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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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14/22

第十四話 名前が届かないなら、役割から証明する

管理局の面談室に、ホワイトボードが運び込まれた。


深夜の白い部屋。


机の上には、紙台帳、ノートパソコン、USBメモリ、猫柄の布袋。


椅子には、眼鏡をかけた女性が座っている。


九条真は、その女性を見ていた。


重要な人間だとは分かる。


ここにいなければならない人間だとも分かる。


だが、名前がつながらない。


紙には、はっきり書いてある。


『天野璃子』


読める。


意味も分かる。


それなのに、視線を本人へ戻すと、名前だけが薄くなる。


三枝羊子が言った。


三枝「確認します。氏名は見える。記録にも残っている。しかし、その氏名が目の前の人物に結びつかない」


九条「はい」


麻里「すごく気持ち悪い」


その女性――璃子は、立ち上がった。


璃子「では、まず呼び方を仮に決めます」


九条「待て」


璃子「何ですか」


九条「君が仕切ると、また君を記録装置みたいに扱うことになる」


璃子は一瞬だけ黙った。


それから、ホワイトボード用のペンを三枝に渡した。


璃子「では、三枝さん。お願いします」


三枝「分かりました」


三枝はホワイトボードに三行書いた。


『目的:目の前の人物を同一人物として再認識する』


『禁止:本人を証拠物として扱わない』


『方針:名前ではなく、行動と関係を照合する』


麻里が小さく頷いた。


麻里「名前が迷子なら、足あとを見る」


九条「今はそれで行こう」


麻里「採用された」


璃子「喜ぶところではありません」


その声で、九条の胸が少しだけ痛んだ。


言い方は知っている。


声も知っている。


なのに、名前だけが届かない。


九条の視界に薄い緑色の文字が浮かぶ。


『記録者同一性保持:有効』


『氏名表示:保持済』


『観測者認識:接続不全』


『第006項では補正不可』


九条「やはり、第006では無理だ」


三枝「前回の定理は、記録上の同一性を守るもの」


九条「はい。今壊れているのは、記録ではなく認識です」


麻里「じゃあ、紙は助かったけど、人が迷子?」


九条「そういうことになる」


麻里「やだ」


短い声だった。


その一言だけで、部屋の空気が引き締まった。


麻里は布袋を抱きしめる。


麻里「記録ちゃんが残っても、その人が誰か分からないのは嫌」


璃子は何も言わなかった。


言えば、自分が証拠になってしまう。


それを理解している顔だった。


三枝が紙台帳を開いた。


三枝「まず、私から出します。これは私の手書き台帳です」


そこには、こう残っていた。


『奈良遠征記録提出者:天野璃子』


『床動画字幕原本保全者:天野璃子』


『記録保全手順書作成者:天野璃子』


三枝「システムでは空欄。コピーでも消える。ですが、原本には残っています」


九条「名前は使わない方がいい」


三枝「同感です。名前を読んだ瞬間に、逆に接続が滑ります」


三枝は台帳の横に付箋を三枚貼った。


『危険映像を非公開にした人』


『戻る判断を残した人』


『記録を分散させた人』


三枝「私が確認したのは、この三つです。固定カメラでも、自動処理でも説明できません」


九条「三枝さんの観測として成立する」


視界に文字が浮かぶ。


『独立観測一:成立』


次は麻里だった。


麻里は布袋を机に置き、両手をそっと離した。


麻里「これ、私が持ってた」


九条「誰に頼まれた」


麻里はすぐには答えなかった。


言葉を探している。


名前ではなく、感覚を探している顔だった。


麻里「……面倒くさい持ち方を教えた人」


九条「面倒くさい?」


麻里「映像と音と紙と外のコピーを分けるって。全部一緒だと、消える時に一緒に消えるからって」


三枝「正確です」


麻里「あと、私、言った」


九条「何を」


麻里は布袋を抱きしめた。


麻里「記録ちゃんは大事。でも、その人の方が大事って」


