第9話 旅をしよう
暖かさが、やわらかさが、心地よさが。ゆっくりと近づき鮮明になる。
重たい瞼を開くと、暗がりの中に木目が見えた。ころころと歌う虫たちの声、時折聞こえる木々の葉を擦れ合わせて笑う風の声。ここ数日で随分と身近なものになった木の和やかな香りを吸い込んで、ぼんやりと思い返してみる。
最後に見たのは、母なる闇と朝を連れてくる橙色の日とを取り持つ青さだった。それはわたしたちを安心させるように当たり前を連れてくる。
だからわたしは、ようやくこの永い夜が明けたと、見守ってくださっていた星神様方にしばしの別れを告げることができた。
「目が覚めた? 調子はどう?」
「……ソルダお兄様」
覗き込むようにこちらを見ている金色の瞳は、気のせいでなければ揺れていた。
心配という言葉ひとつで済ませられなくて、もっと複雑で、もっと深く、簡単に触れてはいけないもの。お兄様の目の下は薄く黒ずんでいた。
「覚えてる? ウィラは〈想いの舞〉を舞い続けて、夜明けと同時に倒れたんだよ」
そう言って、お兄様は背もたれのついた椅子に座り直す。遠くの方で梟がほーと鳴いた。
無我夢中で、舞っていた。
ソルダお兄様とユズノード様に傷ついてほしくなかった。ユーニア村を守らなければいけないと思った。ファミニア様のお力になりたいと思った。お姿は見えなくても東の空に在られるから、在られていると信じたかったから。
無我夢中で、想っていた。
「……っ、ファミニア様は!?」
勢いよく身体を起こす。心地よさを作っていた毛布がはらりと落ちる。すぐさま襲ってきた冷たい空気が暖かさを奪っていく。
ソルダお兄様は、見て、というようにそばにある黒いカーテンを開けた。
主張を強める心臓の付近でぎゅっと手を握って、窓ガラス越しにおそるおそる空を見上げる。
一面に、星神様方の光が広がっていた。青白い光、赤い光、白い光、橙色の光……時折きらりと瞬き、わたしたちを見守ってくださっている。
大きくて白くてこわい月神様は見えなかった。一等星の位を持つ大好きな金色の光も見えなかった。
「……ぇ? ふぁみにあ、さま?」
東の空に、ファミニア様は見えなかった。
母なる闇に浮かぶ星神様方が、全身に広がる冷たさが、何も知らない虫たちの歌声が、落ち着くはずの木の香りが、すべての感覚が遠くなっていく。
振り返った先のソルダお兄様は、口を引き結んで、その手を白くなるほど握りしめていた。
だから、気づいてしまった。何かがある、お兄様は何かを知っている。……だけど、聞いていいのだろうか。聞いて、ソルダお兄様が苦しまれないだろうか。
言いにくいことを伝えるのは、時に、どんな嘘を伝えるよりも酷なこととなる。それが紛れもない事実だとしても、時に、どんな嘘を伝えるよりも後悔を残すこととなる。
それで立ち直れなくなった人を、わたしは、今のわたしとなる前に見てきたのだから。
だけど、今のわたしはソルダお兄様からこんな言葉をいただいた。
『わからないこと、気になったことはすぐに聞いて。根拠と自信のない判断はできるだけ保留すること。わかった?』
それに、はい、と答えていたはずだ。
一人前にソルダお兄様が苦しむ心配をしていたけど、それ以上に苦しみたくないのは、苦しむことを怖がっているのはわたしの方だった。
何よりも怖いのは、事実を知ること。それで、お兄様が「言わなければよかった」と嘆くこと。
それでいて、知らないままでいることが一番怖い。正しく畏れ、正しく敬う。これをするためには、知ることが必要だ。正しく受け止めるには、正しく知らなければいけない。
ソルダお兄様はその揺れる瞳にわたしを映していた。
だから、余計な心配なのかもしれないと思った。きっと、お兄様なら「言わなければよかった」なんて嘆きはしない。
目の前にいるのは、今わたしと向き合ってくださっているのは、星神〈ファミニア〉の一番目の使い、ソルダ・ファミニア様。かっこよくて頼りになる、わたしのお兄様なのだから。
大きく息を吸って、吐いて。色を、温度を、音を、匂いを、遠くなっていたすべての感覚を受け入れる。
「ソルダお兄様、どうか、何が起こっているのか教えていただけませんか?」
姿勢を正して小さく震える手で手を押さえる。真っ直ぐと金色の双眸を見て、聞きたいという意志を伝える。
「……ウィラは、強いよ」
思わずわたしはお兄様の両手を取った。
同じくらいの冷たさが混ざり合う感覚に、思わず小さく笑みがこぼれた。いつもわたしを導いてくださるソルダお兄様でも迷うことがあるのだと、それが知れたことがなんだか嬉しかった。
「お兄様が言うわたしの強さは、ファミニア様、テンヴィスお兄様、そしてソルダお兄様からいただいたものです。だから、ソルダお兄様も強いです」
揺らいでいた瞳がゆっくりと定まっていく。触れている手が次第に暖かくなっていく。わたしは心からの笑みを浮かべて、言った。
「ソルダお兄様は、わたしの一番目の『お兄様』ですから。だから、ソルダお兄様も、強いです」
