66目的
医師免許を持つ影繰り、吉岡里穂は小田切誠の体内の麻酔薬を細胞レベルで消去していく。
と、同時に、誠が負った、肩の傷を見ながら驚嘆の声を上げた。
「これ、君が一人でやったの?」
長いストレートの黒髪が、さらり、と肩を滑り落ちる、が白衣の下に着た豊満な胸を包むグレーのセーターが、ほわっ、とそれを受け止めた。
「は…、はい…。
圧迫止血すればいいのかと思って…」
微かに赤面しながら、誠は答えた。
吉岡は、ある意味、誠に近い感知能力を持っていた。
体内をレントゲン無しに見る事が出来るのだ。
血は、見事に止まっていたが…。
「誠君、この影を動かすことができる?」
誠は、体内の血管一本一本を潰すように血を止めていた。
「はい…。
あ、でも僕、物を大きく見る事が出来ないんです…」
誠の透視は、裸眼より広い視野は得られるのだが、拡大機能までは無かった。
ホホホ、とコココの間のような高音で吉岡は笑う。
「影の感知は、君が持っているスマホアプリじゃないのよ。
君が大きく見ようとすれば、いくらでも大きく見れるようになるものなの。
やってみて」
と、まことに顔を付けんばかりに接近し、肩の傷を指さした。
誠は、赤面しながら、自分の体内の血管を、大きく見ようと奮闘した。
「近くを見ようとすれば、大きく見えるものなのよ」
ただの赤い肉の塊の視界が、誠の集中力により、少しずつ大きくなった気がして…。
誠は、一つの血管を、水道工事の塩ビ管ほどに拡大して見れるようになっていた。
「見れました…
影をいったん、外します…」
と、一つの血管を圧迫していた影の手を消す。
実のところ、誠が傷を負ってから、まだ五分ほどしか過ぎてはいなかった。
現在、ムーンライト号は、無数のタグボートやあらゆる船に引かれて、まだ勝鬨橋の手前で綱引きのようにじりじりと進み続けていた。
誠と吉岡医師は、一等甲板の上で潮風に当たっていた。
誠の血管から、血が溢れ出す。
「そこで、よく見ていてね」
吉岡里穂は、糸のような影をミミズのようにうねらせて、血管を縫い合わせていく。
「見えたかしら?」
「えっ、と。
縫って、いるんですね?」
「そうよ。
君にも出来るか、試してみて」
はい、と呟き、誠は影の手を針のように尖らせ、血管を縫った。
「そうよ、上手だわ。
一つづつ、同じようにしていくのよ」
誠は、影の手で圧迫するのではなく、血管を縫い合わせた。
ボーガンが刺さった傷は、その深い部分から順番に血管を縫い合わせていくことによって、ものの数分で縫合され、最後に肩の皮膚から、つぅ、と一筋の血液を流すと、ほぼ見えない状態に治療された。
「凄い…」
誠は、腕を動かしてみた。
「痛みも、ほとんどない!」
「そうでしょう。
あなたみたいな子がいてくれて、あたしも嬉しいわ。
あなたがいれば、野戦状態になっても、すぐに仲間を治療する事が出来る」
ええっ! と誠は慌てた。
「そ、そんな!
医学の知識もないのに、無理ですよ!」
吉岡里穂は、ほほほ、とひどく高音で笑った。
細い眼鏡が、きらり、と光る。
「君はまだ中学生なんでしょう?