九条「誰に言った」


麻里は椅子に座る女性を見た。


名前を言おうとして、少しだけ苦しそうに口を閉じる。


麻里「……その人に。怒る人。止める人。私に記録ちゃんを持たせた人」


九条「その人は、記録ちゃんじゃない」


麻里「うん。記録ちゃんじゃない。だから、消えたらだめ」


璃子の指が、膝の上で少しだけ動いた。


九条は見ないふりをした。


本人の反応は証拠にしない。


今は、それを守る。


緑色の文字が走る。


『独立観測二:成立』


最後は九条だった。


九条はノートパソコンを開いた。


Q.E.D.チャンネルの編集履歴。


作成者欄は空欄になっている。


だが、履歴の中には短いメモが残っていた。


『ここは危険なので伏せます』


『長いです。切ります』


『戻る判断も探索技術です。これは残します』


『先輩の説明は正しいですが、視聴者には伝わりません』


『真似して跳ばない、を概要欄の先頭へ』


九条「固定カメラは、ぼくの説明が長いとは言わない」


麻里「言ったら怖い」


九条「自動処理も、戻る判断を探索技術として残すとは決めない」


三枝「編集ではなく判断ですね」


九条「ああ」


九条は、画面のメモを一つずつ見た。


そのたびに、名前のない人物の輪郭が濃くなる。


九条「ぼくは、放っておくと証明を優先する」


麻里「うん」


三枝「否定はしません」


九条「少しは否定してほしかった」


誰も笑わなかった。


九条も笑えなかった。


九条「そのぼくを止めた人間がいる。証明より先に、人を見ろと言った人間がいる。危ない映像を出さず、分かる形に直し、必要なら非公開にする判断をした人間がいる」


九条は万年筆を持った。


『命題第七項』


そう書いた瞬間、身体が固まる。


視線が机の上の記録から外れなくなる。


証明中の無防備状態。


麻里が九条の横へ立つ。


三枝は扉側へ移動し、録音機を入れる。


璃子は椅子に座ったまま、何もしない。


それが、今できる一番大事な仕事だった。


九条「命題第七項。観測者間同一性の再接続について」


面談室の照明が、かすかに揺れた。


九条の視界だけに、机の上の記録から緑色の線が伸びる。


紙台帳。


編集履歴。


猫柄の布袋。


九条のノート。


管理局の手書きメモ。


線は璃子本人へ直接触れない。


彼女の周囲で止まり、輪を作る。


九条「同一人物に関する複数の観測が存在する」


万年筆が紙を走る。


九条「観測者一。三枝羊子。記録提出、保全判断、手書き台帳により、同一人物の行動を確認」


三枝の台帳に、薄い光が重なる。


九条「観測者二。朝倉麻里。記録媒体の分散、保持の指示、人と記録媒体の区別を確認」


布袋の上に細い線が浮かぶ。


九条「観測者三。九条真。証明を公開可能な記録へ変換した判断、危険箇所を伏せた編集、証明者を止めた関係性を確認」


ノートパソコンの画面が白く揺れた。


そこに別の文字が重なる。


『同行者一名』


『固定カメラ』


『自動処理』


『記録なし』


九条「これらの代替説明は、観測された行動を説明できない」


白い揺れが強くなる。


九条「本命題は、失われた全記録の復元を求めない」


揺れが弱まる。


九条「本人の記憶、身体反応、恐怖、沈黙を証拠物として扱わない」


璃子の肩が、ほんの少しだけ下がった。


九条「求めるのは、複数の観測者によって分断された同一人物の再接続である」


緑色の輪が強くなる。


九条「記録者を匿名にすることは許す。公開名を伏せることも許す。だが、人を『誰でもないもの』へ分割することは許さない」


万年筆の先が、紙を強く押した。


九条「記録、役割、発話、行動、関係性が、複数の独立観測において同一人物へ収束する場合、その人物を観測者間で同一人物として再認識することを許可せよ」


一秒。


二秒。


三秒。


視界に文字が浮かぶ。


『命題証明を承認』


『証明内容を定理として登録します』


【定理 第007項】


観測者間同一性の再接続


【効果】


複数の観測者が、記録・役割・発話・行動・関係性の痕跡によって同一人物を指している場合、その人物を「同行者一名」「固定カメラ」「自動処理」「不明対象」等へ分割する認識処理を標識化し、観測者間で同一人物として再認識可能にする。


