【第1話 積算温度の不足、および追放】
【第1話 積算温度の不足、および追放】
冷え切った大理石の床に、コヨミ・スメラギの革靴の音だけが静かに響いていた。
帝国宮廷、収穫評議会。
巨大な円卓には、香辛料の効いた肉料理と果実酒が並び、貴族たちは豊穣の季節を疑ってすらいない顔で笑っている。だが、コヨミの鼻には腐りかけた土の匂いが微かに混じっていた。
今年の作物は駄目だ。
いや、今年だけではない。
もう限界が来ている。
コヨミは机の上に積まれた羊皮紙をめくった。数字がびっしりと並ぶ帳簿。その端を細い指でなぞりながら、淡々と口を開く。
「北方穀倉地帯の平均気温が、過去三年で〇・八度上昇。対して夜間冷却率は一七%低下。さらに土壌内魔力の疲弊率は――」
彼は視線を上げた。
「八十七%です」
途端に、空気が止まった。
だが次の瞬間、嘲笑が広間に広がる。
「また数字の話か」
「陰気だな、スメラギ卿は」
「収穫祭の前だぞ?」
玉座の隣に座るアルベルト皇太子が、金の杯を揺らしながら鼻で笑った。
「つまり何が言いたい?」
コヨミは感情を挟まず答える。
「積算温度が破綻しています。このままでは穀物は正常成熟しません。百五十日以内に大規模冷害が発生。帝国全域で飢饉が起こります」
一瞬の沈黙。
そして、鈴のような笑い声が響いた。
「あははっ! 何それ!」
エレナだった。
純白の法衣を揺らしながら、聖女を自称する女は肩を震わせる。
「大げさすぎるわよ、コヨミ。寒いなら私が暖かくすればいいじゃない」
彼女の指先に赤い魔力光が灯る。ふわりと暖気が広間を包み、貴族たちが感嘆の声を漏らした。
「おお……!」
「さすがエレナ様!」
得意げに胸を張ったエレナは、勝ち誇ったように言う。
「ほら。春でも夏でも、私の魔法ですぐに変えられるの。暦なんて古臭いもの、必要ないでしょう?」
コヨミは静かに彼女を見つめた。
窓の外では、季節外れの生暖かい風が吹いている。
嫌な風だ。
本来なら今の時期に吹くはずのない風。
湿りすぎた空気。
狂った季節。
「エレナ様」
「なによ」
「あなたの魔法による過剰加熱で、昼夜の寒暖差が消失しています。根菜類の糖度低下、麦類の成熟不全、害虫発生率は前年比二六〇%増加」
「また数字」
「自然には周期があります」
その瞬間、アルベルト皇太子が机を叩いた。
重い音が広間に響く。
「もうよい!」
怒気を含んだ声に、場が静まり返る。
皇太子は冷たい目でコヨミを見下ろした。
「お前はいつもそうだ。数字、数字、数字……!」
吐き捨てるような声だった。
「帝国が繁栄しているのは魔法のおかげだ。なのに貴様は不吉なことばかり並べ立てる」
「事実を報告しています」
「黙れ」
空気が張り詰める。
アルベルトは口元を歪めた。
「数字しか見ない無能など不要だ」
エレナがくすりと笑う。
「かわいそう。少しは空気を読めばよかったのに」
「コヨミ・スメラギ」
皇太子は冷酷に宣告した。
「国家会計士の任を剥奪する。加えてエレナとの婚約も破棄。貴様は本日をもって帝都から追放だ」
ざわめきが広がった。
だが誰も止めない。
誰もが、当然の結末だという顔をしていた。
「追放先は“枯れ谷”」
その名を聞いた瞬間、何人かの貴族が青ざめた。
極寒の辺境。
吹雪と岩山しか存在しない死の土地。
「作物ひとつ育たぬ谷だ。数字好きのお前にはお似合いだろう?」
広間に笑いが起きる。
エレナも扇で口元を隠しながら笑っていた。
だがコヨミだけは無表情だった。
彼は静かに帳簿を閉じる。
革表紙の硬い感触が手に残った。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……エレナ様」
「まだ何か?」
「あなたの魔法による過剰加熱で、帝国の作物の積算温度は既に破綻しています」
広間が静まり返る。
コヨミは淡々と言った。
「飢饉発生確率、九十八・二%」
誰かが息を呑んだ。
それでも彼は止まらない。
「あと百五十日で、この国は自滅します」
一瞬、空気が凍った。
だが次の瞬間、アルベルトが大声で笑った。
「はっ! 負け犬の捨て台詞か!」
嘲笑が広間を満たす。
けれどコヨミは、もう彼らを見ていなかった。
窓の外。
灰色の空を見ていた。
本来なら、もっと冷えていなければならない。
だが風はぬるい。
狂っている。
季節が、悲鳴を上げていた。
コヨミは静かに踵を返す。
背後から嘲笑が飛ぶ。
「せいぜい凍え死ぬなよ!」
「枯れ谷で数字でも数えてろ!」
重い扉が開く。
冬の風が吹き込んだ。
その風だけが、不自然なほど冷たかった。
計算の 狂いし国に 風ぬるく
帳簿を閉じて 冬へ歩みぬ
狂うとも 知らぬ傲慢 置き去りにして
冷徹なる数字を 残し追放く
九十八・二の 破滅を抱く国
知らず笑える 日もあとわずか
凍てつくを 知らぬ愚者らの 円卓に
ただ一粒の 冬を落とせり
百五十日の 猶予を刻む 砂時計
狂った風が 帝都をなぞる
枯れ谷へ 向かう足取り 静かにて
新しき暦を 胸に秘めゆく




