第十六話 紀三井寺南へ戻る条件
和歌山県ダンジョン安全管理局の面談室は、窓がない。
白い壁。
長机。
古い空調の音。
安全のための部屋なのに、九条真には、どこか地下に近い場所のように感じられた。
机の上には、三種類の紙が置かれている。
公開版の事故報告書。
管理局内部の概要資料。
そして、コメント投稿者が保存していたという紙資料の写し。
三枝羊子は、資料の端を揃えてから言った。
三枝「紀三井寺南ダンジョン事故関連資料です。個人情報部分は伏せています」
九条「ありがとうございます」
璃子「記録を取ります」
麻里「くろまるは出しません」
麻里は、猫柄の布袋を膝の上に置いていた。
黒石は、その中にある。
ただし今日は、布袋の内側に銀色の遮蔽ケースを入れていた。
布越しでも、少しだけ硬い形が分かる。
三枝「黒石については、遮蔽状態の確認だけ行います。検証には使用しません」
麻里「はい」
璃子「麻里、膝の上に置いたままだと近いです」
麻里「近いと、だめ?」
璃子「変化の理由を増やしたくありません」
麻里「理由が増えると、分からなくなる?」
九条「ああ」
麻里は少し考え、布袋を隣の椅子にそっと置いた。
手を伸ばせば届く。
けれど、膝の上ではない。
麻里「これくらい?」
璃子「それで」
三枝はその動きを確認してから、最初の紙を九条たちの前へ滑らせた。
三枝「公開版です」
紙には、淡々とした文字が並んでいた。
『紀三井寺南低層公開ダンジョン崩落事故 概要』
発生日。
発生時刻。
被災者数。
救助完了時刻。
そこに、九条真の名前はない。
それは、以前からそうだった。
九条が巻き込まれたはずの事故なのに、公開資料上の九条は薄い。
まるで、最初から欄外にいたみたいに。
璃子「先輩」
九条「大丈夫だ」
璃子「まだ何も聞いてません」
九条「先に答えた」
璃子「そういう時は、たいてい大丈夫ではありません」
麻里「真先生、大丈夫じゃない?」
九条は少しだけ息を吐いた。
九条「大丈夫じゃないかもしれない」
麻里「じゃあ、言えてて大丈夫」
九条「理屈は雑だが、助かる」
璃子は画面に短く打ち込んだ。
『本人反応あり。閲覧継続。ただし無理はしない』
九条「それ、ぼくにも見えるようにしておいてくれ」
璃子「もちろんです」
三枝「次に、内部概要です」
二枚目の紙には、救助対象者の一部が匿名化されていた。
『救助対象者A』
『救助対象者B』
『救助対象者C』
名前はない。
けれど、九条には分かった。
このどこかに、自分がいる。
あるいは、自分がいたことになっている。
半年前の記憶は、今もまっすぐにはつながらない。
崩れる音。
粉塵。
誰かの声。
壁の奥に見えた、薄い緑色の文字。
Q.E.D.
証明終了。
何が終わったのかは、まだ分からない。
三枝「最後に、保存版です。コメント投稿者が紙で保管していたものの写しです」
紙の端は少し黄ばんでいた。
誰かが印刷し、捨てずに持っていたもの。
ただの紙なのに、画面上のPDFよりも強くそこにあった。
三枝「問題の行は、ここです」
九条は、三枝の指先を追った。
『十五時二十八分 救助継続中』
璃子の手が止まった。
麻里が小さく息を飲んだ。
三枝は、公開版の同じ時刻を示した。
『十五時二十八分 救助完了』
救助完了。
救助継続中。
同じ時刻。
反対の言葉。
麻里「完了してるのに、続いてる」
璃子「同時には成立しません」
九条「普通はな」
三枝「内部概要も、現在は『救助完了』です」
璃子「公開版と内部概要は同じ側。保存版だけが違う」
麻里「紙だけ、覚えてた?」
その言い方に、九条は背筋が冷えた。
紙が覚えていた。
データではなく、誰かの机の引き出しに残った紙が。
九条「今日は、証明しない」
面談室が静かになった。
璃子が九条を見る。
麻里も見る。
三枝も、少しだけ顔を上げた。
九条「何だ」
璃子「今の言葉を、もう一度お願いします」
九条「今日は、証明しない」
璃子「記録しました」
麻里「真先生、えらい」
九条「褒め方が保育園に近い」
三枝「いえ、大事な確認です」
三枝は、手元の紙台帳に一行を書き込んだ。
三枝「管理局としても、現地構造や記録の復元につながる行為は許可できません」
九条「復元はしません。照合だけです」
璃子「照合だけ、という言い方も危ないです」
九条「分かっている」
璃子「本当に?」
九条「本当に」
麻里「璃子ちゃん、今日は疑いが濃い」
璃子「過去の実績に基づいています」
九条「便利な言葉にするな」
三枝は、表情を変えずに資料を整えた。
三枝「現地調査の可否は、今日決めません」
九条「はい」
三枝「資料照合のみで異常が出た場合、そこで終了します」
璃子「異常が出なくても、条件が足りなければ終了です」
麻里「行くための話じゃない?」
