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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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15/22

第十五話 この動画の字幕は、一度変わりました

午後一時。


九条真の部屋には、珍しく人間が生活できるだけの床が残っていた。


昨夜、いや、今朝に近い時間まで管理局にいたせいで、三人とも一度は帰って眠った。


正確に言えば、九条は眠ろうとした。


璃子は「寝ます」と言った。


麻里は「寝るの勝ち」と言って、なぜか勝者の顔で帰った。


そして今、九条の机の上には、方眼ノート、万年筆、璃子のノートパソコン、猫柄の布袋、紙台帳の写しが並んでいる。


布袋の中には、記録ちゃん三号が入っていた。


麻里「三号、先輩っぽい」


九条「記録媒体に上下関係を作るな」


麻里「でも、初号機よりちょっとしっかりしてる」


璃子「USBメモリに人格を増やさないでください」


璃子はそう言いながら、ノートパソコンを開いた。


顔色は、昨日より少しだけましだった。


少しだけだ。


九条「寝たか」


璃子「寝ました」


九条「何時間」


璃子「質問の解像度が高いです」


九条「答えにくい時間だったか」


璃子「必要な分は」


麻里「璃子ちゃん、それ前も言った」


璃子は一瞬だけ止まった。


それから、小さく頷いた。


璃子「では、言い直します。三時間半です」


九条「足りない」


璃子「分かっています。でも、今は動けます」


九条はそれ以上言わなかった。


止めるべき時と、止めることで逆に危なくなる時がある。


昨日それを、嫌というほど知った。


璃子は新規ファイルを開いた。


昨夜、最後に打った一文が残っている。


『この動画の字幕が、一度変わりました。』


麻里が画面をのぞき込む。


麻里「続き、書く?」


璃子「書きます」


九条「先に決めよう」


璃子「何をですか」


九条「出さないものを」


璃子の指が、キーボードの上で止まった。


九条は続けた。


「君が消えかけたことは、出さない」


麻里も頷いた。


麻里「璃子ちゃんを見せ物にしない」


璃子「見せ物という言い方は雑ですが、方針としては賛成です」


九条「記録者が消えかけた、という事実は重要だ。だが、それをそのまま出すと、君自身を証拠にしてしまう」


璃子「第006項と第007項の制限に反しますね」


九条「ああ」


璃子は短く息を吐いた。


納得した顔ではなかった。


けれど、逃げた顔でもなかった。


璃子「では、出すのは字幕の変化だけです」


九条「戻る判断が、一時休憩に弱められたこと」


璃子「はい。あと、記録は一か所にまとめないこと。違和感があったら、詳細な場所を書きすぎずに報告すること」


麻里「場所、書かないの?」


璃子「全部書くと、真似して行く人が出ます」


麻里「じゃあ、ぼんやり?」


九条「ぼんやり、だが役に立つ程度だな」


麻里「難しいぼんやり」


璃子「それが一番大事です」


九条はノートに短く書いた。


『公開目的:外部観測者を増やす』


『公開しないもの:璃子本人の認識消失』


『公開するもの:字幕の変化、戻る判断、記録分散』


『禁止:復元要求、現地誘導、個人特定』


麻里「真先生、字がまじめ」


九条「今日は、まじめに書く日だ」


璃子「いつもお願いします」


九条「努力目標にする」


璃子「低い」


九条は反論しなかった。


     *


撮影は、九条の部屋で行うことになった。


ダンジョンには行かない。


管理局にも行かない。


危険な映像は使わない。


画面に映すのは、床動画の字幕ファイルの比較だけ。


それも、場所が特定できる映像はすべてぼかす。


璃子は机の上に紙を二枚置いた。


一枚目。


『元の字幕』


『危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です』