少しづつ勉強はすればいいわ。
それに、野戦治療にいちいち医師免許までは必要ないわよ。
基本、傷を治せばいいのだから、今と同じことをやればいいだけ。
それなら、簡単でしょう?」
この吉岡里穂先生は、東京本部専属の医師であると共に、戦闘を行っても猛者として知られていた。
人間は、体内を操作できる者にとっては、ごく壊しやすい玩具でしかない、と吉岡里穂は語る。
単純に、気道の開閉を阻害するだけで、どんなマッスルファイターも床を舐めることになるのだ。
また、細胞レベルで血流を操作出来る吉岡にかかれば、どれだけ護衛に守られた要人も、心筋梗塞、脳溢血、腸ねん転、腎不全、等自在に葬ることが可能だった。
「あなたも、そうなれるのよ♡」
ニッコリと笑う吉岡に、誠は微かに引きながら、わ…、判りました、勉強はしてみます…、と答えた。
吉岡は、純白の白衣にグレーの厚手のセーターを着て、タイトスカートに網タイツという、中学生には刺激の強すぎるファションの美女だった。
整った小顔は艶やかなストレートヘアで彩られ、セーターは豊満なバストで伸びている。
清楚ともいえる容貌と不釣り合いな肉体、そしてそれを存分に見せつけるファションセンスの持ち主だった。
その吉岡が、抱き抱えんばかりに誠に接近してくるので、誠は少々、酩酊に近く体が高揚していた。
吉岡先生は、体の中が見えるんだから…。
恥ずかしいと思えば、思うほど、誠の体は、正常な反応を示していく…。
誠の言葉は、大人のフェロモンを満開に撒き散らしている吉岡から逃れるための方便だったが、後に誠は、吉岡からの大量の宿題提出に悩まされることになる。
ほんの数分ほどで、誠は、今まで通りに立って歩けるようになっていた。
逃げるように、半ば走って、誠は美鳥たちの元に向かった。
美鳥は、ドールマスターの遺体を挟んで、アクトレス教官と話し合っていた。
「よう誠。
良い働きだったようだな」
アクトレスは笑うが、
「いえ…。
もっと、ちゃんと影が纏えてさえいれば、こんな失態をしないで済んだんです…」
と俯いた。
「まぁ、影を縫う、なんてのは基本で地味なことだが、それだけに1か月2か月で仕上がるもんじゃない。あたしでも、毎日のトレーニングは欠かさない、作り続けてナンボ、ってものだ。
それでも、美鳥とはぐれてからは一人でドールマスターと立ち向かい、起爆装置を奪ったのは十分な働きだ。
そのために美鳥は動けなかったんだからな」
言いながら誠の頭をゴシゴシとアクトレスは擦る。
最恐の戦士で、教え方の上手い教官なんだけど、スキンシップが激しいんだよなぁ…、と誠は思った。
「でも、あの時確かに、吉井一曹の顔をしていたんですが…」
床に濁った眼球を向けているのは、あまり背は高くないものの引き締まった体つきの白人だった。
「影繰りのメイクアップ能力者というのは、意外と多いんだよ。
たぶんマッドドクターの他にも、その手の能力者がいて、こいつの顔を作ったんだと思う」
「化粧だったんですか?」
「化粧というのとは少し違うが、影の力で他人や自分を変身させる力だ。
本当に凄いのになると、身内に混ざっていても全く分からない、というのもいる。
北欧のエレメンタリストという奴は、有名ダンサーのコピーになって世界ツアーに回ったそうだ。
色々能力差はあるが、小さな子供でも老人でも好き放題、なんて怪物もいる。
心理学的に言うと、変身願望、が影と結びついた能力なんで、割と多いんだろうな」
なるほど。
誠はあまり解らなかったが、確かにハロウィンにはしゃぎまわるタイプっているよな、とは思う。
「それで、原爆は見つかったんですか?」
アクトレス教官は首を振る。
「それが、爆発物は無いと小金井ニ曹は言っているのよ。
でも、変な機械が見つかっているわ」
美鳥が告げる。
「変な機械?」
「ああ。
明らかに船とは関係ないんだが、素人が見て判る代物じゃないんだ。
今、専門家を呼んでくる最中だ」
「じゃあ、原爆、というのは嘘だった訳ですか?」
「それが、どうにも解せないところだね。
何しろ、これだけの豪華客船をシージャックしておいて、原爆云々わざわざマイクで喧伝して、しかもこれだけ優秀な影繰りを見殺しにしてまで、一体何がしたかったのか?」
誠も、唸って腕を組んだ。
微かに肩に違和感はあるものの、痛みは感じない。
不意に、思った。
「あ、蒼井聡はどうなっているんですか?」
ん、とアクトレスは永田に聞いた。
「まだ、あの部屋に閉じ込めたままだそうだ。
どうせ、どこにも出られはしないしね。
何か問題でもあるのか?」
「もし、ですが、蒼井聡が有線ケーブルを内調に持ち込むことに成功していたとしたら、どうでしょう。
最初から、特定の遺伝子情報を調べる、なんて気はさらさらなく、引き込んだ有線で内調のコンピュータデータを丸々いただく、という作戦だったなら…」
むっ、とアクトレスは眉をしかめた。
「どこに、そんな有線なんてあるんだい?」
「さっき作ったんですよ。
僕と一緒に落ちるときに、目立たない極小の光ファイバーをポケットから垂らし、その先は、一般人のふりをした部下に持たせておいたんです。
地下の距離は調べて知っていただろうし、僕たちはそんなところまでは注意してはいなかった」
アクトレスは即座に永田に連絡した。
「教官、僕たちは芝離宮に向かってもいいですか?
勝鬨橋から、跳んでしまえば芝離宮まで1分もかかりません」
アクトレスは一瞬、迷ったが、
「高屋さん、それに井口、美鳥、坊やのお守りを任せるよ。
誠、行ってこい」
と顎で、目前の勝鬨橋を指し示した。




