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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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12/14

第十二話 璃子の記録は、世界よりしつこい

 翌朝。


 九条真の部屋には、紙の山ができていた。


 散らかっているのではない。


 珍しく、分類されている。


 机の左には、奈良での手書き記録。


 中央には、璃子のノートパソコン。


 右には、USBメモリが三本。


 さらに、麻里が持ち込んだ猫柄の布袋が、やけに丁寧に置かれている。


 九条「ぼくの部屋に秩序がある」


 璃子「昨日の記録を失う方が嫌なので、片づけました」


 九条「動機が重い」


 麻里「でも床が見えるよ。すごい」


 九条「床が見えるだけで褒められる部屋だったか」


 璃子「はい」


 九条は反論しなかった。


 机の上に置かれた紙束を見た。


 表紙には、璃子の字でこう書かれている。


『記録保全手順書』

『第零版』

『作成者:天野璃子』


 九条「第零版?」


 璃子「まだ試作です。昨日みたいに記録が弱められるなら、先に残し方を決めておく必要があります」


 麻里「弱められるって、やめたいが、少し休みたいになるやつ?」


 璃子「そうです」


 九条は紙束をめくった。


 項目は少ない。


『原本』

『手書き』

『音声』

『字幕』

『外部コピー』

『差異表』


 それだけだった。


 九条「思ったより短いな」


 璃子「長い手順は守れません。私たちも、あとから読む人も」


 九条「正しい」


 璃子「先輩が素直だと不安になります」


 九条「成長を不審物扱いするな」


 麻里「真先生、部分的に成長」


 九条「部分的なのか」


 麻里「全部だと怖い」


 璃子「それは分かります」


 九条「分からないでほしかった」


 短い笑いが起きた。


 けれど、それ以上は続かなかった。


 昨日、定理第005項が承認された。


 観測記録の整合条件。


 同じ出来事について、複数の独立記録があり、一部だけが正規化された場合、差異発生点を標識化する。


 ただし、真実そのものは確定しない。


 失われた記録を復元しない。


 記録者本人を、記録媒体として扱わない。


 最後の制限が、今も胸に引っかかっている。


 璃子は記録を残す。


 だが、璃子自身を証拠にしてはいけない。


 九条は万年筆に手を伸ばしかけて、止めた。


 璃子が、その動きを見ていた。


 九条「今は、見るだけだ」


 璃子「はい」


 麻里「じゃあ、記録ちゃん二号の出番?」


 璃子「そうです。今日は、先輩の証明より先に記録を残します」


 九条「順番としては正しい」


 麻里は布袋を抱え直した。


 麻里「じゃあ、残す係する」


 九条「頼む」


 短いやり取りだった。


 けれど、それで十分だった。


 璃子はすぐに画面へ向き直った。


 *


 璃子が最初に確認したのは、公開済み動画の字幕だった。


 一本目。


 壁が消えた動画。


 二本目。


 浮遊の動画。


 三本目。


 床の動画。


 視聴者に見せるためではない。


 自分たちが出した言葉が、今も同じ形で残っているかを確かめるためだった。


 璃子「三本目を見ます」


 九条「床か」


 麻里「床、また出番」


 璃子は動画編集データを開いた。


『ダンジョンの床が崩れない条件を数学で証明してみた』


 画面の中で、九条が床の前に立っている。


『この床は、今すぐ崩れるわけではない。ただし、走る、跳ぶ、一点に重さがかかる。そういう条件が重なると危ない』


 その下に、本来なら字幕が出るはずだった。


『危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です』


 だが、表示された字幕は違っていた。


『危険を感じたら、一時休憩してください』


 璃子の指が止まった。


 麻里「短くなってる」


 九条「いや、短いだけじゃない」


 璃子「意味が変わっています」


 戻る判断。


 一時休憩。


 似ているようで、まるで違う。


 進まない、は消えている。


 探索技術、も消えている。


 残ったのは、少し休めばまた進めるという言葉だけだった。


 璃子はすぐに公開ページを確認した。


 そこでも同じ字幕になっている。


 概要欄の注意文も変わっていた。


 本来の文。


『危険を感じたら撤退してください。戻る判断も探索技術です。動画の再現を目的に現地へ行かないでください』


 現在の文。


『危険を感じたら休憩してください。無理のない探索を心がけましょう』


 九条「優しくなっているな」


 麻里「優しいのに、嫌」


 九条「ああ。優しい言葉で、逃げ道を塞いでいる」


 璃子は何も言わなかった。


 ただ、動画を非公開にした。


 確認画面が出る。


