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東京壁  作者: 朝月
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3/4

帰宅

浦安製鉄所の社宅街へ続く狭い路地の口で、私は足を止めた。

両脇には防波堤と高い壁に沿って立ち並ぶ長屋風の赤煉瓦アパート。高さのまち打ちな鉄皮のエントツが、鉛色の夜の闇へ薄黒い煙を吐き出している。空気には、高炉と東京湾に最も近いこの路地でお馴染みの匂いが混じり合って漂っていた——粗悪な練炭の硫黄臭、キャベツの漬物の酸味、そして近くの海と側溝に淀む冷たい水気。廊下の外には洗って色褪せた粗布の服が吊るされ、潮風に吹かれて板のようにカチカチに凍りついている。

私は振り向き、後ろの恵子を見やった。

「お前は戸外の壁際で少し待っていなさい。声をかけたら入ってくるんだ」低く言った。

恵子は余計な問いを挟まず、極めて行儀よく庇の下へ引き下がった。お腹の前で両手を重ね、頭を垂れて暗がりのなかに佇む様は、まるで氷の石像のようだった。

息を深く吸い込み、剥げかけた緑ペンキの木造ドアを押し開けた。

扉を開くと、室内の温もりと沸き立つ水蒸気が顔を襲い、薄い味噌の香りが鼻腔をくすぐる。

会社が浦安工場の技術工員に割り当てた社宅で、畳部屋がふたつと、隅には会社から支給された脚付きの鉄皮ペチカが置かれている。煙突は壁の穴をくねくねと貫いて外へ伸びていた。部屋に大きな灯りはなく、ローテーブルの上に吊るされた低いワット数の裸電球が、うっすらと黄色い光を落としている。

土間では、妻の吉江が背を向け、黒い鉄鍋から最後の味噌汁を椀に盛っていた。洗い倒して毛玉のできた古いエプロンを纏い、髪を手ぬぐいに押し込んだ後ろ姿は、痩せて疲れて見えた。

七歳になる末娘の一美がローテーブルの脇に座り、膝の上に黄ばんだ古い画報を広げていたが、開閉音を聞くや画報を投げ出し、バタバタと走ってきて私の膝に抱きついた。

テーブルのついたてには、他のお仕置きのような三人の子が座っていた。十七歳の長男・秀一はもう工場で手伝いをする年格好で、黒い重油の染みついた厚手の綿作業着を着たまま、油まみれの指を布切れで拭いている。その眼差しには、早熟な子特有の目ざとさがあった。十五歳の娘・明子はいちばん大人しく、竹箸と荒陶器の椀を几帳面に並べている。十四歳になる三男の隼人はじっとしていられず、手にした木切れをぶんぶん振り回していたが、私が戻ると慌ててズボンのポケットへ押し込んだ。

「ただいま」私はドアを閉め、外の冷気を背中に遮った。

吉江が振り返り、エプロンで手を拭きながら眉をひそめた。「遅かったじゃない。また工場で班会?」

石炭の灰が残る手をズボンで擦り、ローテーブルの脇に腰を下ろした。一美が胸にすり寄り、小さな顔を見上げてくる。娘の柔らかい髪を撫でながら、私は努めて平静な声を装った。

「今日から、私が生産主任だ。正雄先輩の跡を任された」

部屋の空気が半秒ほど凝固した。

秀一がいち早く反応し、目をパッと輝かせながらも声を潜めた。「本当? 父さん、じゃあもうボイラー室で炭をくべなくていいの?」

「ああ。給料も一等級上がるし、加給配給の切符も一口多くもらえる」

明子が小さく「あ」と声を漏らし、手にした陶器の椀を落としそうになりながら目を細めた。隼人は膝を叩いて跳ね起きんばかりだ。「やった! じゃあこれからは毎食黒パンがもう半切れ食えるのか? 腹いっぱい食えるんだな?」

