真尋は久しぶりに、自分の幼い頃の記憶を思い出していた。
真尋は久しぶりに、自分の幼い頃の記憶を思い出していた。
部屋の壁にもたれかかるようにして座り、殺風景の部屋をぼんやりと見つめる。
そうだ、あの日担任から作文を返してもらって、純粋に担任の言葉を信じた私は、その作文を母に渡したのだ。いつものように仕事帰りの母は、疲れ果てた顔をして家事をしていた。真尋は、
「これ、お母さんに見せてあげてって……」
そう呟きながら、手元の原稿用紙を母に差し出した。
「何、これ?」
母は不思議そうな顔をして真尋を見た。
「学校でお母さんについて作文を書く授業があって、私が書いた。先生が、お母さんに見せてあげてって……」
母は「そう」といって、真尋からその原稿用紙を受け取った。そして立ったままその作文を読んでいく。原稿用紙に隠れてその表情は見えなかった。だけど、しばらく読んでから母は次のような言葉を掠れた小さな声で呟いたのだ。
「あなたさえいなければ、私はこんなところから逃げられるのに……」
母は誰にも聞かれないように小さな声で呟いたのかも知れなかった。だけど、その呟きは真尋の耳に小さな反響を伴って飛び込んできた。いっそ、聞こえなければよかったのに。真尋は冷たい心でそんなことを思った。
真尋にとって、幼い頃の母との記憶はどこか忌まわしいもののように思えて、いつの間にかそれらの記憶に蓋をするようになっていた。いつから蓋をし始めたのだろうか。例えばこの作文を読んだ後の母の呟きを聞いた時からなのか。それとも、それよりももっと以前に、きっかけとなる何かしらの出来事があったのか……。
真尋は小さく頭を横に振って、立ち上がった。
そして再び奇妙な絵を見つめた。
塔のような建物の入り口から出て行こうとしている女性の姿。
その女性を窓から無表情に見つめている少女の姿。
この閉じ込められた部屋で奇妙な絵を目の当たりにし、真尋の記憶の中から母との思い出が顔を覗かし始めていた。
それは、真尋が十七歳、高校二年生の時のことだった。
真尋は家から電車で三十分ほど行ったところにある、県立高校に通っていた。
母子家庭であった真尋の家はそれほど裕福ではなかったけれど、それでも母は毎日一生懸命に働き、そのおかげもあって高校に通うことができていた。真尋自体も高校に上がるとバイトを始め、ささやかながら家にお金を入れるようになった。それもあって家には少しずつ余裕も出来てきた。色々な仕事を掛け持ちしていた母はその仕事の数も多少絞ることができ、夕食を二人で家で食べることも増えた。
夕食時に母は、
「学校ではどう?」
と真尋の高校生活のことについて知りたがった。真尋は作り笑いを顔に浮かべながら、
「今日はね……」
とその日の学校での出来事を母に話してあげた。初めはぎこちない笑顔を顔に浮かべながら会話をしていたのだけど、それも繰り返していると慣れてきて、自然な笑顔を浮かべることができるようになっていた。
心の中では、真尋が小学生の時に聞いた、母の
「あなたさえいなければ」
という呟きが消えてはいなかった。
それ以来、真尋は心にわだかまりを抱え続けていて、どこかで母と距離を置いていたのだと思う。
ただ、それでも、自分を必死になって育ててくれたことには感謝していたし、そして自分を見捨てないでいてくれたことに子供ながらに感謝していたのも事実だった。その結果として、真尋は夕食時に、『楽しそうな娘』を演じ続けていたのだ。
だけどそのような母との日々を送りながら、十七歳で思春期を迎えていた真尋の心の中では、自分の父親は誰なんだろう、という思いが徐々に強くなっていった。
自分の戸籍を見たいと思った。『父』の欄になんて書いてあるのかを見れば、自分の父親について何かしらの情報を得られるのではないのか。
調べてみると、戸籍謄本は本籍地から取り寄せる必要があるようだった。真尋は自分の本籍地がどこかは知らない。母に尋ねてしまうと、戸籍謄本が必要な理由を訊かれるに決まっている。
「自分の父親について知りたいから」
なんて言えるわけがなかった。
真尋の脳裏には、
「真尋にはママがいるから、パパは必要ないでしょ……」
という氷のように冷たい母の言葉が刻み込まれていた。
ただ、さらに調べていく中で、自分の本籍地を知る方法の一つに自分の住民票を確認するというものがあることを知った。
平日の午後の学校からの帰りに、真尋は家から持ち出した保険証を片手に区役所に向かった。




