第十三話 記録者を消すなら、先に証明する
翌朝を待たなかった。
九条真の部屋には、夜のうちに紙が増えていた。
机の上には、方眼ノート。
璃子のノートパソコン。
麻里が持つ猫柄の布袋。
管理局へ提出する予定の封筒。
そして、九条がさっき書いたばかりの一文。
『璃子は、記録なしではない。』
麻里はその紙を、じっと見ていた。
麻里「字、怒ってる」
九条「字に感情はない」
璃子「あります。今の先輩の字は、かなり怒っています」
九条は反論しなかった。
自覚があったからだ。
公開動画の末尾から、璃子の署名が消えていた。
『撮影・編集・記録:R』
本来そこにあったはずの小さな署名は、
『撮影:固定カメラ』
『編集:自動処理』
『記録:なし』
に変わっていた。
言葉を弱めるだけではない。
今度は、記録した人間の跡を消している。
九条「璃子。第零版を見せてくれ」
璃子「手順書ですか」
九条「ああ」
璃子は机の端に置いていた紙束を差し出した。
『記録保全手順書』
『第零版』
『作成者:天野璃子』
そう書かれていたはずだった。
麻里が最初に声を出した。
麻里「あれ」
璃子「どうしました」
麻里は表紙を指差した。
そこには、こうあった。
『記録保全手順書』
『第零版』
『作成者:』
名前だけが、消えていた。
紙の上には、璃子の整った字が残っている。
項目も残っている。
『原本』
『手書き』
『音声』
『字幕』
『外部コピー』
『差異表』
その字の癖も、余白の取り方も、璃子そのものだった。
なのに、作成者だけが空欄になっていた。
麻里「璃子ちゃんの字なのに」
璃子は、しばらく紙を見ていた。
九条は何も言わなかった。
麻里が続けた。
麻里「名前だけ、いない」
その一言で、部屋の温度が下がった気がした。
璃子は手順書を受け取り、表紙を親指でなぞった。
璃子「……早いですね」
九条「早すぎる」
璃子「公開動画だけではなく、手書きにも来ています」
九条「本文は残っている。名前だけが消えた」
璃子「なら、次は本文かもしれません」
九条「あるいは」
九条は言いかけて、止めた。
璃子が顔を上げる。
璃子「私ですか」
麻里が、布袋を抱く手に力を入れた。
九条「断定しない」
璃子「断定しなくても、候補には入ります」
九条「候補にも入れたくない」
璃子「外すと判断を誤ります」
九条は、短く息を吐いた。
璃子は正しい。
正しいことが、こんなに腹立たしいこともある。
そのとき、璃子のスマートフォンが震えた。
画面には、三枝羊子の名前が表示されている。
璃子は通話に出た。
璃子「天野です」
三枝『夜分に失礼します。こちらでも変化が出ました』
九条は顔を上げた。
璃子「何が消えましたか」
三枝『提出記録です。奈良遠征時の記録提出者欄から、天野さんの氏名が消えています。動画データの提出者は九条さん。外部コピー保持者は朝倉さん。記録担当者は空欄です』
璃子「紙は」
三枝『私の手書きメモには残っています。ただし、システム上は空欄です』
九条「三枝さん、こちらも手順書の作成者欄が消えました」
三枝『やはり来ていますか』
麻里「来なくていいのに」
三枝『同感です』
短い沈黙。
それから三枝が言った。
三枝『明朝では遅いかもしれません。来られますか』
璃子「行きます」
九条「行く」
麻里「行く」
三枝『では、面談室を開けます。入館記録は紙で取ります』
九条「助かります」
三枝『それと、天野さん』
璃子「はい」
三枝『今からこちらへ来るまでの間、ご自分の状態変化を記録しようとしすぎないでください』
璃子は一瞬だけ黙った。
三枝『記録者が、自分を証拠にし始めるのは危険です』
璃子「……分かりました」
九条は、その返事を聞いていた。
分かりました。
璃子はそう言った。
だが、分かった人間ほど、自分を使ってしまうことがある。
*
夜の管理局は、昼間より静かだった。
白い廊下。
低い照明。
閉まった窓口。
自動販売機だけが、妙に明るい。
麻里が前を通り過ぎながら言った。
麻里「現実、まだ廊下にある」
九条「今日は買わないのか」
麻里「今は、甘いのより璃子ちゃん」
璃子「私を飲み物の選択肢に入れないでください」
