違い
目を開けると、そこにあるのは見慣れない天井だった。
……なんて物語のようなことを考えてみるが、なんのことはない。昨日ログアウトする直前に借りた宿の天井だ。
俺はベッドから身を起こし、椅子に掛けてあった空亡のコートを羽織る。
みんなはもうログインしているだろうか。
「さて、下に降りるか。ほらコモ、行くぞ」
「うぅ~ん……分かったよぉ。……また、すずの所に行くの?」
コモはベッドからのそのそと這い出すと、四肢を伸ばして大きな欠伸をした。
凪やコモにやたらとすずのことを聞かれるが、そんなに俺が彼女を意識しているように見えるのだろうか。
……確かに気にはなっているが、相手はAIだし、異性として見ているなんてことは……ない、と思う。
「すずだけじゃない。みんなが居るか見に行くだけだ。ついでに朝飯もな」
「ふ~ん……まっいっか。ご飯、ご飯~!」
コモは何かを見透かしたような含み笑いを見せたが、すぐに俺の肩へ飛び乗り、楽しみそうに頭を左右に揺らした。
俺は部屋の扉を開け、静まり返った廊下の先の階段を降りて1階へと向かう。
食堂に降りると、そこには朝日が差し込むテーブルに座り、真っ白なキャンバスをじっと見つめているすずの後ろ姿があった。
女将さんは奥のキッチンにいるらしく、朝食を仕込む小気味よい包丁の音だけが響いている。
……まだ、他のメンバーは来ていないようだ。
「おはよう。朝早いんだな」
声をかけると、すずはびくりと肩を震わせて驚き、勢いよくこちらを振り返った。
「っ、びっくりしたぁ……! ……零人君こそ、朝早いじゃん」
「まぁ、俺たちは君たちとは流れている時間が少し違うからな。……眠れなかったのか?」
「……ちょっとね。昨日は色々なことがありすぎて、あんまり熟睡できなかったよ」
すずは気まずそうに「えへへ」と笑った。
その少し隈の浮いた顔を見ると、彼女をこんな物騒な一件に巻き込んでしまったという罪悪感が胸を突く。
「そのキャンバスはどうしたんだ? 何か描くのか?」
「……うん。ちょっと描こうかなって思ったんだけど。でも、昨日零人君たちに『一人は危険だ』って言われたのを思い出して、迷ってたんだ」
その言葉に、すずの絵を見てみたいという気持ちを思い出した。
「何を描くか決まっているなら……もし比較的安全そうな場所なら、俺達が守るよ。描き終わるまで横にいる」
「いいの!? ……一応、この街の中で一番景色が良い高台があって、ずっと描いてみたいなって思ってた場所があるんだ。観光名所だし、あそこならきっと安全だと思うんだけど……」
すずの顔に、パッと花が咲いたような笑顔が浮かぶ。だが、それはすぐに不安げな色に塗りつぶされた。
「じゃあ、アーサーたちが起きてきたらみんなで行こうか」
「……できれば、二人きりがいいかなぁ、なんて。……そんなに時間はかからないから」
その言葉に、一瞬だけ心臓が大きく跳ねた。
だが、俺はすぐに冷静さを取り戻す。これは誘い文句なんかじゃない。
恐らく、すずは昨日話しかけた『過去のトラウマ』について、俺に話すつもりなのだろう。
大勢に聞かれたくないから、俺と二人になる時間を求めている。
「……僕もいるんだけど」
コモが俺の肩の上で頬を膨らませた。分かっている。俺たちは二人で一人だ。
しかし、戦力が分散するのは危険ではある。
……だが、俺はそれでも、すずが何を抱えているのかを知りたかった。
彼女の描く世界を、一番近くで見たかった。
「……分かった。昨日『描いている所を見てみたい』って言ったのは俺だしな。何かあったら、俺が全力で守るよ」
「やった! じゃあ、行こう! 場所は表の大通りを上って、分かれた道の先にある巨大な木が生えた高台だよ!」
すずは弾かれたように立ち上がると、俺の手をぎゅっと掴み、『三毛猫の吐息』を飛び出した。
握られた手の熱。