一美には生産主任という意味がまだ判らなかったが、兄や姉の笑顔を見てニコニコと笑い真似をした。

吉江が寄ってきて、電球の光が届かない影の中に立ち、低く囁いた。「本当なの? 長谷川工場長が直接言ったの? うちみたいな平工員に、そんな席が回ってくるなんて……」

「本人が言った。正式な書類も持ち帰っている」懐から重い牛皮紙の束を取り出し、ローテーブルの角に置いた。

吉江はその書類をふたつばかり見つめ、ふと思い当たったように喜びを引っ込めた。「じゃあ……正雄先輩は? 遠くの農場へ飛ばされたの?」

「死んだ」余計な説明はせず、低く短く答えた。

吉江の身体が強張った。あとの言葉が喉に突っかかったようだった。

それ以上は追及してこなかった。ここ数年、隣の棟や車間から不意に「消えた」者や「自ら命を絶った」者は少なくなく、誰もがこの沈黙に慣れきっていた。室内の浮き立った空気は一瞬で霧散した。吉江は目元をわずかに赤くし、何も言わず、ただ静かに歩み寄って一美を抱き寄せると、末娘の襟元を整えた。

彼らの沈黙を前に、私の胸には湿った綿が押し込められたような重みが残った。遅かれ早かれ言わねばならぬことだ。意を決して口を開いた。

「もうひとつ、話がある。外に子がひとりいる……連れてきた」

吉江の手がぴたりと止まった。

妻の目を見ることができず、私は立ち上がって入口へ向かい、ドアを開けて冷え切った壁の影に立つ恵子へ手を振った。「入っておいで」

恵子が入ってきた。十三歳の彼女は洗濯の行き届いた学生服に身を包み、おかっぱ頭を几帳面に切り揃え、動揺の色ひとつ見せず、恐ろしいほど静かだった。

敷居を跨ぐと、吉江に向かって深くおじぎをし、テーブルの脇に座る子供たちへも順番に頭を下げた。

「皆様、はじめまして。佐々木恵子と申します」

顔の汗を拭い、かい摘まんで事情を話した。「昨晩、正雄夫妻が逝った。身寄りのない子だ。工場にも引き取り手がなく、工場長が私に指名した」

秀一は上から下まで彼女を凝視し、拭き掃除の布を置いて頷いた。「正雄叔父さんの娘さんか……昔、売店で見かけたことがある」秀一の口調は落ち着いており、若くしてすでに半人前の大人の佇まいがあった。

明子が立ち上がり、少し遠慮がちに微笑んで袖口を引いた。「あなた……私よりふたつ下ね。これから同じ部屋で暮らしましょう」

隼人は好奇心に目を輝かせ、彼女の綺麗な制服を覗き込んだ。「すごく頭が良さそうだな。文字はたくさん知ってるのか? 外のお話とか知ってる?」

恵子は一つひとつに応じ、声は小さくとも言葉は明瞭で、礼儀正しさは大人顔負けだった。子供たちはすぐに群がり、一美も裾を引っ張った。「お姉ちゃん、お絵かきつき合ってくれる?」

恵子は下を見やり、清涼な顔立ちにかすかな温もりを浮かべ、「ええ」と小さく頷いた。

しかし、吉江だけは終始微笑まなかった。

一美を恵子の側から引き離すと、私の腕を掴み、狭い台所へと引っ張り込んだ。

「石川秀雄、気でも狂ったの!?」吉江は声を殺し、唇を震わせ、恐れと怒りに目を昂ぶらせた。「うちにはもう四人も子がいるのよ! 秀一は毎日現場で重労働をして、三人分も食べるの。明子も隼人も育ち盛りで、毎食黒粉にふすまを混ぜて誤魔化してるのよ! 工場からの配給なんてこれっぽっちなのに、また一口増やしてどうやって生活していくの!?」