麻里「一番大事な選択肢」
璃子は少しだけ目を伏せた。
笑わなかった。
面談室には、三枝が待っていた。
黒いスーツ。
まとめた髪。
机の上には、タブレットではなく、紙の台帳が置かれている。
三枝「お疲れさまです」
九条「三枝さんも」
三枝「業務ですので」
九条「業務時間外では」
三枝「業務にしました」
九条「行政は強いな」
三枝「融通を利かせる時は、後で書類が増えます」
短いやり取りで、少しだけ空気が戻った。
だが、机の上の資料が、それをすぐに引き戻した。
三枝は一枚目を示す。
『吉野上市低層公開ダンジョン現地確認報告』
『同行者:九条真、朝倉麻里、同行者一名』
『記録担当:』
空欄。
二枚目。
『海南黒江第二階層検証動画提出記録』
『撮影方法:固定カメラ』
『編集方法:自動処理』
『記録担当:なし』
三枚目。
『床面劣化検証 管理局確認用』
『提出者:九条真』
『補助記録者:なし』
璃子は、その文字列を一つずつ見た。
自分が撮った。
自分が編集した。
自分が残した。
なのに、記録の中では、そこにいない。
璃子「きれいに抜けていますね」
九条「感心するところではない」
璃子「確認です」
麻里「璃子ちゃん、怒っていいよ」
璃子は少しだけ首を振った。
璃子「怒ると、見落とします」
九条「ぼくはもう怒っているが」
璃子「先輩は見てください。怒る係も兼任で」
九条「役職が増えた」
三枝は紙の台帳を開いた。
三枝「こちらは私の手書きです」
そこには、はっきり残っていた。
『記録担当:天野璃子』
『奈良遠征記録提出者:天野璃子』
『床動画字幕原本保全者:天野璃子』
三枝「手書き台帳では残っています。ただし、コピーを取ると空欄になります」
璃子「コピー時に消える?」
三枝「はい。複写機で紙コピーを取っても、スキャンしてPDFにしても、天野さんの名前だけが抜けます」
麻里「名前だけ、逃げちゃうの?」
九条「逃げているんじゃない。追い出されている」
三枝「表現としては近いです」
九条は台帳を見た。
視界に、薄い緑色の文字が浮かぶ。
『天野璃子』
『記録対象外処理:進行中』
『役割再割当:固定カメラ/自動処理/同行者一名』
『記録者表示:非表示化』
『次段階:観測者認識からの除外』
九条は、そこで呼吸を止めた。
璃子がすぐに気づく。
璃子「何が見えました」
九条は答えなかった。
一拍だけ遅れた。
麻里が、九条の袖をつまむ。
麻里「真先生」
九条「……記録から消すだけじゃない」
璃子「続けてください」
九条「次段階が出ている。観測者認識からの除外」
部屋が静かになった。
三枝のペンが止まる。
麻里の顔から血の気が引いた。
璃子だけが、動かなかった。
璃子「つまり、最終的には、私を見ても記録者だと認識できなくなる可能性がある」
九条「可能性だ。まだ条件は満たしていない」
璃子「条件は?」
九条は表示を読む。
九条「主要記録から名前が消えること。代わりの説明が成立すること。こちら側の異議が足りないこと」
そこで声が止まった。
璃子「最後は?」
九条「記録者本人による、自己記録の単独化」
三枝「天野さんが自分だけで自分を証明しようとすると、条件に近づくということですか」
九条「そう読めます」
麻里「じゃあ、璃子ちゃんは自分を記録しちゃだめ?」
九条「一人ではだめだ」
璃子は、静かにノートパソコンを閉じた。
それから、九条を見た。
璃子「先輩」
九条「却下だ」
璃子「まだ何も言ってません」
九条「だいたい分かる」
璃子「私が消えた場合のために、状態変化を細かく――」
九条「却下だ」
璃子は口を閉じた。
九条は立ったまま、璃子を見た。
いつものように軽口で流せなかった。
冗談に変えるには、危険が近すぎた。
璃子「でも、必要です」
九条「必要じゃない」
璃子「私が変化したとき、誰がどこから変わったか分からなければ、次の判断を誤ります」
九条「君を記録媒体として扱うな」
璃子「私は記録担当です」
九条「人間だ」
短い言葉だった。
璃子の目が、わずかに揺れた。
九条「君が残した記録は使う。君の手順も使う。君の字も、君の判断も、全部使う。だが、君自身を『消え方を測るための材料』にはしない」