一瞬見えた彼女の横顔は、決死の覚悟を決めたような、酷く緊張した面持ちをしていた。
早朝の冷たい空気の中、人混みを避けるようにして俺たちは大通りを駆けた。
道中、会話はない。
すずから伝わってくる張り詰めた緊張感と、必死に手を引いて走る彼女の足取りに、言葉が遮られていた。
すずの言っていた分岐を左に曲がり、しばらく坂を上ると、空を覆わんばかりの巨大な木が見えてきた。
崖際へと続く道の先には、この街の半分を見渡せる絶景が広がっていた。
朝日が地平線から顔を出し、全体がようやく見えた所だ。
街が黄金色に塗られて、息を呑むような光景だった。
「……すごいでしょ」
朝日に照らされた顔を、すずがこちらへ向ける。
その表情は、とても人間的で。どこかこの光景を、この世界を「私たちが生きている場所なんだ」と自慢するかのような、誇らしげなものだった。
「……あぁ。こんなに綺麗な場所、知らなかったよ」
「……綺麗だね……」
本当に、美しかった。コモも、この現実離れした絶景に目を丸くして言葉を失っている。
「そこのベンチに座ろっか。そこで、描くよ」
すずは茫然としている俺たちの手を引いてベンチに座らせると、おもむろにキャンバスと、例の古びた筆を取り出した。
真剣な表情。景色とキャンバスを、幾度も交互に見つめる。
凄まじい集中力だ。
隣に座っているだけで、肌がぴりつくような熱量が伝わってくる。
すずが、一度だけ深く頷いた。
刹那――彼女の右手が、目に見えない速さで動き始めた。
……一瞬、だった。
筆がキャンバスに触れたのか、それとも『出力』されたのかさえ判別できない。
ほんの数十秒。目の前に広がる複雑な光の階調、風の揺らぎ、街の喧騒までもが、すず独自の感性で解釈され、キャンバスの上に完璧な「芸術」として固定されていく。
すごい。確かに、とんでもなく凄い技術だ。
だが……あまりにも「早すぎた」。
人間の技術の範疇を遥かに超えた、冷徹なまでの『効率』と『正確さ』。
あまりの光景に、俺の脳が現実を拒絶し、理解が追いつかない。
「……やっぱり君たちビジターの人には気持ち悪いよね……」
「え……?」
すずが、筆を止めて俺を見た。
そこには、泣き出しそうなほど悲しそうな瞳があった。
俺は……今、どんな顔をしていた?
鏡を見なくても分かる。
恐らく、化け物を見るような、あるいは上位者に遭遇した時のような――『恐怖』の表情を浮かべていたはずだ。
俺は……勘違いしていたのかもしれない。
今まで俺は、AIを『俺たち人間とあまり変わらない存在』だと思っていた。
だが、それは傲慢な思い上がりだった。
俺はAIを無意識のうちに下に見て、自分たち人間に『近い』かどうかで価値を測っていたのだ。
だが今、俺たちの限界を軽々と超える「AIとしての剥き出しの本質」を見せつけられ……俺の生存本能は、彼女を『異物』として捉え、恐怖を抱いてしまった。
「い……いや、あまりの早さに驚いていただけだよ。すごいじゃんこの絵」
「あはは……ありがとう。」
すずは力なく顔を伏せた。筆を握りしめた小さな手が、細かく震えている。
あぁ、クソ。俺は何をやっているんだ。
一人の少女を、これ以上ないほど残酷に傷つけてしまった。
すずが絵を描くのは、見る人を笑顔にしたいからだと言っていたのに。
俺が反射的に向けてしまったのは、彼女を『機械』として突き放すような、最悪の拒絶だった。
すずは俯いたまま、震える声で俺に囁く。
「……零人君は、私に何があったのか……知りたいんだったよね」
「……」
……何も言えなかった。
こんな顔をして彼女を傷つけた俺に、彼女の心を知る資格なんて、本当はあるはずがないのに。
すずは、言葉を失った俺を置き去りにするように、静かに、独り言のように語り始めた。
その声は、朝の光の中でもひどく冷たく、そして切実に響いた。




