第74話:静寂の侵食と、ただの未接続エラー
それは、分かりやすい地鳴りも、空を覆う魔法陣も伴わない静かな侵食だった。
歩を進める俺たちの足元から、急速に「色彩」と「物質の質感」が失われ、ただの灰色の直方体だけが並ぶ、ひどく無機質で索漠とした空間へと周囲が変貌していく。
世界の調停機構が仕掛けた、世界の完成度そのものを剥ぎ取る術式。
『――全能の力を振るう舞台そのものを引き剥がした。これより汝らの周囲からすべての造形、すべての属性、すべての法則を消去する。触れることも、干渉することもできぬ未完成の虚無の底で、その絶対の覇気ごと永遠に迷い続けるが良い』
耳障りなアナウンスのような声が空間に響き、世界のディテールがどんどん削ぎ落とされていく。
「……主様。周囲の景色の情報が、まるで存在していないかのように完全に途絶しています。私たちが先ほどまでいた場所の繋がりすら見えません」
ルナはいつものように大騒ぎせず、むしろひどく冷静に、しかしその瞳に確かな戸惑いを宿して俺を見上げた。彼女の輪郭すら、この空間の簡素化に巻き込まれ、わずかにかすみ始めている。
調停機構がドヤ顔で発動させているこの「世界の消失」。
だが、その灰色の立方体だらけの虚無の景色を見渡した瞬間、俺はあくびを噛み殺した。
「舞台の消失ね。もっと高位の魔導で来るかと思えば、ずいぶんと初歩的なエラーを引っ張ってきたもんだ。これ、俺が昔、まだ世界の基礎構造を組み立ててた頃に、空間の接続設定を一部だけ繋ぎ忘れて、データが読み込めずにただのデフォルトの灰色の箱だけが表示された時の『ただの未接続エラー(あるいはただの読み込みミス)』の構造そのままだぞ。大層な結界っぽく見せてるけど、根本にあるのはただの配線ミスだ」
『――警告。データの最深部から、記述者本人による「全座標の強制結合」を確認。ば、馬鹿な、世界を隔離する絶対の虚無が、ただの「繋ぎ忘れ」だというのか……!?』
「俺が繋ぎ忘れただけの空間なんだから、俺が指先ひとつで『――あ、ここ、こっちの座標と繋いでおくわ』と修正してやれば、一瞬で世界の隅々まで最高の解像度で再構成することなんて、ただの日常茶飯事だろ」
空中の見えない歪みに、すっと指を触れる。
次の瞬間、灰色の直方体はガラスのように綺麗に割れ、そこから溢れ出した圧倒的な光が、一瞬で元の豪奢な空間をさらに洗練された極上のリゾート仕様へと塗り替えていった。空間を消去しようとした呪術は、俺が「ちょっと線を繋ぎ直してやった」だけで、ただの快適な空間へと引き戻された。
「……また一瞬で、世界の綻びを直してしまわれたのですね」
ルナが、少し呆れたような、けれど底知れない信頼を湛えた黄金の瞳で俺を見つめ、そっとその小さな手を俺の服の袖に絡めてくる。その距離は、世界のどんな法則が書き換わろうとも、決して離れることはない。
「言っただろ、この世界のすべての構造は俺のさじ加減ひとつだ。さあ、変なノイズも消えたことだし、次へ行こうか」
俺が微笑み、目の前の空間を軽やかにスワイプすると、ルナの視線の先に、次のステージへと続く静かな光の道(特等席)が美しく伸びていく。俺たちはその上を、ただ優雅に、当然の権利のように歩き進むのだった。