璃子「……それでは、証明に足りないかもしれません」
九条「足りないなら、別の条件を探す」
璃子「そんな都合よく」
九条「都合が悪い世界の定義に、ぼくは今までずっと文句を言ってきた」
九条「ここでだけ、世界の言い分を素直に聞く理由がない」
三枝が、静かに頷いた。
三枝「管理局としても、天野さん本人を実験対象として扱うことは認めません」
璃子「三枝さんまで」
三枝「行政は、人が消された後に『最初からいなかった』と処理するためにあるわけではありません」
その言葉は、面談室にまっすぐ落ちた。
三枝自身も、自分が言ったことの重さを理解している顔だった。
麻里が、布袋を抱えたまま言った。
麻里「璃子ちゃんは、記録ちゃんじゃない」
璃子は、麻里を見る。
麻里「記録ちゃんは大事。でも、璃子ちゃんの方が大事」
璃子「……はい」
麻里「だから、璃子ちゃんが消えたら記録する、じゃなくて」
麻里は少し考えた。
難しい言葉を探している顔だった。
そして、いつもの麻里らしく、まっすぐ言った。
麻里「消える前に、みんなで璃子ちゃんを持つ」
九条「持つ」
麻里「違う?」
九条「いや」
九条は、ゆっくり頷いた。
九条「雑だが、かなり正しい」
璃子「所有物みたいですが」
麻里「じゃあ、覚えて持つ」
三枝「共同認識、という意味なら使えます」
九条「共同認識」
その言葉で、視界の文字が揺れた。
『条件再構成』
『記録者本人の自己記録を除外』
『複数観測者による記録者同一性の相互確認』
『独立記録:三件以上』
『命題候補:記録者の同一性保持』
九条は、息を吸った。
来た。
世界の側が、しぶしぶ別の道を見せた。
九条「いける」
璃子「証明ですか」
九条「ああ。ただし、条件をこちらで決める」
三枝「必要な記録は」
九条は机の上を見た。
手書き台帳。
空欄になったシステム記録。
璃子の手順書。
麻里の布袋に入った原本コピー。
九条のノート。
三枝の紙台帳。
そして、ここにいる四人。
九条「独立記録は足りる。問題は、璃子本人を照合対象にしないことだ」
璃子「では、私は何をすれば」
九条「何もしない」
璃子「一番難しい指示ですね」
九条「今回は、君の仕事をぼくらがする」
璃子は少しだけ黙った。
それから、椅子に座った。
両手を膝の上に置く。
何もしない姿勢だった。
ただし、目だけはすべてを見ていた。
九条はノートを開いた。
万年筆を持つ。
麻里が布袋を机の中央に置く。
三枝が録音機のスイッチを入れる。
九条「始める」
その瞬間、九条の身体が固まった。
視線は、机の上の複数の記録から外せない。
手元の紙は見える。
指先は動く。
だが、立ち上がることはできない。
証明中の無防備状態。
麻里は九条の横に立った。
三枝は入り口側へ移動する。
璃子は、何もしない。
それでも、そこにいる。
九条「命題第六項。記録者の同一性保持について」
面談室の照明が、わずかに揺れた。
ノートの上に、薄い緑色の線が走る。
一本は、璃子の手順書へ。
一本は、三枝の紙台帳へ。
一本は、麻里の布袋へ。
一本は、公開動画の空欄記録へ。
一本は、九条のノートへ。
九条「同一の記録群において、撮影、編集、転記、保全、提出という一連の行為が存在する」
緑色の線が、机の上で絡み合う。
九条「これらの行為は、記録媒体のみでは成立しない」
『固定カメラ』
その文字が浮かぶ。
九条「固定カメラは撮影位置を保持する。だが、撮影対象の選択も、危険箇所の非公開判断も行わない」
『自動処理』
九条「自動処理は変換を行う。だが、撤退を休憩に変える危険性を判断し、動画を非公開にする責任を負わない」
『記録:なし』
九条の声が低くなる。
九条「記録なし、という記録は自己矛盾である」
麻里が、息を止めた。
三枝のペンが走る音だけが聞こえる。
九条「記録行為の痕跡が複数の独立記録に残り、それらが同一人物の判断、筆跡、時刻、提出経路により結ばれる場合、その記録者を『なし』として処理することはできない」
ノートの上で、緑色の文字が強くなる。
『天野璃子』
その名前が、一瞬だけ浮かんだ。
だが、すぐに薄れようとする。
