23記憶
誰も、記憶を辿る、という事が、どんなことだか判っていない、と青山一郎は溜息をついた。
皆、一日ごとの日誌が頭にあり、ページを捲って行けばいい、とでも思っているのだ。
だが、人の心は、巨大な海のようで、今日までの数日間の記憶を辿る、と言うのは、深度も餌も異なる、無数の、しかも特定の魚を同時に釣り上げろ、と言っているようなものだ。
岩井部長は、最初から怒っていた。
「もう、話は済んだんじゃないかね?
私も忙しいんだよ!」
心の表層に浮かんでいるのは、幾つかの食堂やコンビニ、誰と食べるか、だけだった。
力に目覚めた最初の頃は、その人が特別、食い意地が張っているのかと思ったが、誰を見ても大抵は同じだ。
昼食や夕食時間に、大抵の人の心に浮かぶのは、食べ物の事ばかりなのだ。
海野が謝罪し、相手は催眠術の名人なのだ、と説明した。
岩井の頭には、自分が催眠術になど、かかるはずがない、と言う思いと、食事時間が過ぎていくことへの怒りがないまぜになって、海を覆いつくしていた。
海野は、四十代も後半の、小太りの落ち着いた男だった。
元々、尋問の話術に優れ、警視庁からスカウトされた男だ。
押されれば引き、引いたら押す、ような会話を繰り返し、相手から証言を引き出していく。
こういうエキスパートも、内調には数多く在籍している。
岩井の怒りを丁寧に謝罪し、海野は切り返した。
「もし、なんでしたら、正式に社長さんにでも、専務さんにでもお願いして、お話をいただく許可を取ってもいいんですよ。
令状が必要なら手配します。
その方がよろしいですかね?
ここ数日の行動を教えて戴ければそれでいいんで、個人的にお願いしているんですが…」
岩井の怒りが急速に冷めていく。
上に知られるのはマズい…。
と、言葉が木霊のように、海に波紋を広げていった。
「まずは昨日の晩の事なんですが、お仕事が終わった後、どうなさいましたか?」
「昨日か? 昨日は確か、部下を連れて熊野屋に行った」
熊野屋と言う居酒屋の情景が、海のあちこちに、バラバラに浮かび上がる。
部下の好悪、成績、どう査定しようか、等が水泡のように浮かび、消えていく。
酒や肴の味、交わされた会話の断片などが、無数に蘇ってくる。
ゴルフ、野球、サッカーの選手の姿や数字データが浮かび、テレビの画面、アイドルのグラビアや、青山の知らない、多分昔のアイドルの姿などが浮かび、女のヌードや、性器などが、海を割るように巨大に浮かび上がってくる。
青山は女性を知らない。
だから、最初は濃厚なセックスシーンが見えたり、女性器が見えるたびに赤面し、堪らなくなってトイレに駆け込んだりしていたが、だんだん慣れた。
熊野屋に言った部下の名前を教えた後、岩井は帰宅したと言った。
青山には、細い路地裏にある小さな店が見えた。
青山は、海野の横に控えていたが、黒い手帳を開き、口を挟んだ。
黒い手帳には、なにも書かれてはいない。
初めは、言葉で、違うんじゃないですか、とか、こうだったんじゃないですか、と言っていたのだが、大人には、高一の自分は、よほど幼く見えるらしく、子供に間違いを指摘された、と言うだけで、大抵の大人は激高し、海野も抑えるのに苦労していた。
だが手帳を読む真似をすると、意外と大人しく、人は話を聞く。
子供の指摘は聞けなくとも、文章記録が残っていると思うと、人は間違いを認めやすいもののようだ。
「熊野屋の後、駅前のチケットと言う店に一人で行き、数時間カラオケをしていますね?」
青山の言葉に、岩井は、付けていたのかね? とムッとするが、行ったことは認めた。
「もう十何年も通っている店だよ。
あそこのママは、昔は綺麗でね…」
昔の姿が浮かび上がる。
確かに綺麗だが、多少、芸能人とイメージが混ざっているようだ。
人の頭に浮かぶ映像は、全て正確、という訳では無いのだ。
ふと、ガラガラのカウンター席に、白い背広の白人の男が現れた。
男は、気さくに会話をするが、岩井は酔っているので、会話自体は、ぼやけて意味までは拾えない。
男は、多分、岩井の口にした煙草に火をつけた。
薄暗い店だ。
カラオケのモニターが眩しく見える。
マッチの火は鮮やかに明るい。
眩しいほどに、炎が光り…。
火が消えると同時に、白い服の男も、チケットと言う店も、同時に消えてしまった。




