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東京壁  作者: 朝月
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暗夜と新しき途(恵子の視点)

私の名は佐々木恵子、今年で十三になる。同年代の子供たちが新しいスカートや色鮮やかな画報に胸を躍らせている時、私が真っ先に学んだのは、凍てつく風の中でうつむいて歩き、路上の人々の視線に極力触れぬよう立ち振る舞う術だった。私は無口で、甘えることも得意ではない。この世界において感情など最も安っぽく危険な代物であり、嵐の中で生き残る術はただ理性と知識のみであると、父から叩き込まれていたからだ。


私の父・佐々木正雄は戦前に帝国海軍兵学校を卒業し、材料学と高炉技術に通じた知識人であった。母の綾子もまた旧華族の出身で、古風ながら洗練された教養を備えていた。東日本人民共和国が成立した後、父はその卓越した技術ゆえに浦安製鉄所に留められて生産主任を務め、母もまた家財の多く——洋式家具や西洋の書籍の大半を地下室へ隠した。粗布の綿服を纏い黒パンをかじる日々にあっても、食卓の竹箸を寸分狂わず並べるような、そんな品格を失わない父母だった。


だが、その体面も狂熱の時代を前にしては塵芥に等しかった。


あの日の午後、高台のスピーカーからは怒号のような放送が響き渡り、数万の労働者が「反革命走資派を叩き潰せ」と叫んでいた。「罪人」の家族である私はその現場へ行くことを許されず、後方敷地の鉄屑が積み上がった荒廃した道具小屋に閉じ込められていた。冷たい鉄格子のかすかな隙間越しに、遠くの広場で振られる赤旗と飛び交う石ころが見えた。私は泣かなかった。悲鳴を上げることもなかった。ただ暗がりに身を縮め、袖口を歯が折れんばかりに噛みしめながら、脳内で父から教わった化学分子式——硫酸アンモニウム、フェノール、高炉ガスの結晶構造を機械的に反復し続けていた。胸の内で弾けそうになる恐怖を、その無機質な記憶の反復によって強引に抑え込んでいたのだ。掌には、爪が喰い込んだ血が滲んでいた。


深夜、泥と血にまみれた父母がゴミのように部屋へ投げ戻された。母の髪は乱れ、父の右目のフレームは破砕し、こめかみに鮮血が固まっていた。しかし二人からは涙も、恨み言ひとつ漏れなかった。父は震える手で私の髪を撫で、静水のように冷ややかな瞳で私を見つめた。

「恵子、生きろ。何があってもお前は知識人の子だ。誰かを恨むな。恨みは知性を鈍らせる。お前の聡明さで生き延びるんだ」

母は私の白いブラウスの襟元を自らの手で整え、パリッと糊の効いた赤いスカーフを結び直すと、低く囁いた。

「恵子、礼節と規律を忘れぬこと。それこそが、あなたの魂の最後の尊厳です」


その夜は月も出ない闇だった。父母が二条の荒縄を鴨居にかけた後、私は暗闇のローテーブルの前に座り、膝を強く抱きしめていた。巨大な悲哀が津波のように押し寄せ、息が詰まり、額には冷や汗が流れた。だが脳裏には父の遺言が明瞭に閃いていた——「感情で頭脳を鈍らせるな」。私は目を閉じ、深呼吸を繰り返し、目角に溜まる涙を力任せに押し戻した。血の気の引いた背筋を一度も曲げることなく、死寂の夜の中でただ五時間を座し続けた。頭上の梁から聞こえるかすかな摩擦音が、やがて永遠の静寂へと変わるのを聴きながら。


翌朝六時、交替を告げる甲高い汽笛が工場に響き渡った。保衛科の二人の干事(かんじ)が扉を開けた瞬間、梁から吊り下がる二つの遺体に驚いて足をすくませた。彼らが振り返ると、薄暗い部屋の隅に、衣服を整えて静かに座る私がいた。私はただ静かに立ち上がり、彼らに向かって深く頭を下げた。「保衛科の叔父様方、両親は亡くなりました」。彼らは私を狂人を見るような目で見つめ、やがて毒づきながら遺体を担ぎ出し、私を行政棟へと連行した。


道中の冷風が頬を刺すように痛む中、私は工場長室へと突き飛ばされた。


長谷川工場長は茶碗を手に喉を潤そうとしていたが、正雄夫妻の死を知らされるや、手元を狂わせて滾る茶をデスク一面に撒き散らした。「死んだだと!?」小ぶりな目を大きく見開き、失声して怒りを露わにした。だがその感情も数秒と持たず、視線はすぐにドア口に立つ私へと落ちてきた。