九条は万年筆を握る手に力を入れた。
九条「ただし、本命題は記録者本人を記録媒体として扱わない」
文字の揺れが止まった。
璃子が、ほんの少しだけ目を見開く。
九条「記録者の身体、記憶、恐怖、疲労、沈黙を、照合対象に含めない」
麻里が小さく頷いた。
九条「証明に必要なのは、記録者が消えかけることではない。記録者が残した行為の関係性である」
三枝が、静かに息を吐いた。
九条「よって、同一人物による記録行為が複数の独立記録によって確認される場合、その人物の氏名または識別子を、現行記録に合わせて『なし』へ正規化してはならない」
机の上で、空欄になった紙が震えた。
九条「匿名化は許す」
璃子が反応した。
九条は続ける。
九条「公開上の安全のため、実名を伏せることは許す。だが、存在そのものの抹消は許さない」
『撮影:固定カメラ』
『編集:自動処理』
『記録:なし』
その文字列の上に、薄い緑色の線が重なる。
九条「記録者を隠すことと、記録者がいなかったことにすることは、同じではない」
一秒。
二秒。
三秒。
九条の視界に、強い文字が浮かんだ。
『命題証明を承認』
【定理 第006項】
記録者の同一性保持
【効果】
複数の独立記録によって確認された記録者を、「なし」「自動処理」「固定機材のみ」として処理できない。
【制限】
公開名の復元は強制しない。
失われた記録は戻さない。
記録者本人を証拠物として扱わない。
【備考】
記録者の安全は、記録より優先される。
九条「承認された」
その瞬間、空欄になっていた手順書の表紙に、文字が戻った。
インクが増えたわけではない。
書き換えられたわけでもない。
ただ、そこにあったはずのものが、読み取れる状態に戻った。
『作成者:天野璃子』
麻里「戻った!」
璃子は、表紙を見た。
手を伸ばしかけて、止める。
たぶん、触るのが怖かったのだ。
三枝が紙台帳を確認する。
三枝「こちらもです」
『記録担当:天野璃子』
手書き台帳の文字は、そのまま残っている。
システム記録の画面には、小さな標識が付いていた。
『記録担当:空欄』
『同一記録者存在:保全済』
『内部識別:天野璃子』
三枝「完全復元ではありません。ですが、空欄ではなくなりました」
九条「それで十分だ。今は」
璃子「公開動画は」
麻里がノートパソコンを開く。
一本目。
壁が消えた動画。
エンディング部分。
そこには、まだこう表示されていた。
『撮影:固定カメラ』
『編集:自動処理』
『記録:なし』
麻里「戻ってない」
璃子は、画面を見た。
それから、静かに言った。
璃子「公開版は、あとで直します」
九条「今度は消えるかもしれない」
璃子「消えたら、差異表に残します」
九条「それでいい」
璃子は、そこで初めて少し笑った。
疲れた笑いだった。
でも、ちゃんと璃子の笑いだった。
麻里が布袋を抱えて、胸を張った。
麻里「璃子ちゃん、なしじゃない」
璃子「はい」
麻里「ちゃんと、いる」
璃子「はい」
麻里「よかった」
その声が、少しだけ震えていた。
璃子は椅子から立ち上がり、麻里の頭に軽く手を置いた。
麻里は驚いた顔をした。
璃子「ありがとうございます」
麻里「今、私、褒められた?」
九条「かなり」
麻里「即時支払い?」
九条「今回は特別報酬だ」
三枝「報酬制度については、管理局は関与しません」
麻里「行政、冷静」
三枝「仕事ですので」
空気が、少しだけ戻った。
九条の身体も、ようやく動くようになった。
証明が終わったのだ。
九条は椅子に座り、手を開いた。
万年筆の跡が、指に少し残っている。
璃子が言った。
璃子「先輩」
九条「何だ」
璃子「ありがとうございました」
九条「礼を言われる筋合いはない」
璃子「あります」
九条は言葉に詰まった。
璃子は続けた。
璃子「私が、自分を記録に使いそうになったのを止めてもらいました」
九条「止めるべきだったから止めた」
璃子「それでもです」
九条は視線をそらした。
面談室の壁に、薄い緑色の文字が漂っている。
空調。
照明。
記録装置。
壁材。
人間の心拍。
相変わらず、世界は何でも数字にしたがる。