きっともう大丈夫。お兄様はその手から力を抜いて、小さく口角を上げた。
「そうだね。俺はウィラの『お兄様』だ。少し長くなるけど、聞いてくれる?」
「もちろんです。ぜひお聞かせください」
握り返してくださった手はすっかり暖かくなっていた。ソルダお兄様はあくまで穏やかに、どこか淡々と感情を抑えるようにして話し始める。
「……ファミニア様は、もうすぐお隠れになる。朔のように一時的なものじゃない。二度と、永遠にお目通りできなくなる。それをファミニア様ご自身が誰よりも理解されていたから、俺たちに旅をしなさいと命じられた」
「それ、は」
想像もしていなかった話に、一瞬、息を忘れた。
ファミニア様が、消えてしまうということだろうか。
もう、会えなくなってしまうということだろうか。
今はまだあの空に在られるのだろうか。
ファミニア様がお隠れになるそのときまで、おそばに置いてはいただけないのだろうか。
わたしは最期までファミニア様と共に在りたいのに……そこまで考えて、はたと気づいた。
わたしがそう考えているように、ファミニア様にはファミニア様なりにお考えになっていることがあるはずだ。
早く、大人になりたいと思った。いつまで経っても割り切ることのできない子どもではなく、ファミニア様のお考えを受け入れられる大人にならなければ。
言葉を飲み込むのを待っていてくださっていたソルダお兄様に、わたしは「続きをお願いします」と伝えた。
「たとえ一等星の位を持つ星神様でも、時の流れに抗うことはできない。俺たち人族でいうところの……寿命さ。幾万年間という永い時間を在られていたんだ。言ってしまえばその終わりが今というだけの話。ファミニア様は緩やかにそのお力を失われていっている。だから地界ではファミニア様の朔の夜が増えて、そのご加護が弱まっている」
「では今日は……いえ、ですが」
朔の夜、ではないのだろう。虫の声も、風の音も、人の気配も、すべてが押し殺されていた昨夜と比べて、今日は随分と息がしやすい。お兄様は大きく頷いた。
「ファミニア様のお姿は見えないけど、そのご加護は健在だ。月神が見えないでしょ? それに、」
ソルダお兄様は繋いでいた手を離し、唐突に自身の瞳を指差す。
「俺の瞳、何色?」
「……金色、です」
「ウィラの瞳も金色だ。ファミニア様からお分けいただいた、金色だ」
……そうだ、そうだった。この金色は、ファミニア様とわたしたちが繋がっている証。ファミニア様は、まだ消えていない。見えないけど、今も東の空に在られる。
目の前のお兄様の瞳がぼやけて見えた。湧き上がってくるのは、安堵。それが目のあたりに集まって、熱くなって、それでもあふれ出さないようにぐっと堪える。
「これは俺の憶測にすぎないけど、ファミニア様はお休みになられたんだと、ウィラの〈想いの舞〉とユズノードたちの祈りが届いて、休むという選択ができたんだと思う」
「ユズノード様も、ですか?」
「うん。確かに祈っていた」
「……ファミニア様に、届いたのですね」
きっと、ファミニア様がお休みになられたのは少しでも長く存在するためなのだろう。より長く在りたいと思ってくださったからなのだろう。ユズノード様はファミニア様を嫌いになったわけではなかったのだろう。
わたしたちの想いが届いたことが本当に嬉しくて、次から次へとあふれて止まらないものを堪えるなんてことはもう無理で。
ぽとりと、涙がこぼれた。
ソルダお兄様は大丈夫だというようにわたしの頭を撫でてくださって、また、熱いものが集まり、こぼれる。
「きっとファミニア様は俺たちに託してくださった。星神〈ファミニア〉の加護を受けた人々を守る役目を」
「そうですね。では、わたしたちはこの世界を知りながら、月神様から人々を守る旅をしなければいけませんね」
ソルダお兄様はわずかに目を見開いてから小さく笑った。釣られてわたしも微笑んで、その金色の視線の先を追いかける。
母なる闇に浮かぶのは、数えきれないほどの星神様方。
純粋な白い光、燃えるような赤い光、やわらかい橙の光、孤高な青白い光……。東の端で一際輝く金色の光は見えないけど、わたしたちは知っている。そこにファミニア様が在られることを、わたしたちは知っている。
「そうだね、旅をしよう。……ファミニア様に、また会うために」
——ファミニア様、わたしたちはあなた様を想っております。
あなた様に消えてほしくないと、あなた様と共により長く在りたいと。あなた様に再び、輝いてほしいと。
わたしたちにできるのは、こうして祈ることくらいなのでしょう。
あなた様からしてみれば、これはずっと小さなものなのでしょう。
小さいけど、確かにあって、何よりも力を持っているものなのでしょう。
わたしたちのこの小さな想いがつながって、星界のあなた様へと届きますように。
どうか、この想いがあなた様のお力となりますように。
……ファミニア様、ウィラはあなた様にもう一度お会いしとうございます。