彼は眉間を固く寄せ、苛立ち紛れにデスクを指で叩きながら、算段を口の中で呟いた——反革命分子の遺児を路頭に迷わせれば世間の非難を浴び、遠方へ送るにも手続きが煩雑で、工場に置けばいつ破裂するかわからぬ爆弾となる。彼は無言で部屋を往復し、その瞳には陰鬱と葛藤が色濃く差していた。


だが、彼の視線がふとデスクの端にある牛皮紙の束に止まった——そこには今年度、二倍に跳ね上がった高炉の生産目標が印字されていた。長谷川の足がぴたりと止まり、その目に怪しい光が宿った。腹が決まったのだ。


私はその場に立ち尽くし、工場長の一挙一動と独り言を冷ややかに見つめていた。この男の目に、私は両親を失ったばかりの幼子などではなく、政治的利益を引き換えにし、ノルマを達成するための「重し」として映っているのだ。


長谷川は向き直ると、部屋の隅の厚い緑色の天鵝絨(ベルベット)カーテンを荒々しく引き開け、中の狭い小休止室を指さして声を潜めた。「お前、まずここに入っていろ。許可を出すまで、絶対に声を出すな。外へも出るな」


小休止室には安タバコの匂いが充満していた。厚い天鵝絨の幕越しに、ドアの開く音と、工場長の威圧と懐柔の混ざった官僚口調が聞こえてきた。彼は一口増える配給と生産主任の椅子を餌に、別の男の運命を操ろうとしていた。


工場長に呼ばれ、私はカーテンを押し開けて足を踏み出した。


それが、石川秀雄との最初の出会いだった。焦炭と重油の匂いを全身に染み込ませ、頬は削げ、手は老木のように荒れていた。全身から煤と汗の臭いを漂わせ、椅子に浅く腰掛けたその姿は極めて不恰好で、瞳には権力への畏怖と生への執着が渦巻いていた。

この無教養で油まみれの平工員が私の「新しい父親」になると聞かされた時、胸に沸いたのは怒りではなく、冷めた麻木だった。私は彼が生産主任へと登りつめるための踏み台であり、彼の家が加給配給を得るための道具に過ぎない。だが、この乱世において誰かの道具になれるのなら、それはまだ生き残れることを意味していた。私は母から教わった作法に従い、深く頭を下げた。「初めまして、おじ様。これよりよろしくお願いいたします」


定時後、石川秀雄は私を連れて社宅街へと向かった。道中、彼は終始おどおどと落ち着きがなく、ズボンで何度も手を擦り、振り返っては何か言いたげに口を噤んだ。私の前を歩くことすら躊躇い、慌ただしく足取りを緩めていた。

高い壁に沿って続く赤煉瓦のアパートの前に着くと、彼は私を戸外の壁際に待たせた。

彼が家に入った数分間、私は薄暮の光を頼りに、これから身を寄せる「家」を静かに観察した。隅には石炭の灰が積もり、路地にはキャベツの漬物の酸味が漂い、古びた粗布の服が潮風に冷たく凍りついていた。狭く、混み合いながらも、そこには生活の熱気が確かに充満していた。窓からはペチカの灯りが漏れている。技術工員の割り当てであるこの社宅は、物資の乏しい今日において十分に堅実で体面のある場所だった。そしてここが、私がこれから根を張る場所なのだ。


ドアが開き、石川秀雄が私を手招きした。

足を踏み入れると、黄色い電球の光と温かい水蒸気が顔を包み込んだ。


石川秀雄は玄関で作業靴を脱ぎ、気まずそうに咳払いをすると、身体を少し斜めにして私に手を差し伸べた。「恵子、これが吉江叔母さん、つまり俺の妻だ。子供たちもみんないる。ほら、挨拶しなさい」


土間に立つ女性が振り返った。毛玉のついた古いエプロンをつけ、手ぬぐいで髪を後ろに束ね、手にした木杓からは汁が滴っていた。目元には深いシワが刻まれ、眼球を赤く走らせながら、複雑で警戒に満ちた視線を私に投げかけてきた。


私は足を止め、玄関と居間の境目で姿勢を正した。小腹の前で手を自然に重ね、母から仕込まれた最も厳格な作法に従い、上半身を四十五度傾けて深く腰を折った。

「初めまして、石川奥様。佐々木恵子と申します。突然のお邪魔でご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします」


この狭い社宅にはあまりにそぐわない古風な礼節に、その女性は一瞬呆然とした。手にした木杓が鉄鍋の縁に当たり、「コン」と乾いた音を立てた。彼女は唇を真一文字に結び、視線を揺ら揺らと巡らせた後、冷淡に頷いて乾いた声を返した。「ええ……上がりなさい」。そしてすぐに背を向け、鍋の蓋を取った。