【制限】


本人の全記録を復元しない。


失われた記憶を完全には戻さない。


対象者本人を証拠物として扱わない。


少なくとも三者の異なる観測が必要。


関係性の痕跡を含まない記録のみでは成立しない。


【備考】


人間は、記録媒体ではありません。


証明者の身体能力に変化はありません。


九条は息を吐いた。


その瞬間、ばらばらだったものが一つに戻った。


短い黒髪。


丸い眼鏡。


ノートパソコン。


辛口の声。


長すぎる説明を切る判断。


危険な映像を伏せる責任。


九条を止める手。


全部が、一つの名前に戻る。


九条「……璃子」


椅子の女性が顔を上げた。


今度は、届いた。


九条「天野璃子」


璃子は、すぐには返事をしなかった。


九条を見て、短く息を吐く。


璃子「はい」


麻里の顔がくしゃりと歪んだ。


でも、泣かなかった。


麻里「璃子ちゃん」


璃子「はい」


麻里「言えた」


璃子「聞こえました」


麻里「よかった」


三枝は紙台帳に書き足した。


『観測者間同一性の再接続を確認。対象、天野璃子』


九条「公開記録は?」


三枝はノートパソコンを確認した。


動画末尾には、まだこう表示されている。


『撮影:固定カメラ』


『編集:自動処理』


『記録:なし』


三枝「戻っていません」


璃子「でしょうね」


麻里「戻ったんじゃないの?」


璃子「今回は、私たちの認識を戻しただけです。公開記録の復元ではありません」


九条「ああ。勝ったわけじゃない」


麻里「でも、璃子ちゃんは璃子ちゃん?」


九条「そこは戻った」


麻里「じゃあ、半分勝ち」


三枝「暫定的には」


麻里「行政、すぐ暫定って言う」


三枝「危険な件ほど断定しません」


璃子「正しいです」


九条は管理者用通知欄を見た。


投稿者名は空欄。


アイコンもない。


一文だけが表示されている。


『再接続を確認。』


続けて、もう一行。


『だが、観測者を増やせ。』


九条「……次は、閉じた部屋では足りないらしい」


璃子「何と出ましたか」


九条「観測者を増やせ」


三枝「外部観測者、ですか」


九条「おそらく」


麻里「外の人にも見てもらうってこと?」


九条「そうなる」


璃子はノートパソコンを見た。


迷っている顔だった。


自分が消えかけたことを公開すれば、誰かを巻き込むかもしれない。


公開しなければ、また閉じた場所で処理されるかもしれない。


九条「今、全部決めなくていい」


璃子「全部は決めません」


璃子は新規ファイルを開いた。


タイトル欄が点滅している。


九条「休むという選択肢は?」


璃子「あります。だから、下書きだけです」


麻里「下書きしたら休む?」


璃子「休みます」


三枝「記録します」


璃子「そこまでしなくていいです」


三枝「念のためです」


璃子は短く入力した。


『この動画の字幕が、一度変わりました。』


そこで手を止めた。


麻里「続きは?」


璃子「起きてからです」


九条「それでいい」


麻里「璃子ちゃん、休むのも仕事」


璃子「今だけは、その言い方を採用します」


三枝「では、管理局としても本日はここで区切ります」


璃子はノートパソコンを閉じた。


     *


管理局を出る頃には、夜が少し薄くなっていた。


廊下の自動販売機だけが、まだ明るい。


麻里が立ち止まった。


麻里「甘い現実、買っていい?」


九条「一本だけだ」


璃子「糖分は必要です」


三枝「経費にはできません」


麻里「行政、最後まで厳しい」


九条は小さく笑った。


璃子も笑った。


今度は、誰が笑ったのか分かった。


それだけで、今日の証明には意味があった。


出口の前で、璃子が振り返る。


璃子「先輩」


九条「何だ」


璃子「今日は、帰りましょう」


九条「ああ」


麻里「帰るの、勝ち?」


九条は頷いた。


九条「戻る判断も、探索技術だ」


璃子「その字幕は、今度こそ消させません」


麻里は缶の甘いカフェオレを両手で持った。


麻里「じゃあ、帰るの勝ち」


三枝が紙台帳を閉じる。


三枝「本日の確認は、ここまでです」


終わらせる。


戻る。


持ち帰る。


進まないことを、負けにしない。


九条は璃子の名前を、もう一度だけ心の中で呼んだ。


消えなかった。


完全な勝利ではない。


公開記録はまだ空欄のままだ。


動画の署名も戻っていない。


それでも、面談室を出る三人と一人の足取りは、来た時より少しだけ揃っていた。


――第十四話 了。

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