『この動画を非公開にしますか?』


 璃子は迷わずクリックした。


『非公開にしました』


 九条「早いな」


 璃子「この状態で見せ続ける方が危険です」


 その声は落ち着いていた。


 落ち着こうとしている声だった。


 璃子はバックアップを開いた。


 ローカル。


 外付けSSD。


 クラウド。


 スマートフォン。


 管理局提出用。


 どれも、同じ文に変わっていた。


『危険を感じたら、一時休憩してください』


 麻里が布袋を開けた。


 麻里「記録ちゃん二号は?」


 璃子「確認します」


 USBメモリを挿す。


 フォルダを開く。


 字幕ファイル。


 そこには、元の文章が残っていた。


『危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です』


 麻里「残ってる!」


 璃子はすぐに紙へ書き写した。


 一文字ずつ。


『危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です』


 下に時刻を書く。


 さらに、九条と麻里にも読ませた。


 九条「危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です」


 麻里「危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です」


 最後に、璃子が読んだ。


 璃子「危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です」


 その音声を保存する。


 紙に署名する。


 USBへコピーする。


 九条は第005定理を使い、差異発生点を確認した。


 視界に薄い緑色の表示が浮かぶ。


『対象:床動画字幕』


『原記録:戻る判断も探索技術です』


『正規化記録:一時休憩してください』


『処理種別:語句弱化』


 九条「語句弱化」


 璃子「やっぱり」


 九条「戻る判断、が、一時休憩に弱められている」


 麻里「また、やめるのを休むに変えてる」


 九条「ああ」


 九条は画面を見つめた。


 赤いベンチ。


 探索をやめたい。


 少し休みたい。


 そして今度は、戻る判断。


 一時休憩。


 同じ方向を向いている。


 人を、進ませる方向へ。


 *


 午後。


 三人は、和歌山県ダンジョン安全管理局へ向かった。


 三枝羊子は、面談室で璃子の報告を最後まで聞いた。


 余計な口を挟まない。


 驚きもしない。


 ただ、必要なところだけを確認する。


 三枝「公開版は非公開にしたんですね」


 璃子「はい」


 三枝「正しい判断です」


 璃子「修正版を出すなら、危険箇所はぼかします。字幕の変化についても最低限は書きます」


 三枝「管理局として確認します。ただ、現象そのものを隠すことは勧めません」


 九条「意外ですね」


 三枝「隠すと、似た事例が出たときに誰も気づけません」


 璃子「同じ考えです」


 三枝はわずかに頷いた。


 璃子は、手書き記録とUSBデータを提出した。


 三枝は内容を確認し、管理局側でも複製を作る。


 その間、麻里は布袋を両手で持ったまま、じっと机を見ていた。


 いつものように茶化さない。


 九条「麻里、静かだな」


 麻里「記録ちゃん二号、ちゃんと残したから」


 九条「ああ」


 麻里「消えたら嫌だから」


 九条「そうだな」


 麻里は、それ以上言わなかった。


 三枝が画面を九条へ向けた。


 璃子の提出した字幕ファイル。


 管理局側が保存した字幕ファイル。


 動画サイト上に残っていた字幕。


 三種類が並ぶ。


 九条の視界に、緑色の標識が重なった。


『差異発生点:字幕生成後』


『差異発生点:概要欄更新前』


『原記録保持媒体:外部USB』


『処理影響範囲:通常保存領域』


 九条「普通の保存先はほぼ変えられている。残ったのは、麻里が持っていたUSBだけだ」


 三枝「理由は分かりますか」


 九条「分かりません。管理対象から外れていたのか、麻里が持っていたからなのか、別の条件なのか」


 璃子「麻里が持っていたから、という可能性はありますか」


 九条「ある。ただ、断定するには早い」


 三枝「その整理でいいと思います」


 九条は紙に書いた。


『通常保存領域は処理対象』

『外部USBのみ原文保持』

『理由不明』

『麻里保持との関連は未確認』


 璃子がそれを見て、短く言った。


 璃子「未確認、と書くのは大事ですね」


 九条「君から学んだ」


 璃子は少しだけ目を伏せた。


 それは照れではなく、たぶん疲労だった。


 九条は気づいたが、言わなかった。


 今ここで休めと言えば、璃子はきっと確認が終わってからと返す。


 だから、別の言い方にした。


 九条「このあとは、作業を分けよう」


 璃子「分ける?」


 九条「ああ。ぼくが差異標識を見る。三枝さんが管理局側で保全する。麻里が外部コピーを持つ。君は編集判断だけに絞る」