二枚目。


『変わった字幕』


『危険を感じたら、一時休憩してください』


麻里は二枚を見比べて、眉を寄せた。


麻里「やっぱり、いや」


九条「どこが」


麻里「一時休憩だと、また行く感じがする」


璃子「そうです」


麻里「戻るは、帰っていい感じ」


九条「それでいい。今の感想を使う」


麻里「え」


璃子「使います。視聴者には、その方が伝わります」


麻里は少しだけ背筋を伸ばした。


麻里「じゃあ、ちゃんと言う」


九条「短くていい」


麻里「うん」


璃子はカメラを回した。


撮影開始の赤い点が灯る。


九条は紙を持ち、カメラの前に座った。


璃子「始めます。三、二、一」


九条は画面を見た。


自分の顔は映さない。


声も、必要最低限。


「この動画の字幕は、一度変わりました」


言葉にした瞬間、部屋の空気が少し硬くなる。


九条は続けた。


「元の字幕は、こうです。危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です」


紙を一枚めくる。


「変わった字幕は、こうでした。危険を感じたら、一時休憩してください」


短い沈黙を置いた。


「似ていますが、同じではありません」


九条はそこで言葉を切った。


璃子がカメラの向こうで小さく頷く。


長くしない。


説明しすぎない。


九条は息を吸った。


「休むことは大事です。でも、戻ることはもっと大事な時があります。低層ダンジョンでも、怖いと思ったら戻ってください。進まない判断を、失敗にしないでください」


麻里が、横から小さく言った。


「帰るの、勝ち」


九条は一瞬だけ麻里を見た。


予定になかった言葉だ。


だが、悪くない。


璃子は止めなかった。


九条はカメラに戻る。


「今の一言が、たぶん一番分かりやすいです」


麻里が小さく喜んだ気配がした。


璃子は声を出さない。


撮影を止めない。


九条は続けた。


「もし、自分の記録が変わったように感じた場合は、一つの場所だけで確認しないでください。紙、音声、写真、外部保存。できれば、別々の手段で残してください」


一拍。


「ただし、危険な場所の詳細を書き込まないでください。真似して行く人が出ます。自分だけで証明しようとしないでください。専門機関に相談してください」


璃子が、そこで手を上げた。


九条は止まる。


璃子「専門機関、だけだと弱いです」


九条「管理局へ、と言うか」


璃子「はい。ただし、地域によって窓口が違うので、各地のダンジョン管理機関へ、にしてください」


九条「分かった」


撮り直す。


九条は同じところから言い直した。


「各地のダンジョン管理機関へ相談してください」


今度は璃子が頷いた。


撮影は、そこで終わった。


麻里「私、勝った?」


九条「何に」


麻里「帰るの」


九条「ああ。かなり勝った」


麻里は満足そうに頷いた。


璃子は録画データを保存する。


保存先は三つ。


ローカル。


外付けSSD。


記録ちゃん三号。


それから、紙に時刻を書く。


九条と麻里も確認して署名する。


璃子は、自分の名前を書こうとして、一瞬だけ手を止めた。


九条は見ていた。


けれど、何も言わなかった。


璃子は、名前を書いた。


『天野璃子』


文字は消えない。


少なくとも、その紙の上では。


麻里「残った」


璃子「はい」


九条「焦らなくていい」


璃子「焦っていません」


麻里「ちょっと焦ってた」


璃子「麻里」


麻里「ごめん。でも、見てた」


璃子はペンを置いた。


怒らなかった。


璃子「見ていてくれて、助かります」


麻里は少しだけ照れた。


「うん」


     *


編集作業は、思ったより短く済んだ。


璃子は余計な演出を入れなかった。


派手な効果音もない。


怖がらせるBGMもない。


九条が紙を読み上げる場面。


麻里の「帰るの、勝ち」。


元字幕と変化後字幕の比較。


最後に、短い注意書き。


『危険を感じたら、進まないでください』


『戻る判断も探索技術です』


