蜂須賀
――街の南西、市場区画にて。
こっちは、割とイノシシの数は少なそうね。
私は石畳を蹴って、視界に入るイノシシを片っ端から殴り、蹴り飛ばしていく。
グローブの一撃で頭蓋を陥没させ、ブーツの蹴りで巨体ごと吹き飛ばす。一発、二発、三発――。
寄生されたイノシシ達は、原型を留めずに光の粒子となって霧散していった。
……ふぅ、こんなものかしら。
残るは、もう少し奥に逃げ込んだ数頭くらいね。
その時――。
「ちょっとぉ。私が育てた可愛いイノシシちゃん達をいじめないでくれるぅ?」
間延びした女の声が、頭上から降ってきた。
私は顔を上げる。
市場の屋根の縁に、細身のゴーレムを肩に乗せた女が、片足を投げ出して座っていた。
黒と黄色のメッシュを入れた長い髪。
露出の多い服。
挑発的な笑み。
……育てた? 今、コイツなんて言った?
「……あんた誰?」
「蜂須賀 沙織よ。サオって呼んでくれていいわよぉ。以後お見知りおきぃ~」
誰が呼ぶか。
「蜂須賀ねぇ……。私は紗奈。育てたイノシシって、どういうことよ」
沙織は艶やかに微笑むと、屋根の縁から、ふわりと舞い降りるように飛び降りた。
猫のように音もなく石畳に着地し、優雅に髪をかき上げる。
「ん~、そのまんまの意味ぃ? 考えなくても分かると思うんだけどぉ。もしかしておバカさんなのかなぁ?」
……は?
なんだコイツ。
言葉の節々に、人を見下す態度が滲み出ている。
しかも、こちらに対する警戒心も、戦闘前の緊張も、まるで感じられない。
完全に、私をナメてる。
……そう、グチャグチャにされたいタイプの女ってことね。
了解したわ。
「そう……。じゃあ……死んで」
【夜爪】
私は頭の中で固有術式を唱える。
すると、グローブを纏った両手の指と指の間に、黒く靄の掛かった鋭い爪が、四本ずつ生成された。
夜の闇を切り裂くような、不吉な刃。
「あらぁ怖いわ」
沙織は仰々しく両手を口元にあて、わざとらしく身を震わせる。
「……出来たらの話だけど。――Soul Link――『蜂針扇』」
彼女の肩のゴーレムが、内側から弾けるように砕け散った。
その中から、ブブブブと羽音を立てて、夥しい数の蜂が溢れ出してくる。
……コイツ、ゴーレムは『偽装』だったってこと?
れいくんが言っていたモーター音の正体は、羽音だったわけね。
蜂の群れは沙織の全身を覆い尽くし、彼女の身体を一瞬で隠した。
そして次の瞬間、蜂が周囲に散ると、沙織の両手には、鮮やかな金と黒の模様が描かれた、二本の大きな鉄扇が握られていた。
鉄扇の縁には、無数の小さな針が、棘のように並んでいる。
「ねぇ紗奈ちゃん。そんなにピリピリしてると、男が逃げるわよぉ?」
「余計なお世話よ」
【月駆】
ブーツから禍々しい黒いオーラが噴出し、私の身体能力を極限まで引き上げる。
……一気に仕留める。
【雷燕】
【刻-点火】
脚に雷燕の余白を巡らせ、地面を爆発するように蹴り出す。
目にも留まらぬ速度で沙織との距離を詰め、グローブに点火術式を込めて、彼女の腹部めがけて鋭くジャブを放った。
これが当たれば、術式が体内に刻まれる。
あとはブーツで触れた瞬間、内側から焼き尽くす。
「【蜜霧】」
沙織は涼しい顔で、鉄扇を横一閃に振った。
扇の縁から、琥珀色の粘ついた霧が、噴水のように一気に噴き出してくる。
……まずい、視界が塞がれる。
私は咄嗟に拳を引き、地面を蹴って大きく跳躍。
蜜霧の上を飛び越えるように身体を捻り、空中で逆さまになりながら、沙織の脳天めがけて、かかと落としを叩き込もうとする。
しかし――。
ザァッ。
沙織は、背中から虫のような薄く透き通った羽を生やし、ふわりと後方へ瞬間的に移動した。
私のかかと落としは、彼女のいた場所を空しく通り過ぎ、石畳に直撃する。
ドゴォン!
