせて、大きなため息を吐いて、とうとう右手で頭を抱えてしまう。
「ウィラを一人で旅に出すなんて馬鹿なことをしなくてよかった、本当に」
「それは少しひどいのでは……?」
もう、一人で眠ることのできない子どもではないのだから。……でも、これを言ったら二番目のテンヴィスお兄様に「ウィラはまだまだ可愛いな」と微笑まれてしまった。そ、それでも、わたしだって一人で大丈夫……なはずだ。
その気持ちを込めてじっと見つめたら、訝しげな表情を返されてしまった。
「じゃあ聞くけど、ここに一人で放り出されたとして、君はどうしてた?」
それはもちろん、…………もちろん……?
星空を見てみても、左側の木々に目を向けてみても、右側の木々に視線をやっても、足元を向いてみても……。
星神様方から光を分けていただいているとはいえ、すっかり暗い夜の中、この白いワンピースと同じ色のズボン——太ももから裾まで太さが変わらない——は目立つ……なんてことは考えられても、しっくりくる答えは見つからなかった。
ついでに言うならソルダお兄様の訝しげな表情も変わらなかった。むしろ、さらに目を細められてしまった。
「……とりあえず歩いていたと思います?」
「そんなんじゃあっという間に死ぬよ」
我ながら苦しすぎる答えに一も二もなく返されたのは、予想もしていなかった厳しい言葉だった。
ソルダお兄様はいつだってありのままを教えてくださる。嘘も冗談も、事実以上のことは言わない方だ。だからその言葉も間違いなく、紛れもなく……事実なのだろう。次の瞬間、体の中が冷たくなって心臓がどくんどくんと主張を始める。
「獣、虫、植物、天気……そういう自然と分類されるものはもちろん、何よりも怖いのは人だ。人は、時に母なる闇よりも残酷になり得る。人が人を己の利のために殺めるのは、案外よくあること。それでいて、」
そこで言葉を切ったソルダお兄様の金色の瞳が真っ直ぐとわたしを射抜く。目を、逸らせなかった。逸らしたくなかった。真正面から受け止めるべきだと思った。
「あってはいけないことだ」
重く、静かな言葉は、わたしの心の深いところへと沈んでいく。底についたそのとき、一気に体が震え出した。何が怖いのか、それすらよくわからない。わからないけど、怖い。漠然と、この世界が怖い。
「不必要に怖がらせたね」
「いえ……」
背中に触れた暖かさに、いつの間にか止めていた呼吸を再開した。泣いている子どもをあやすように撫でられて、肩周りに入っていた余計な力が抜けていく。
確かに、ソルダお兄様の言う通りだ。わたしはまだ、一人で旅ができるほど大人ではない。お兄様から見たらずっとずっと子どもなのだろう。
「俺がいるから大丈夫なんて無責任なことは言わないけど、必要以上に畏れる必要はないよ。母なる闇と一緒さ」
そうだった、母なる闇だって初めて目の前にしたときは怖くて怖くてしようがなかった。だけど、ファミニア様方が教えてくださったから。
「……正しく畏れ、正しく敬う」
「その通り。だから、わからないこと、気になったことはすぐに聞いて。根拠と自信のない判断はできるだけ保留すること。わかった?」
だから、一歩踏み出せた。
知らないことは別に、罪ではない。罪なのは、知ろうとしないこと。そうやって教わったはずだ。
子どもはいつか大人になる。少なくとも、わたしにとってそれは今すぐの話ではない。まだ子どもでいていいのだと、そう言われているような気がした。
もう、何も知らない世界に震えはしない。
「はい、ソルダお兄様。このあとはどうするのですか?」
返事と共に、早速わからないことを訊ねたら、ソルダお兄様は満足げに頷いてくださった。その口角は小さく上がっていて、釣られてわたしも笑顔になった。
「この川を下った先にある集落に行く。見える? 煙がいくつか上がっているでしょ」
そう指差された方向には、目を凝らしてようやく見えるくらいの煙が六つほど、間隔を開けて上がっている。
「本当ですね……すごい、さすがソルダお兄様です」
「……行くよ、ウィラ」
ぷいっと顔を背けたソルダお兄様は川沿いを早歩きで進み始めた。その耳は、夜の闇の気のせいでなければわずかに赤く染まっていて、土を踏みしめる音が少しずつ遠くなっていく。ソルダお兄様にしては珍しく足音が大きめだ。
「お待ちください! ……ふふ」
わたしはその頼れる背中を追って、駆け出す。ふわりと動いた周囲の空気が名残惜しそうに頬を撫でてきた。
あからさまな照れ隠しに堪えきれなかった笑い声は、しっかりとソルダお兄様まで届いていたらしい。横に並んだら「笑うんじゃない」と小突かれてしまった。
「ソルダお兄様が嬉しそうだと、わたしも嬉しくなるんです」
「……そう」
心からの笑みを浮かべて大きく頷く。そうしたらまた顔を背けられてしまった。
だけど、その歩みは早くなるどころかちょうど良いくらいになっていて、わたしはまた小さく声を出して笑った。
背中の方から、旅の始まりを応援してくれているような、そんな冷んやりとした風が吹く。運ばれてきた花の香りを大きく吸い込んで……一度だけ立ち止まって、星界に輝く金色——ファミニア様の方を振り返って。
そして、わたしは数歩先からこちらを見ているソルダお兄様の方へと歩き出した。
*・*・*