九条「行かないための話でもある」
麻里「戻る前に、帰る準備?」
九条「かなり正しい」
璃子「採用します」
麻里「また採用された」
九条は、方眼ノートを開いた。
そこには、昨夜書いた一行がある。
『次は、戻る前に条件を決める』
九条は、その下に新しく書いた。
『行かない条件』
璃子「行く条件ではなく?」
九条「ああ。行かない条件だ」
三枝「確認します。条件を満たせなければ、紀三井寺南には入らない。そういう意味ですね」
九条「はい」
九条は、万年筆を持ったまま少し止まった。
条件を箇条書きにするだけなら簡単だ。
だが、並べすぎると、逆に行ける気がしてくる。
準備を整えたつもりで、危険を整えてしまう。
それが一番まずい。
九条「全部は、今ここで書きません」
璃子「なぜですか」
九条「箇条書きにすると、行ける気がしてくる」
璃子の指が止まった。
三枝も、ペンを止めた。
麻里「それ、こわいね」
九条「ああ」
九条は、ノートに一つだけ書いた。
『現地突入を前提にしない』
麻里「突入って、怖い言い方」
九条「実際、怖いことだ」
麻里「真先生がそれ言うと、ちょっと怖い」
九条「ぼくも怖い」
麻里は一瞬、驚いた顔をした。
璃子は、何も言わずにその言葉を記録した。
その時、面談室の扉がノックされた。
三枝「どうぞ」
七瀬朱が入ってきた。
赤い髪を後ろで束ね、黒いコートを腕にかけている。
ただ入ってきただけで、部屋の空気が少し固くなった。
強い人間が来た、というより。
危険を知っている人間が来た。
九条は、そう思った。
七瀬「遅くなりました」
三枝「ありがとうございます」
七瀬は席に座らず、机の資料を見た。
そして、保存版の一行で目を止めた。
七瀬「救助継続中」
声が低かった。
九条「覚えがありますか」
七瀬「あります」
麻里が顔を上げた。
七瀬は紙から目を離さない。
七瀬「十五時二十八分の時点で、私はまだ奥にいました」
三枝「奥、ですか」
七瀬「崩落地点の先です。音がしていました」
九条の喉が、少しだけ詰まった。
音。
半年前の記憶の中にも、音がある。
壁の奥。
石が落ちる音。
誰かが叩いていたような音。
思い出そうとすると、そこだけ緑色の薄い膜がかかる。
璃子「九条先輩」
九条「聞いている」
璃子「無理に思い出さないでください」
九条「分かった」
七瀬は、そこで椅子に座った。
七瀬「現地へ戻るなら、私が先に入ります」
九条「先行ですね」
七瀬「はい。床、壁、天井、敵性反応を確認します。九条さんは、その後です」
九条「分かりました」
七瀬「現地で表示が出ても、すぐ書かないでください」
九条「書きません」
七瀬「本当に?」
九条「本当に」
璃子「今日は全員から確認されますね」
九条「信用の積み立てに失敗している」
麻里「でも、今日から積める」
九条「そう願う」
七瀬は、隣の椅子に置かれた布袋を見た。
七瀬「黒石は、現地に持ち込む予定ですか」
麻里「分かりません。今日は、勝手に反応しないようにケースに入れてきました」
璃子「現時点では持ち込み未定です。管理局で遮蔽状態だけ確認する予定です」
七瀬「なら、そのままで。少なくとも今日は開けない方がいい」
麻里「くろまる、置いていく方がいい?」
七瀬「反応の理由が増えるなら、置いていく方が安全です」
麻里は、隣の椅子に置いた布袋を見た。
麻里「安全なら、そっちがいい」
七瀬「はい。守るというのは、使わない判断も含みます」
麻里は少しだけ迷ってから、頷いた。
麻里「……うん。分かった」
九条は七瀬を見た。
短い。
だが、麻里にはそれで足りる。
世界三位は、石の扱いまで強かった。
三枝「現時点で、現地同行者の役割だけ確認します」
九条「お願いします」
三枝「私が管理局側の記録と手続きを担当します。七瀬さんが安全確認。天野さんが記録。朝倉さんは黒石から距離を取り、単独条件にはしない」
麻里「単独条件?」
璃子「麻里だけを近づけて反応を見る、ということをしないという意味です」
麻里「私、実験されない?」
九条「ああ」
麻里「でも、私がいた方が分かることもあるんでしょ」
九条は、すぐには答えなかった。
麻里の周囲に出た乱数項。
定義外軌道。
黒石のM因子反応。
空欄通知の『Mを混ぜるな。式が壊れる。』
それらは全部、無視できない。
だが、麻里を式の部品にしてはいけない。
璃子の時に決めたことは、麻里にも同じだ。
九条「分かることはある」
麻里「うん」
九条「でも、君を分かるための道具にはしない」
麻里は、少しだけ目を丸くした。
それから、布袋に視線を落とした。
麻里「……うん」
璃子は、その一文を資料へ打ち込んだ。
『朝倉麻里を単独の検証条件として扱わない。本人の安全と意思を優先する』
九条「少し硬いな」
璃子「資料なので」
