流れ星が落ちた夜
数多存在する星神の一柱にして、一等星の位を持つファミニア様。
祈ることしかできなかったわたしを救い、星界へと掬ってくださったあなた様こそ、わたしのすべてです。
どうか、あなた様の使いとして恩返しをさせてはいただけませんか。人族のわたしにできることは限られていますが、どうか、この命尽きるそのときまで、おそばに置いてはいただけませんか——。
瞬く星神様たちは間違っても触れられないくらい遠く、終わりを知らない宵闇に包まれた星界の東の端にあるファミニア様の御殿。
天井も、壁も、扉も、床も、すべてが透明で、母なる闇の中に一人放り出されてしまったと錯覚を受けるこの〈導きの間〉には、いつまで経っても慣れそうになかった。
わたしでは到底かなうはずもない……そもそも比べることすらおこがましい母なる闇は、どのような存在に対しても平等に優しく、それでいて残酷だ。
正しく畏れ、正しく敬う。ファミニア様とお兄様方に教わったことはいつだってわたしの真ん中にある。
だけど、ファミニア様や二番目のテンヴィスお兄様は、「母なる闇は落ち着く」とお話しされていたから、人族のわたしならではの感覚なのだろう。となると、一番目のソルダお兄様はわかってくださるかもしれない。
風、匂い、暖かさ、冷たさ……ずっと前、地界にいた時は当たり前に感じていたものがこの世界には存在しない。それが星神様方の住まう星界の理にして、疑いようもない事実なのだ。
装飾も曇りも何一つない背の高い真白な玉座に腰掛けるファミニア様はいつだって目が眩むほどにお美しい。さらさらと淡く光る金色の長髪は三つ編みにされていて、同じ色の輝く瞳はやわらかく細められている。
儚さと同時に強さを宿すその透き通るような色彩に、左右対称に上げられた口角と、絵に描くことが難しいほど整った輪郭。細やかなレースがふんだんに使われたドレスの裾には、地界から見た星神様の刺繍が金色の糸でなされている。
「ウィラ、よく来てくれましたね」
ファミニア様が、その愛しさであふれた言葉と視線をわたしへ向けてくださっている。それが何よりも嬉しかった。わたしは心のまま左胸に手を当て、腰から折るように礼をする。
「ファミニア様のお呼びとあらば」
頭の中でゆっくりと三秒数え、優雅な動きを意識しながら顔を上げた。交わした金色の視線には、どうしてか迷いのようなものが見えた。
だけど、瞬きをした次の瞬間にそれは消えていて、代わりに、母なる闇でも曲げることのできない強い意志が浮かんでいた。
「ウィラ、」
ファミニア様は一度、大きく深呼吸。何か、とてつもなく大切なことを言われる。わたしは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「あなたに命を下します」
もう随分と長い間ファミニア様にお仕えしているけど、命を下されることは今まで一度だってなかったはず。たとえどんなご命令でも、わたしはそれに従うまで。
そんな風に、思っていた。
「ソルダと共に地界へ降りて、世界を巡る旅をしなさい」
「……ぇ?」
理解が、できなかった。
ソルダお兄様と共に地界へ降りる? 世界を巡る旅をする? それはつまりファミニア様のおそばを離れるということだろうか。
「わたくしが良いと言うまで、星界に帰ってくることは許しません」
目の前が、真っ暗になった。すぐそこで微笑む母なる闇に呑み込まれてしまいそうだった。指先が、立っているという感覚が、どこか遠い世界での出来事のようだった。
「どうして、ですか? ファミニア様のおそばにいてはいけないのですか……?」
絞り出した声は明らかに震えていた。
ファミニア様はわたしのことを手放したくなったのだろうか。わたしのことを……嫌いになったのだろうか。わたしはともかく、どうしてソルダお兄様も一緒なのだろうか。
輝く金色のまつ毛を伏せて悲しそうに微笑んだまま、ファミニア様はゆるりと首を振る。
「あなたたちには、幸せになってほしいのです」
だったら……!