『記録は一つにまとめないでください』


『場所の詳細を書きすぎないでください』


『自分だけで証明しようとしないでください』


璃子は最後のクレジット欄で手を止めた。


画面には、空欄がある。


『撮影・編集・記録:』


九条は黙っていた。


麻里も黙っていた。


璃子は、そこに「R」と入力した。


エンターを押す。


一秒。


二秒。


画面が白く揺れた。


『撮影・編集・記録:』


また空欄になった。


麻里「……消えた」


九条の手が、万年筆へ伸びかける。


そこで止めた。


証明ではない。


今は、戻す場面ではない。


璃子も、画面を見たまま動かなかった。


やがて、静かに言った。


璃子「やめます」


麻里「やめちゃうの?」


璃子「名前を戻す作業は、今はしません」


九条「それでいい」


璃子は、クレジット欄そのものを削除した。


代わりに、動画の最後へ一文だけ入れる。


『この動画は、固定カメラや自動処理だけで作られていません。人が確認し、判断し、公開しています。』


麻里が画面を見た。


「名前、ない」


璃子「はい」


麻里「でも、なしじゃない」


璃子「そうです」


九条は頷いた。


「完全復元ではない。だが、記録なしではない」


璃子は短く保存した。


今度は、文字は消えなかった。


麻里「勝ち?」


璃子「半分です」


九条「半分勝ちは、今日はかなり大きい」


璃子「その言い方は採用します」


動画のタイトル欄に、璃子が入力する。


『この動画の字幕は、一度変わりました』


麻里「怖いタイトル」


璃子「怖がらせるためではありません」


九条「気づいてもらうためだな」


璃子「はい」


概要欄には、璃子が短い文を書いた。


『この動画は、低層探索者向けの注意喚起です。危険を感じたら戻ってください。戻る判断は探索技術です。異常な記録変化に気づいた場合は、詳細な場所を書きすぎず、各地の管理機関へ相談してください。』


九条「短い」


璃子「長いと読まれません」


九条「正しい」


麻里「概要欄、えらい」


璃子「概要欄を褒める人は初めて見ました」


投稿ボタンの前で、三人は少しだけ黙った。


公開すれば、誰かが見る。


誰かが助かるかもしれない。


誰かが真似するかもしれない。


誰かが、世界の処理に気づいてしまうかもしれない。


それは、良いことだけではない。


璃子「先輩」


九条「何だ」


璃子「怖いです」


九条「ああ」


璃子「でも、閉じたまま処理される方が、もっと怖いです」


九条「ぼくもそう思う」


麻里「私も。閉じたら、息ができない感じする」


璃子は投稿ボタンを見た。


「公開します」


クリック。


画面が切り替わる。


『動画を公開しました』


部屋は、何も変わらなかった。


世界が揺れることもない。


緑色の文字が部屋中に走ることもない。


ただ、Q.E.D.チャンネルに、一本の動画が増えた。


それだけだった。


それだけで十分だった。


     *


最初の十分、再生数はほとんど動かなかった。


麻里が画面を見つめている。


麻里「世界、まだ気づいてない」


九条「世界は忙しいからな」


璃子「視聴者です」


九条「訂正する。視聴者は忙しいからな」


十五分後。


再生数が百を超えた。


コメントが一つ付いた。


『タイトル怖いけど、内容は普通に大事だった』


璃子は小さく息を吐いた。


九条「悪くない」


麻里「普通に大事、いいね」


次のコメント。


『戻る判断も探索技術、これはもっと広まってほしい』


その次。


『字幕の比較、うちのパーティでも似たことあったかも。撤退って書いたメモが休憩に変わってた。紙の原本探します』


璃子の指が止まる。


九条は画面に身を乗り出した。


麻里「来た?」


璃子「来ています。でも、詳細を書かせない方がいい」


璃子はすぐに固定コメントを作った。


『異常報告を書く場合、具体的な階層・座標・未確認区域名は伏せてください。手元の記録は複数媒体に分け、各地の管理機関へ相談してください。危険な場所へ確認に行かないでください。』