 璃子「編集判断だけでも多いです」


 九条「では、今日はそこまでだ」


 璃子は言い返そうとして、やめた。


 麻里が小さく言った。


 麻里「璃子ちゃん、今日は戻る判断していいよ」


 璃子は、麻里を見た。


 それから、ゆっくり頷いた。


 璃子「……はい。今日は戻ります」


 九条「採用されたな」


 麻里「今の、私が言った?」


 九条「ああ」


 麻里「ちょっと賢かった?」


 璃子「かなり」


 麻里は少しだけ笑った。


 その笑顔で、部屋の空気が少し戻った。


 *


 夕方。


 管理局での確認を終え、三人は九条の部屋へ戻った。


 床動画は、まだ非公開のまま。


 修正版は作る。


 ただし、今日ではない。


 璃子はノートパソコンを閉じた。


 麻里は布袋を抱えたまま、クッションに座っている。


 九条は、手書きの差異表を机に置いた。


『戻る判断』

『一時休憩』

『進まない』

『無理のない探索』

『撤退』

『休憩』


 言葉が並ぶ。


 似ている。


 けれど、似ているだけで、中身は違う。


 九条「言葉を少し変えるだけで、人の行動は変わる」


 璃子「はい」


 九条「探索をやめたい、が、少し休みたいになる。戻る判断が、一時休憩になる。撤退が、無理のない探索になる」


 麻里「全部、また行く言葉になってる」


 九条「そうだ」


 璃子は机の端を見つめていた。


 璃子「大丈夫です、とは言いません」


 九条は口を閉じた。


 璃子「分からないので。何がどこまで来ているのかも、自分がどれくらい怖がっているのかも、まだ分かりません」


 九条「その答えでいい」


 璃子「でも、記録は残します」


 九条「そこは変わらないんだな」


 璃子「変える理由がありません」


 麻里「じゃあ、残すけど休む?」


 璃子は少しだけ笑った。


 璃子「はい。今日は休みます」


 九条「今のは記録しておくべきだな」


 璃子「しなくていいです」


 麻里「したい」


 璃子「しなくていいです」


 九条は万年筆を閉じた。


 今日は、証明ではなく確認の日だ。


 そう決めた途端、視界の端が揺れた。


 九条は顔を上げる。


 璃子のノートパソコン。


 閉じた画面の黒い反射。


 そこに、薄い緑色の文字が浮かんでいた。


『記録者表示:一部処理済』


 九条「……」


 璃子「先輩?」


 九条はすぐには答えなかった。


 表示は消えない。


 むしろ、少しずつ文字が増えていく。


『対象:匿名記録者』


『公開字幕内表示』


『処理結果:非表示化』


『次段階条件:未達』


 九条「一本目の動画を確認してくれ」


 璃子は無言でノートパソコンを開いた。


 一本目。


 壁が消えた動画。


 エンディング部分を開く。


 黒い画面。


 白い文字。


 本来、そこにはこう入っていた。


『撮影・編集・記録:R』


 璃子が、自分の名前を出さないために入れた、小さな署名だった。


 だが、画面に出ていたのは違った。


『撮影:固定カメラ』

『編集:自動処理』

『記録:なし』


 麻里「なし?」


 璃子は何も言わなかった。


 九条は、ゆっくり息を吐いた。


 記録が消されたのではない。


 記録した人間の跡が消されている。


 固定カメラ。


 自動処理。


 記録なし。


 まるで、そこに璃子はいなかったと言うように。


 璃子はキーボードに手を置いた。


 けれど、すぐには打たなかった。


 九条はノートを開いた。


 証明ではない。


 ただ、残すために書く。


『本来表示:撮影・編集・記録:R』

『現在表示:撮影:固定カメラ/編集:自動処理/記録:なし』

『対象:匿名記録者』

『処理結果:非表示化』

『次段階条件:未達』


 そこまで書いて、九条は最後に一行足した。


『璃子は、記録なしではない。』


 璃子は、その文字をしばらく見ていた。


 それから、スマートフォンを構える。


 録画ボタンを押す。


 麻里も、布袋から記録ちゃん二号を取り出した。


 麻里「私も残す」


 璃子「お願いします」


 麻里「うん」


 九条はノートを画面に向けた。


 薄い緑色の文字は、まだ見えている。


『記録:なし』


 その表示が、ひどく腹立たしかった。


 世界は、言葉を小さくする。


 戻る判断を休憩に変える。


 やめたいを疲れに変える。


 そして今度は、記録した人間の跡を消す。


 ならば、こちらは逆をする。


 小さくされた言葉を拾う。


 消された跡に印をつける。


 いなかったことにされた人間の名前を、もう一度書く。


 九条は万年筆を握った。


 次に見るべき矛盾は、もう決まっている。


 九条「次は、記録者を守る」


 璃子は録画を止めなかった。


 麻里は小さく頷いた。


 画面の中で、『記録:なし』の文字だけが、いつまでも白く残っていた。


 ――第十二話 了。

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