だが今、この部屋にいる一人ひとりは、数字だけでは足りない。
璃子は記録担当。
だが、記録媒体ではない。
麻里は未定義変数。
だが、危険物ではない。
三枝は行政官。
だが、書類だけではない。
そして九条は観測者。
だが、見ているだけで済ませていい人間ではない。
九条「次から、手順書を改訂する」
璃子「どこをですか」
九条「冒頭だ」
九条は、璃子の手順書をめくった。
最初の空白に、万年筆で一行書く。
『記録者の安全を、記録より優先する。』
麻里が覗き込む。
麻里「大事」
三枝「管理局の手順にも入れたい文言です」
璃子は、その一文を見つめた。
しばらくして、静かに頷いた。
璃子「第零版ではなくなりましたね」
九条「では、第零・一版だな」
璃子「細かいです」
九条「数学なので」
麻里「第いちご版は?」
九条「急に甘くするな」
璃子「でも、少しだけいいかもしれません」
九条「いいのか」
璃子「疲れているので、判断が甘くなっています」
三枝「休憩を取ってください」
璃子「はい。取ります」
九条「戻る判断か」
璃子「今日は、進まない判断です」
九条は頷いた。
今度は、記録した。
*
それから三十分後。
保全報告書の控えが、三枝のプリンターから出てきた。
一枚目。
『記録者同一性保全に関する暫定報告』
二枚目。
『対象記録者:天野璃子』
三枚目。
『保全方法:独立記録、手書き台帳、観測者証言による照合』
三枝はそれを確認し、封筒に入れた。
三枝「こちらは、管理局側で保全します」
璃子「ありがとうございます」
三枝「ただし、安心はしないでください。今回の定理は、天野さんを完全に守ったわけではありません」
九条「分かっています」
三枝「公開記録は戻っていません。システム上の記録も、標識が付いただけです」
麻里「でも、なしじゃない」
三枝「はい。そこが重要です」
九条は頷いた。
世界が「記録なし」と処理しようとした場所に、今は標識がある。
それだけでも、昨日とは違う。
麻里は布袋を抱え直した。
麻里「記録ちゃんにも入れる」
璃子「はい。コピーを作りましょう」
三枝「こちらの保全コピーも渡します。ただし、天野さん一人で管理しないでください」
璃子「分かっています」
九条「分かっています、が少し信用できなくなってきたな」
璃子「では、手順化します」
九条「そう来ると思った」
璃子はノートパソコンを開きかけて、手を止めた。
そして、自分で小さく息を吐いた。
璃子「今は、休みます」
麻里「えらい!」
九条「かなり偉い」
三枝「適切です」
璃子「三方向から褒められると、不安になります」
九条「不安になるな。今日は素直に受け取れ」
璃子「努力します」
麻里「努力じゃなくて手順?」
璃子は、少しだけ笑った。
璃子「今日は、手順より休憩です」
そのときだった。
璃子のノートパソコンが、短く鳴った。
通知音。
Q.E.D.チャンネルの管理者用通知欄。
投稿者名はない。
アイコンもない。
麻里の背筋が伸びる。
三枝が録音機のスイッチを入れ直す。
璃子は画面を開いた。
そこには、一文だけ表示されていた。
『記録者を守る命題は、悪くない。』
九条の眉が動いた。
言い方。
句読点。
余計に偉そうな評価。
どこかで見たことがある。
いや。
知っている。
九条は、自分のノートの余白を見た。
半年前から何度も書いてきた、証明メモ。
その文体に、少し似ていた。
通知欄に、もう一文が増える。
『だが、認識は紙より早く消える。』
璃子の指が止まった。
麻里「どういう意味?」
誰も答えなかった。
通知は、数秒で消えた。
だが今回は、璃子の画面録画にも、三枝の録音にも、麻里の布袋の中の記録ちゃんにも残った。
璃子「残しました」
麻里「記録ちゃんにも入ってる」
三枝「紙にも書きます」
九条は画面の消えた通知欄を見つめていた。
認識は紙より早く消える。
記録を守った。
名前も、完全ではないが、なしではなくなった。
それでも足りない。
九条は、顔を上げた。
礼を言おうとした。
何か言わなければいけないと思った。
この場で一番無理をして、それでも休むと言った後輩に。
記録を残し続け、自分を証拠にしようとして、それを止められた人間に。