地面が、深い亀裂と共に大きく抉れた。
「いやだ、野蛮ねぇ。女の子ならもっと、可愛くしなくちゃ」
「うっさいわね。アンタみたいな、媚び売りまくりのぶりっ子よりかマシよ」
――ビキビキ――
私の言葉を聞いた沙織のこめかみに、明らかなしわが寄った。
あら、思ったよりプライド高いのね。
「……ふふっ」
沙織は気を取り直すように、艶っぽい笑みを浮かべ直すと、鉄扇で口元を隠した。
「まぁ、それでも貴方のお仲間さんは、初めて会ったとき、私の色気と良い体に夢中でしたけどぉ~? まぁ、あんな危険を感じない男は、私のタイプじゃないから、どうでもいいけどぉ」
……お仲間さん?
初めて会ったとき……?
まさか、れいくん?
……このアバズレ、零人に色目使ったってこと?
しかも、れいくんが見惚れた?
これは後で、たっぷりお説教が必要ね。
れいくんには、女を見る目を養って貰わないと困るわ。
「あら、危険を感じる男が好きなの? ずいぶんと、趣味が悪いのねぇ」
「そちらこそ。もしかして、あんな腑抜けた男が、タイプだったりするのぉ?」
――ビキビキビキィ――
「「……あ?」」
……今、コイツ何て言った?
れいくんのことを……腑抜け……?
「「死ねやコラァ!!」」
お互いの怒声が、市場の朝の空気を、引き裂くように響き渡った。
【雷燕】
私は脚に余白を集中させ、地面を爆裂するように蹴り出した。
石畳が砕け、私の体は弾丸のように沙織へと突進する。
……今度こそ、当ててやる。
「あらぁ、怖いわぁ」
沙織は、こちらの本気の踏み込みを見ても、まったく動じない。
彼女は鉄扇を扇ぐように軽く振り、再び背中の薄羽を震わせる。
ザァッ――。
沙織の体が、再びふわりと宙に浮かび上がった。
空中に逃げて、私の手の届かない高度まで上昇する気か。
……甘いわね。
【月駆】
ブーツの黒いオーラを脚に纏わせたまま、私は空中で『二歩目』を踏み込む。
見えない足場を蹴り砕くように、私の体が一気に空へと駆け上がった。
月駆の真価。それは『空中を踏める』こと。
空に逃げたところで、私からは逃げられない。
「あらぁ、空も歩けるのねぇ? 器用な子」
沙織は驚きの表情も見せずに、薄羽を震わせて私の頭上へと再上昇する。
その動きには、まったく焦りがない。
……コイツ、最初から空中戦も想定済みってわけね。
【夜爪】
私は両手の靄の爪を構え、空を蹴って沙織との距離を一気に詰めた。
空中で交差する、私の爪と、彼女の鉄扇。
「【蜂衣】」
しかし、爪が彼女に届く寸前、沙織の周囲に無数の蜂が一斉に集合した。
密集した蜂の群れが、彼女の体を、頭の天辺から足の爪先まで完全に包み込んでいく。
黒と黄色の動く鎧。それは、彼女自身を守る、生きた防壁だった。
「キモッ……!」
思わず吐き捨てる。
私は爪を振り抜く力を緩めず、蜂衣に夜爪を叩き込んだ。
ブブブブブブッ!
爪は確かに蜂の壁を切り裂いた。しかし、千匹はいる蜂の群れの何匹かを潰しただけで、彼女の本体には届かない。
そして、潰した蜂達は、空中で『弾けた』。
ボシュンッ!
「うっ……!」
弾けた蜂から、毒々しい黄色の煙が一気に吹き出した。
刺激臭。視界が滲む。咄嗟に息を止めるが、煙はあっという間に私の周囲を覆う。
……毒煙!? 蜂を盾にして、攻撃すると毒を撒くタイプ!?