「わたしの幸せはファミニア様と共に在ることです!」
わたしにできることなら、いや、たとえ不可能といわれるようなことだとしても、必ずや成し遂げるから。だから、どうか……。
「どうか……! どうかおそばに置いてください!」
ファミニア様はまたゆるりと首を振るだけ。……ああ、わたしの言葉は届いていない。
「わたくしはあなたたちを縛ってしまった。ここまで付き合わせてしまった。これからは、自由になってほしいのです」
あなた様のおそばから離れなければならないのなら、自由なんてものはいりません。
その言葉は喉の奥でつっかえたまま。上手く息が吐けなくて、吸えなくて。熱いものが気になり始めて歪む視界に、金色の光が映った。
くしゃりと眉を下げて苦しそうに微笑むそのお姿は、どうしようもなく美しくて、綺麗で。まるで、「愛している」と言われているようで。決してわたしのことが嫌いになっただとか、そういうものではなくて。
「この広い世界を知ってください。わたくしが見せられなかったものを、わたくしが見たことのないものを、どうか、その目で見てください」
息が苦しくなるほどにつっかえていた言葉は、いつの間にか消えてなくなっていた。
わたしの後ろに視線を向けたファミニア様は、静かな声でひとこと。
「ソルダ」
いつもの早歩きなんて比ではないくらい、一歩一歩着実に、そんな足音はわたしの隣で止まる。
わたしより頭ひとつ分背が高く、少し癖の付いた黒い短髪のソルダお兄様は、左胸に手を当てて、礼の姿勢を取った。
「……ファミニア様の命とあらば」
ソルダお兄様は、受け入れているのだろうか。どうして、受け入れられているのだろうか。
「行くよ、ウィラ」
そうやってわたしを映したファミニア様と同じ金色の瞳は、ぼやける視界でもはっきりとわかるほど揺れていた。湧き上がってくる感情を抑えるように、ソルダお兄様はあくまで冷ややかな声で言う。
「ファミニア様が何の意図もなく命を下されるわけがない。それは君もわかっているでしょ」
そう、だ。その通りだ。わたしはファミニア様にすべてを捧げると決めていた。
地界で生きることを、普通であるという幸せを、ただのウィラを。すべてを手放してでも、
——星神〈ファミニア〉の三番目の使いとなりたかった。
だからわたしは、わたしが今できる最大限をするべきだ。
「…………はい、ソルダお兄様」
玉座の上からの「ありがとう」という微かな言葉は、きっと、ソルダお兄様にも聞こえていたはずだ。
ファミニア様はその金色の髪を揺らして立ち上がる。一歩、また一歩、きらり、ひらりと光の粒が舞う。母なる闇の上を波紋という軌跡を残して進みゆく。その光は、ソルダお兄様の目の前で動きを止めた。
もう一度礼の姿勢を取ったお兄様の両肩に、ファミニア様は両手を置く。
「ソルダ、わたくしの一番目の使い。ウィラのことを頼みましたよ。わたくしはあなたを信頼しています」
愛する心、敬う心、畏れる心、信じる心、応える心、進む心、振り返る心……。ソルダお兄様が今抱くすべての感情が込められた、深く、静かで、重たい礼。そこに、疑う心や悲しむ心といった、負の感情は一切見えなかった。
ただあるのは、母なる闇よりも深いといって過言ではないほどの、愛。ぼろぼろと涙を流したい衝動をぐっと堪える。
次に、ファミニア様はその輝く瞳でわたしを捉えた。そして、幼い子どもに寝物語を聞かせるような優しい声で言葉を紡ぐ。わたしはソルダお兄様の真似をして、左胸に手を当てて礼をした。すると、両肩に手が置かれた。
「ウィラ、わたくしの三番目の使い。ソルダのことを支えてください。しっかりと世界を見るのですよ」
「……ファミニア、さま」
肩に置かれた手には温度がないはずなのに、不思議と心が凪いでいく暖かさがあった。
縋ってしまわないように、恋しくならないように。ふわりと離れていく気配へ、わたしは、深く、一礼をした。
顔を上げると、ファミニア様は微笑んでいるような気がした。涙の膜で歪みすぎてもう輪郭の線もわからなかったけど、どうしようもなく優しい笑顔を見せてくださっている気がした。
「わたくしの愛しい使いたち、どうか、幸せになってくださいね」
もう、この感情を堪えるのは無理だった。ぽとりとこぼれた雫は、透明な床を通り抜けて、星界の彼方へと落ちていく。次々に止まらない熱いものの隙間から、ファミニア様の困ったような微笑みが見えた。
困らせたくなんてないのに、あなた様には幸せそうな笑顔が似合うのに。
そんな表情をさせてしまったわたし自身を許せなくなりそうだった。だけど、それこそファミニア様を困らせてしまう。
「行って参ります。……再びお目通りがかないますよう」
ソルダお兄様に続けて、わたしは無理やり笑顔を作る。とめどなくあふれて止まらない涙には知らないふりをした。
「……行って参ります」
小さく金色の目を見開いたあなた様、わたしに金色を分けてくださったあなた様、何よりも愛するあなた様、どうか——
「行ってらっしゃい」
——笑って送り出してはいただけませんか。
わたしたちを包む金色の光は、どうしようもないほどに暖かかった。足場がなくなるその直前、目が眩んでしまうその寸前。
ファミニア様はその瞳から一筋の光を流して、緩やかに手を振って、そして——笑っていた。
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