麻里「硬いけど、うれしい」
九条「なら採用だ」
七瀬が、保存版の紙へ視線を戻した。
七瀬「救助完了と救助継続中。同じ時刻で、反対の記録です」
三枝「公開版と内部概要は、どちらも救助完了です」
璃子「保存版だけが救助継続中」
九条「独立記録としては弱い」
麻里「弱いの?」
九条「一枚だけだ。しかも、どこから印刷されたものか、まだ完全には分からない」
麻里「でも、紙は残ってた」
九条「ああ。そこが重要だ」
璃子「先輩、今のは証明に近いです」
九条「分かってる。書かない」
九条は万年筆を閉じた。
小さな音が、面談室に響いた。
その瞬間、九条の視界の右下に、薄い緑色の文字が浮かんだ。
『同一事故記録群』
『出力差異:候補』
『正規化記録:救助完了』
『原記録候補:救助継続中』
『照合条件:未達』
九条は息を止めた。
璃子「表示ですか」
九条「ああ」
璃子「読める範囲でお願いします」
九条「同一事故記録群。出力差異、候補。正規化記録、救助完了。原記録候補、救助継続中。照合条件、未達」
三枝「未達」
七瀬「なら、書かない」
九条「書かない」
麻里「未達って、まだ足りない?」
九条「ああ。まだ足りない」
麻里「足りなくてよかった?」
九条は麻里を見た。
麻里は本気で聞いていた。
怖がっているのに、逃げてはいない。
九条「今日は、足りなくてよかった」
麻里「じゃあ、今日は勝ち?」
九条「書かなければ勝ちだ」
璃子「今の判断を記録します」
璃子は画面に打ち込んだ。
『本日、命題提示なし。理由:条件未達。現地照合前の証明を行わない』
三枝も紙台帳に同じ内容を書いた。
三枝「管理局側でも記録します」
九条「ありがとうございます」
三枝「業務ですので」
いつもの言い方だった。
だが、その文字を書く三枝の手は、普段より少しだけ丁寧だった。
七瀬は保存版の紙を見ている。
麻里は布袋を見ている。
璃子は画面を見ている。
九条だけが、どこを見ればいいのか分からなかった。
半年前の紀三井寺南。
救助完了とされた場所。
それでも、どこかで何かが続いている場所。
九条の視界に、もう一行だけ、緑色の文字が浮かんだ。
『救助完了は、終点ではない』
九条は、声に出さなかった。
言えば、その言葉が形を持ちすぎる気がした。
だが、璃子は九条の沈黙を見逃さなかった。
璃子「先輩。まだ何か出ていますか」
九条「出ている」
璃子「読めますか」
九条「読める」
璃子「記録します」
九条は迷った。
迷ってから、言った。
九条「救助完了は、終点ではない」
面談室の空気が、はっきり変わった。
麻里が、隣の椅子に置いた布袋へ手を伸ばしかけて、止めた。
七瀬の視線が鋭くなる。
三枝のペンが止まる。
璃子だけが、静かにその一文を打ち込んだ。
麻里「終点じゃないなら、まだ続いてる?」
九条「その可能性がある」
麻里「じゃあ、帰ったって言葉だけ見たらだめだね」
九条「ああ」
七瀬「九条さん」
九条「はい」
七瀬「現地に行く前に、最後の条件を決めてください」
九条「最後の条件?」
七瀬「戻るかどうかではなく、戻ってはいけない瞬間です」
九条は、ノートを開いた。
今日、この場で初めて開いたページだ。
それでも、そこには最初から空欄があったように見えた。
何を書くべきか。
証明するな。
復元するな。
救助完了を信じるな。
どれも違う。
九条は万年筆を握ったまま、しばらく黙った。
麻里「真先生」
九条「何だ」
麻里「助かったって言葉で、誰かが消えるなら、それは助かったじゃないと思う」
九条の手が止まった。
麻里は、うまく言えなかったように口を結んだ。
それでも、言葉は届いた。
璃子も、三枝も、七瀬も、何も言わなかった。
九条はノートに書いた。
『救助完了という言葉を、信じすぎない』
璃子「それを条件にしますか」
九条「ああ」
三枝「管理局資料に、そのままの表現は書けません」
九条「分かっています」
三枝「ただ、趣旨は残します」
九条「お願いします」
七瀬「良い条件です」
九条「七瀬さんに言われると、重いですね」
七瀬「重いから必要です」
麻里「真先生、今日は書かない勝ち」
九条「ああ。今日は、書かない勝ちだ」
璃子は、最後にもう一行だけ記録した。
『紀三井寺南への再照合は未定。行くためではなく、戻るための条件を先に残す』
九条は、その文字を見た。
戻るため。
戻らないため。
そして、戻ったことにされないため。
保存版の紙には、まだ同じ一行が残っている。
『十五時二十八分 救助継続中』
九条は万年筆を閉じた。
今日は、証明しない。
それでも、分かったことがある。
半年前の紀三井寺南で、救助は終わったことになっている。
だが、その言葉の裏に、まだ別の言葉が残っている。
九条は、紙から目を離さなかった。