九条は、椅子の横に立つ人物を見た。
眼鏡。
短い黒髪。
ノートパソコン。
手順書。
紙の端を揃える癖。
それが誰なのか、状況としては分かる。
分かるはずだった。
九条「……」
名前を呼ぼうとした。
喉元まで出かけた。
だが、出てこなかった。
何かが抜け落ちた。
顔ではない。
声でもない。
存在でもない。
その人物と名前を結ぶ、細い糸だけが、急に切れた。
九条は、自分の手元を見た。
さっきまで書いていた紙がある。
『記録者の安全を、記録より優先する。』
その横に、手順書。
表紙には、はっきりと名前がある。
『作成者:天野璃子』
読める。
読めるのに。
目の前の人物に、結びつかない。
三枝「九条さん?」
九条は、返事ができなかった。
麻里が、ゆっくり九条を見た。
麻里「真先生?」
九条は、椅子の横に立つ人物をもう一度見た。
その人は、静かにこちらを見返している。
不安そうではない。
怒ってもいない。
ただ、何かを確認している目だった。
九条は、ようやく声を出した。
九条「……この人は」
麻里の顔が、凍った。
麻里「真先生」
九条「記録担当者だ。手順書を書いた人間だ。ここまで一緒にいた。それは分かる」
三枝のペンが止まる。
九条は続けた。
声が、自分のものではないようだった。
九条「だが、名前がつながらない」
麻里「違うよ」
九条「何が」
麻里の声が震えた。
麻里「その人、いるよ」
九条「いる。それは分かる」
麻里「違う。そうじゃない」
麻里は、椅子の横に立つ人物を見た。
一瞬だけ、麻里の顔にも迷いが浮かんだ。
名前を言おうとして、苦しそうに口を閉じる。
それでも、麻里は逃げなかった。
麻里「真先生の横に、怒る人がいる」
九条「怒る人?」
麻里「違う。いるのに、いないことになってる」
椅子の横の人物が、静かに息を吸った。
璃子「天野璃子です」
その声を聞いた瞬間、九条の胸の奥で、何かが痛んだ。
聞き覚えがある。
何度も聞いた声だ。
危険だと止めた声。
説明が長いと切った声。
現実担当なので、と言った声。
だが、それでも名前が定着しない。
紙の上の文字と、目の前の人間が、別々のものとして処理されている。
三枝が低く言った。
三枝「認識からの除外が、始まっています」
麻里「だめ」
短い声だった。
麻里は泣いていなかった。
泣くより前に、怒っていた。
麻里「それはだめ」
九条は万年筆を握ろうとした。
だが、指が震えた。
さっき証明したばかりだ。
記録者の同一性保持。
それでも足りない。
記録は、名前を保持した。
だが、人は、まだ結びつかない。
ノートパソコンの画面が、一瞬だけ白く揺れた。
管理者用通知欄に、最後の一文が出た。
『記録者を守っただけでは、人は戻らない。』
九条は、それを読んだ。
そして、目の前の人物を見た。
記録担当者。
手順書の作成者。
自分を止めた人。
麻里が大事だと言った人。
三枝が実験対象にしないと宣言した人。
それらの情報は、全部ある。
なのに、名前だけがつながらない。
九条は唇を噛んだ。
世界の定義は、また雑だった。
雑なくせに、今度は残酷だった。
麻里が、九条の袖を握った。
麻里「真先生」
九条「……ああ」
麻里「次、証明して」
九条は、紙の上の名前を見た。
天野璃子。
読める。
だが、まだ届かない。
九条は、ゆっくり頷いた。
九条「する」
面談室の空気が、凍ったまま動かなかった。
璃子は、そこにいた。
声もある。
身体もある。
記録もある。
名前も、紙の上には戻っている。
それでも、九条の中で、その名前だけが宙に浮いていた。
九条は、万年筆を握り直した。
まだ証明は始まっていない。
だが、問題は見えた。
記録を守るだけでは足りない。
名前を戻すだけでも足りない。
人を、人として結び直さなければならない。
九条は紙の端に、震える字で一行を書いた。
『命題候補:観測者間同一性の再接続について』
その瞬間、薄い緑色の文字が、視界の右下に浮かんだ。
『条件不足』
『対象者本人を証拠物として扱うな』
『観測者を増やせ』
九条は、息を吐いた。
次の問題は、もう始まっていた。
――第十三話 了。