投稿。


固定。


璃子「これで最低限です」


九条「早いな」


璃子「コメント欄は、地図より先にひびを見つけます」


九条は少しだけ笑った。


「君が言うと重い」


璃子「実感です」


コメントは、ゆっくり増えた。


『休憩室じゃないけど、退避通路の表示がいつの間にか倉庫になってたことある』


『撤退報告を出したはずなのに、後で見ると“探索中断なし”になってた』


『これ、動画の影響で気のせいって言われそうだけど、紙に出しておくの大事かも』


『場所は書かないけど、低層で“怖いから帰った”って言った子が、翌日“疲れたから休んだだけ”って言ってた。似てる』


麻里の顔から、少しずつ笑みが消えた。


麻里「いっぱいある」


九条「ああ」


麻里「でも、みんな一人じゃなくなる?」


璃子は画面を見たまま答えた。


「そのために出しました」


九条の視界に、薄い緑色の文字が浮かぶ。


動画の管理画面。


コメント欄。


固定コメント。


複数の視聴者。


その上に、細い線のような表示が重なっている。


『外部観測者:増加』


『閉鎖処理:遅延』


『正規化負荷:上昇』


九条「効果は出ている」


璃子「何が見えますか」


九条「外部観測者が増えている。閉じた処理が少し遅くなっているらしい」


麻里「みんなで見たら、消しにくい?」


九条「たぶん、そうだ」


璃子「たぶん、で十分です。今は」


九条は画面を見た。


コメント欄は、証拠そのものではない。


嘘もある。


勘違いもある。


恐怖に引っ張られた記憶もある。


それでも、ゼロではない。


一人の記憶が消されるなら、二人で持つ。


二人で弱いなら、十人で見る。


十人で足りないなら、百人に「戻る」という言葉を渡す。


証明ではなく、観測を増やす。


それは九条一人ではできないことだった。


麻里「真先生」


九条「何だ」


麻里「Q.E.D.チャンネル、みんなの記録ちゃんになった?」


九条は少し考えた。


璃子が先に答えた。


「まだです」


麻里「まだ?」


璃子「でも、そういう場所にします」


麻里は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、育てる」


九条「チャンネルを育成ゲームにするな」


璃子「でも、近いです」


九条「近いのか」


璃子「放置すると荒れます。手を入れすぎると息苦しくなります。危険な投稿は止めます。でも、必要な声は残します」


麻里「璃子ちゃん、園長先生みたい」


璃子「なぜ急に幼稚園になるんですか」


九条「ぼくは入園拒否されそうだ」


璃子「されます」


九条「即答か」


麻里「私は入れる?」


璃子「麻里は走り回らなければ」


麻里「試作中」


九条「そのモード、まだ試作なのか」


短い笑いが起きた。


今度の笑いは、軽かった。


軽いのに、逃げではなかった。


     *


夕方。


動画は、これまでの床動画ほど派手には伸びていなかった。


それでも、再生数は少しずつ増え続けている。


コメント欄には、璃子が固定した注意書きが一番上に残っていた。


九条は管理画面を見ながら、ふと気づいた。


「消えていないな」


璃子「何がですか」


九条「固定コメントだ」


璃子の手が止まる。


麻里も画面を見る。


『危険な場所へ確認に行かないでください。』


『戻る判断は探索技術です。』


その文は、まだ残っていた。


休憩に弱められていない。


無理のない探索にもされていない。


璃子は、それをしばらく見ていた。


「外から見られているからでしょうか」


九条「可能性はある」


璃子「なら、見られる場所に置く意味はありますね」


九条「ああ」


麻里「みんなで見張り番」


璃子「見張り番に危険な場所へ行かせないことも必要です」


麻里「見張り番、家で見る」


九条「それが一番いい」


そのとき、新しいコメントが一つ付いた。


璃子が画面を更新する。


投稿者名は、普通のものだった。


アイコンもある。


空欄ではない。


本文は短かった。


『場所は詳しく書きません。半年前の紀三井寺南の事故報告書についてです。保存していたPDFと、今見られるPDFで文言が違います』


九条の指が止まった。


璃子の顔から表情が消える。


麻里が、布袋を抱きしめた。


コメントは続いていた。


『保存版には「未帰還者一名」とありました。今の公開版では「帰宅確認済み」になっています。気のせいかと思いましたが、紙に出していたものが残っていました。怖いので、まずここに書きます』


部屋の音が、すっと遠くなった。


半年前。


紀三井寺南ダンジョン。


崩落。


赤い髪。


救急車の白い天井。


壁の奥にあった、緑色のQ.E.D.


九条の視界の右下に、薄い文字が浮かんだ。


『関連記録:紀三井寺南ダンジョン事故』


『正規化記録:帰宅確認済み』


『原記録候補:未帰還者一名』


『照合条件:未達』


『注意:まだ、戻すな』


九条は、ゆっくり息を吸った。


璃子が小さく言った。


「先輩」


九条「分かっている」


麻里「行くの?」


九条は画面から目を離さなかった。


すぐに行く、と言いそうになった。


だが、その言葉は出なかった。


昨日の夜、帰ることを勝ちにしたばかりだ。


戻る判断も、探索技術だ。


進まないことを、負けにしない。


九条は万年筆を取った。


証明ではない。


まず、書く。


『紀三井寺南事故記録』


『未帰還者一名』


『帰宅確認済み』


『まだ戻すな』


璃子は、コメントのスクリーンショットを保存した。


麻里は記録ちゃん三号を机に置いた。


誰も、急がなかった。


そのコメントは、ただの新情報ではなかった。九条にとっては、半年前の事故そのものだった。


九条は最後に、一行だけ書き足した。


『次は、戻る前に条件を決める』


画面の中で、コメント欄はまだ消えていなかった。


――第十五話 了。

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