134違和感
蜘蛛女は空中で弧を描き、誠の頭上に着地した。
同時に!
ピィィィィー。
誠のすぐ横を、一本の糸が、走り抜けた。
誠は驚いて、身を捩った。
「あはは、驚いたかい。
あんた、今まで自分がどこにいるのか気づいてなかっただろ?
あんたが立っているのは、あたしの王国の内部。
あたしが自由に操れる世界なんだよ!」
女はまた、横に跳ぶ。
キィィィィーツ。
糸が、独特の金属音を響かせながら、誠の横を走り抜けていく。
女は踊るように奥に飛んだ。
「坊やは茹で卵をなんで切る?
包丁かい?
あたしなら糸で切るね。
裁縫用の細くて強い糸でなら、柔らかい卵も潰れずに切れるのさ!」
誠の顔に浮かんだ恐怖の色を確認すると、女は泥のように笑い、上に飛んだ。
「さぁて勇敢な坊やのみじん切りだ!」
幾つもの糸が、同時に走る。
糸の中にいる誠には、ギターの弦がしなるように、響く無数の糸の音が聞こえていた。
ヒュゥゥゥー。
キィィィッー。
ドォォォォォーン。
それらの音が、誠を中心に交差した。
「誠!」
美鳥が叫ぶが。
誠は、無傷で糸の上に立っていた。
「言ったでしょう。
そういうのは、僕には効かないって。
あなたの動きが引き金になる攻撃は、全て透過できる。
僕はそういう影繰りですよ」
誠は言って、影の手を伸ばした。
「そして接近戦でなら、僕はあなたの心臓を握りつぶせる!」
10メートルほど一気に、誠は女に近づいた。
ち、と蜘蛛女は舌打ちし、
「ならば接近戦をしてやるよ。
思い知るんだね、ちびた餓鬼の無力さを!」
女は一気に落下した。
手には一束の糸が握られている。
坊やは全く気付いたいないが、とスパイダークイーンは考えた。
あたしはこの蜘蛛の巣の、糸の1本1本の意味を把握している。
だから驚くよ、透過する暇さえ与えない不意打ちの攻撃を…。
その糸は、誠の頭上3メートルに走っていた。
ここを引けば、あれが発動する…。
そう、見えない攻撃って奴だ。
どんな攻撃であれ、不意打ちというのが、最も相手にダメージを与える。
どんなに筋肉を耐え上げた男でも、意表を突いた攻撃を側頭部などに貰うと、脳震盪を簡単に引き起こす。
だから蜘蛛女は、数メートル落ちればよかった。
跳ぶよりも、落ちる方が速い。
だから蜘蛛女は落ちたのだ。
女は糸に手を伸ばした。
そのとき。
少年の体から、黒い影の腕が伸びてきた。
ふふん、と蜘蛛女は鼻で笑った。
皮手袋をはめた、この手に渡した1本の糸。
あの影の手は、これで防げる。
誠の影の手のパワーは、蜘蛛女は充分に理解ていた。
あたしの勝ちだ。
女は糸を両手の間に張りながら、右手の人差し指でトリガーに触れようとしていた。
誠の影の手は、相変わらずのヌラッ、とした速度で、女の顔をめがけて伸びてくる。
女の両手の糸は、影の手を完全に防ぐ。
確かに坊やは透過が得意だが、この影の手は透過は出来ない。
なぜなら…。
透過をしたら、女に攻撃をすることができないからだ。
透過しながら、同時に相手の体に触れることは不可能なのだ。
だからあたしの勝ちだ。
女が思った瞬間、誠の影の手が2つに裂け、真っ直ぐ蜘蛛女に伸びてきた。
女は驚いた。
だが…。
引き金は、すぐ先だ!
勝った!
女の指はトリガーに触れ、見えない攻撃が発動した。
それは、厳密には、一瞬だけ可視化する多方位からの一斉攻撃、だった。
誠という空間の1座標に、一瞬、糸の塊が現れ、また消えていく。
たぶん坊やは糸の音を聞いているだろう。
瀑布の内部にいるような、無数の糸の織りなす玄妙な轟音を。
女の蜘蛛の巣の中に、瞬間、白い塊ができ、小田切誠を弾き飛ばした。
そして糸は、無数の糸の広がりの中に吸収され、また複雑なあやとりの曲線に戻っていく。
その、一瞬の白い糸のまとまりが消えた後の空間に、小田切誠が薄く笑って出現していた。
なに!
思った瞬間、女は察した。
坊やの体に纏わせていた、身体強化の影が、すっかり外に飛び出していた。
もはや、第2の少年として、影の体は落下する女に接近し、鋭い拳を、女の顎に突き刺していた。
女の顔が、三日月のように歪んだ。
顎が砕けたようだった。
落下の力が、誠の力を何倍にも増強していた。
一番己が危険な時に、自分を強化する影を体から剥がすなんて…。
なんて器用な奴なんだい…。
女は思い、そのまま失神した。
女の糸は消え、空中に浮いた誠は、慌てて影の腕を伸ばして、美鳥と井口のいるデッキに戻ってきた。
どさっ。
蜘蛛女をデッキに投げ出す。
「あんた、何やってるのよ!
こいつはそのまま落とせば、勝手に死んでくれるところでしょうが!」
美鳥が叫んだ。
「ちょっと疑問があるんです…」
誠は、考え込んでいた。
「最初に、僕の動きを封じた、あの虫。
あれが全く攻撃してこなかったのは、なぜでしょうか?
虫使いが蜘蛛女と仲が悪いにせよ、ここは絶対に僕を倒すべき所でした。
だけどあの虫は全く動かなかったんです!」
「確かに、今みたいなスレスレの戦いで、あれが誠に貼り付いていれば、結果は全く逆だったろうな…」
井口が歩み寄ってきた。
「井口さん、無事だったんですね!」
まぁ、無事じゃないんだが…、と井口は脇腹を抑えながら。
「しかしそれと、この女とどんな関係があるんだ?」
「もしオートマティックに動く類の影だとしたら、援護しなかった理由も説明がつく、と思うんです」
どういう意味? と美鳥は訝った。
「何かスイッチが入ると、あの虫が攻撃を始める可能性がある、って事か?」
井口は考えた。
しかし美鳥は、
「考え過ぎよ。
第1、それなら、最初に誠にその存在を見せる意味がないわ。
中途半端に存在だけ見せておいて、仲間が死んだら発動するなんて馬鹿げている。
誠が攻撃されなかったのは、おそらく糸の上で戦いを挑むなんて、相手が想定していなかった事でしょう」
「しかしフロアーにいた俺たちも攻撃されなかったのは事実だぞ」
「あたしたちが誠を積極的に援護していれば手を下したハズ。
あたしたちが不甲斐なかったために、そういう状況が偶然に発生しただけの事よ」
「では、レディさんたちが、全く今の戦いに参加しなかったのはなぜでしょう?」
誠の問いに、美鳥と井口は顔を見合わせた。
「蝶で連絡は、したわよね?」
「完璧に透過したはずです!」
誠は頷く。
「ミオさんやレディさんが、何も動かないのは確かにおかしい…。
高屋さんだって…、静かすぎるぞ…」
吹き抜けのフロアーだった。
世間話をしていても、耳に届かないなど有り得なかった。