「吉江、話を聞いてくれ……」

「正雄先輩のことは不憫だと思うわ! でもね、うちは配給でカツカツの貧乏人であって、仏様の救護院じゃないのよ!」吉江の声は必死の制圧で擦れ、目には涙が浮かんでいた。「罪人の遺児なんて連れてきて、もし後で工場から清算されたら、私たち家族はどうなるのよ!?」

柴米油塩に痛めつけられ早老した妻の顔を見つめ、胸が痛んだ。妻の言うことが何ひとつ間違っていないことは痛いほど分かっていた。だが、私には退路などなかったのだ。

「主任の椅子と、増える幹部用配給はセットなんだ」声を押し殺し、妻の肩を強く掴んでその目を凝視した。「長谷川は私の首元にドスを突きつけてきた。あの子を引き取らなければ、主任の席は今夜にも他人のものになる! そうなれば配給どころか、ボイラー室で石炭をくべる仕事すら追い出されるんだ!」

吉江は言葉を失い、唇を震わせた。

「それに……正雄先輩には色々と教わった」私は溜息をつき、声を和らげた。「あの子を路頭に迷わせるか、遠くへ送らせれば、数日と経たずに凍死するか骨になる。配給が一口増えれば、今より苦しくなることはない。頼む、私を信じてくれ」

台所の入口で、かすかな音がした。

振り向くと、いつの間にか恵子が入口の脇に立っていた。今の会話をすべて聞いていたのだ。

彼女は泣くことも、哀れみを乞うように俯くこともせず、静かに歩み出ると、吉江に向かって再び腰を折った。今度は先ほどよりも深いおじぎだった。

「石川奥様、ご迷惑をおかけいたします。ご飯はほんの少しで構いません。毎食お団子を半分だけにいたします。ご飯の支度も、洗濯も、妹さんや弟さんに文字や計算を教えることもできます。もし……もしご都合が悪ければ、工場から次の指示が出次第、すぐに出ていきます」

はっきりとした口調で語り、声に縋り付くような湿り気はなかった。ただ静かに、決定権を吉江の手へと返したのだ。

吉江は完全にその場に立ち尽くした。綺麗なお仕着せを着て、澄んだ目をしながらも、あまりに分別のある幼い少女を見つめるうち、目から怒りが消え、戸惑いと切なさが残された。

一美がまた無邪気に駆け寄り、恵子の手を握った。「お母ちゃん、お姉ちゃんを置いてあげてよ。すごくいい匂いがするの」

明子も後ろで控えめに言った。「お母さん、私の布団を半分こすればいいわ」

吉江は部屋中の子供たちを見回し、やがて深々と重い息を吐き出した。恵子の視線を避け、くるりと向き直ると鍋の蓋を取った。木杓が鉄鍋の縁に当り、コンと乾いた音を立てた。

「……先に飯にしなさい。食い終わったら、秀一、物置の板を片付けな。今夜は明子と恵子を一緒に寝かせるから」

どうにかこうにか、この難局を乗り切った。

深夜、隣の部屋からは子供たちの寝息が途切れ途切れに聞こえてくる。

ペチカの残り火が時折パチと爆ぜ、煤けた温もりを漂わせていた。ローテーブルの上のランプが、室内をセピア色に染めている。

私はひとりローテーブルに向かい、長谷川から渡された厚い牛皮紙を開いた。紙が擦れ合う音が、静まり返った夜の静寂に酷く甲高く響く。

ランプの微かな光を頼りに、一ページ目の頂点に押された鮮血のような朱印と、その下に躍る太文字を睨みつけた。——**『浦安製鉄所第一高炉 製鋼産出量引き上げ指令』**。

躍る数字は、去年の整整二倍に跳ね上がっていた。

ざらついた紙の感触を指先で確かめながら、窓の外、高い壁の方角からかすかに聞こえる巡回車の警笛に耳を澄ませた。心の中が、冷たく冷え込んでいく。

この一口増えた配給の裏には、あの高炉の炎よりも熱く恐ろしい代償が待っていることを、私は嫌というほど理解していた。

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