「あらぁ、不用意に殴っちゃダメよぉ? 私の可愛い子達は、傷つけられると、ちょっと『興奮』しちゃうから~」
蜂衣の中から、沙織の艶っぽい声が漏れてくる。
……このアバズレ、最初からコレ狙いだったわけ。
私の攻撃を、毒煙の起動装置として使ったのね。
私は煙の中で身を捻り、月駆で空中を蹴って、毒煙の範囲外まで一気に離脱した。
数メートル離れた空中で踏みとどまり、息を吐く。
口の中に、苦い味が広がっていた。
……息を止めても、肌から少し成分が入ったかしら。
手足が、わずかにピリピリする。
動きが、確実に鈍り始めている。
「ふぅ、危ない危ない。本気で来られると、私もちょっとは焦るのよぉ」
毒煙が薄れた向こうで、沙織は蜂衣を解いて、再び鉄扇を構え直した。
彼女は私と同じ高度に浮いたまま、優雅に微笑む。
無傷。一切の傷を負っていない。
……コイツ、強い。
いや、強いというより、噛み合わない。
私の戦闘スタイルは、術式を仕込んで起爆させる近接型。一撃でも当てれば、勝てる。
しかし沙織は、それを完全に理解した上で、私に『触れさせない』戦い方を選んでいる。
空中で距離を取る。蜂で防ぐ。毒で消耗させる。
空が戦場でも、彼女のスタイルは何一つ揺らがない。
むしろ、地上より自由に立ち回れる分、彼女の方が有利。
……搦め手の極致ね。
「ねぇ紗奈ちゃん、つまんないわよぉ? もうちょっと、楽しませてよぉ」
「黙れアバズレ……!」
【雷燕】
もう一度、空を蹴る。
手足のピリつきを無視して、グローブに点火術式を込める。
今度は、絶対に決める――!
「【蜜霧】」
沙織は、再び鉄扇から琥珀色の霧を噴き出した。
しかし今度は前方ではなく、私の進路上、彼女の周囲一帯に。
ブワッ――。
空中に琥珀色の霧の塊が広がり、私の視界を完全に塞ぐ。
咄嗟に息を止めて、月駆で霧を上から飛び越そうとした、その瞬間。
「【針嵐】」
霧の向こう側から、沙織の鉄扇が薙ぎ払われた。
扇の縁の小さな針が、一斉に剥がれて、霧を貫通するように私に向かって飛んでくる。
針は霧の中で見えない。気配だけが、ヒュンヒュンと風を切る。
まずい――!
【夜爪】により生えた爪で、勘で見えない針を辛うじて受け止める。
しかし、視界が塞がれた空中では、すべては防ぎきれない。
数本の針が、私の頬を、肩を、太腿を掠めて、血の線を引いていく。
さらに、針を避けるために空中で身を捻った瞬間、月駆の足場が崩れる。
チッ……!
空中で姿勢を立て直し、再び足場を踏み直す。
しかし、その間に沙織は、霧の上空――私の頭上に、楽々と回り込んでいた。
彼女は最初から、私を『下』に追いやる戦い方をしている。
空中戦の主導権を、完全に握られている。
「ふ~んあれを防ぐんだぁ、ちょっと褒めてあげる」
頭上の沙織の声が、急に低くなった。
艶っぽさが消え、戦闘者の声に変わっている。
「ねぇ、思ったんだけどさぁ」
彼女の鉄扇が、地面を指すように、ゆっくりと下げられる。
「貴方、もしかして結構強い? うん、強い。これは……ちょっと真面目にやらないとダメね」
沙織の周囲に、再び蜂が集まり始めた。
しかし、今度は数が違う。
彼女の周りの空間が、見る見るうちに黒と黄色に塗りつぶされていく。
空一面――いや、市場区画一帯の上空が、蜂で覆われていく。
「……あ?」
私は、思わず空全体を見渡した。
その光景は、もう生き物の群れというより、巨大な渦だった。
無数の蜂が、沙織の頭上で、ぐるぐると螺旋を描いて、巨大な柱を形成していく。
数千、数万――いや、もっと。
その柱の中心で、沙織が、艶やかに微笑んだ。
「ねぇ、灰路くんが見たら、褒めてくれるかしらぁ」
彼女がぽつりと呟いた言葉が、私の耳の端を掠めた。
灰路……? 誰のことだ。仲間の名前?
ともかく、コイツは、その『灰路』とやらに見せるために、本気を出すつもりらしい。
……不味い。
これは、不味い。
空中で逃げ場がない。下に降りても、上空全体から降り注いでくる。
「【蜜葬柱・百花繚乱】」
沙織の鉄扇が、優雅に天を指した。
ブォォォォォン――!!
蜂の柱が、一気に膨張した。
螺旋を描いていた黒と黄色の群れが、咲き乱れる花のように、四方八方へと展開していく。
いや、咲くのではない。
降り注ぐのだ。
市場区画一帯に。
毒も、針も、刺激も、すべてを混ぜ込んだ、絶対的な殲滅の柱として。
……あ、これ、避けられない。
私は、月駆の足場で空中に立ったまま、迫りくる巨大な蜂の渦を見上げて、舌打ちをした。
「ちっ……これ、面倒な相手だわ」