続いて石川秀雄は、ローテーブルの脇に立つ十七歳ほどの少年を指さした。「これが長男の秀一だ」

少年は背が高く痩せており、重油の染みついた厚手の綿作業着を着て、袖を肘まで捲り上げていた。黒ずんだ布切れで指の油汚れを何度も擦っている。

私は彼に向き直り、かすかに頭を下げた。「秀一兄様、初めまして。よろしくお願いいたします」

少年は顔を上げて私を凝視し、布切れをポケットに押し込むと、背筋を伸ばして礼を返した。「秀一だ。昔、売店の列で見かけたことがある。遠慮はいらないよ」


石川秀雄は続いて椀と箸を整えていた少女を指した。「二番目の明子だ」

十五歳ほどの明子は、詰め直した古い綿入れを着ていた。私と目が合うと手がかすかに震え、手にしていた椀がカチャリと音を立てた。

私は温かな視線を送り、腰を折った。「明子姉様、よろしくお願いいたします」

「あ……はじめまして」彼女は首をすくめ、局促しそうに袖口を引っ張ると、蚊の鳴くような声で慌てておじぎをした。「明子よ。私よりふたつ下ね……これから同じ部屋で寝ましょう」


明子が礼を終えぬうちに、十四歳ほどの少年がテーブルの向こうから飛び出してきた。石川秀雄が紹介する間もなく、彼は私の鼻先まで顔を近づけていた。「これが三男の隼人だ」と石川秀雄が脇から付け加えた。

隼人は丈の足りない古い服を着て、手には滑らかに削られた木切れを弄んでいた。黒黒とした目が輝き、私をまじまじと見つめてくる。

私は不自然にならぬよう半歩身を引いて頭を下げた。「隼人兄様、よろしくお願いいたします」

「僕、隼人!」彼は木切れをポケットに突っ込み、両手を後ろに回して、珍しそうに私の学生服を見つめた。「その服、すごく綺麗だな! 日頃はどんな本を読んでるんだ? 面コや弾丸遊びはできるか?」

「隼人、行儀が悪い!」石川秀雄が低く叱りつけた。私は再び首を傾け、明瞭に答えた。「弾丸遊びはあまり得意ではありませんが、本に書かれたことであれば多少は存じております。これからご指導ください」


最後に駆け寄ってきたのは、七歳くらいの幼い少女だった。石川秀雄が腰を落としてその頭を撫でた。「これが一番下の一美だ」

花柄の綿入れを着た少女は、走ってきた勢いでテーブルの角にぶつかりそうになりながら、私のスカートの裾に抱きついて丸い目を上げてきた。

私は膝を折り、少女と視線の高さを合わせた。「一美ちゃん、はじめまして」

「わたし、つぐみ(一美)!」彼女は私の服の生地を触り、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。「お姉ちゃん、お洋服から甘い石鹸の匂いがする。地面に木の枝でお絵かきしてくれる?」

私は彼女の袖口についた粉をそっと払い、声を和らげた。「ええ、片付けが終わったら、一緒にお絵かきしましょうね」


一通りの繁雑で完璧な挨拶が終わると、石川秀雄は脇でホッと胸を撫でおろした。子供たちが私を取り囲んで口々に問いかけてくる様は、一見和やかに映った。だが、その静けさは吉江奥様の声によって破られた。彼女は一美を私の側から引き剥がすと、石川秀雄の腕を掴み、狭い台所へとなだれ込んだ。


厚い暖簾が視界を遮ったが、薄い板一枚隔てた台所からは、押し殺した論争の声がはっきりと漏れていた。「一口増える」「罪人の遺児」「配給などこれっぽっち」という単語が私の耳に届く。


この貧しい家庭において、私の存在が危うい均衡を崩したのだ。己の価値を示さねば、ここに長く留まることはできない。


私は静かに台所の敷居まで歩み寄り、ブラウスの襟元を整えると、背を向ける吉江奥様に向かって深く、完璧なおじぎを捧げた。


「石川奥様、ご迷惑をおかけいたします。ご飯はほんの少し、毎日お団子半分で足ります。調理も、洗濯も、妹さんや弟さんの勉強のお世話もいたします。もし工場から別の指示が出ましたら、いつでも立ち去ります」


哀求するのではなく、ただ己の提供できる対価を静かに提示した。


吉江奥様は背を向けたまま立ち尽くした。石川秀雄はその隙に妻の肩を押さえて低く宥め、秀一や明子も歩み寄って私を庇った。やがて吉江奥様はくるりと振り向くと、深く重い息を吐き出し、木杓を鍋の縁に打ちつけた。

「……先に飯にしなさい。食い終わったら、秀一、物置を片付けな。今夜は明子と恵子を一緒に寝かせるから」


その夜、私は物置の固い板間に横たわり、隣の部屋で石川秀雄が書類をめくるカサカサという音を聴いていた。窓のずっと向こうでは、東京壁の探照灯が夜空をなぞっていた。


この凍てつく世界の中で、私はひとまず羽を休める小さな角を見つけたのだ。

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