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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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17/22

第十七話 Mを混ぜるな、の本当の意味

『救助完了という言葉を、信じすぎない』


九条真が書いたその一行を、麻里はじっと見ていた。


管理局の面談室。


机の上には、紀三井寺南事故の公開版、内部概要、保存版の写しが並んでいる。


公開版には、救助完了。


保存版には、救助継続中。


同じ時刻に、正反対の言葉が残っていた。


璃子は差異表を保存し、外付けSSDと記録ちゃん三号へコピーしている。


三枝は紙台帳へ、九条が命題提示をしなかった理由を書いている。


七瀬朱は壁際に立ち、事故報告書の一行から目を離さなかった。


麻里「私も、信じすぎない方がいい?」


九条「何を」


麻里は布袋を抱えた。


麻里「私のこと」


璃子の指が止まった。


麻里「Mって、私なんでしょ」


誰もすぐには答えなかった。


麻里「みんな、やさしい顔で黙るの、やだ」


九条は万年筆を机に置いた。


九条「断定はしない」


麻里「でも、たぶんそう」


九条「たぶん、だ」


麻里「それ、怖い時のたぶん」


九条「数学では、たぶんで人を決めない」


璃子「麻里を危険物扱いする話なら、ここで終わりです」


三枝「管理局としても、朝倉さん本人を分類不能物体として扱うことはありません」


麻里「物体じゃない?」


三枝「はい。人です」


麻里は少し驚いた顔をした。


七瀬「危険条件に含まれることと、危険物であることは違います」


九条「その通りです」


璃子「採用します」


麻里「みんな、かたい」


九条「今日は固いくらいでちょうどいい」


麻里は布袋を胸に当てた。


麻里「じゃあ、Mを混ぜるな、は?」


九条は、これまで届いた通知を思い出した。


『Mを混ぜるな。式が壊れる。』


『Mを深く連れていくな。』


警告にも、排除にも聞こえる言葉だった。


だが、そこで止めると、麻里を式の外へ追い出すだけになる。


九条「三枝さん、ホワイトボードを使っても?」


三枝「どうぞ」


九条は大きく書いた。


『閉じた式』


その横に、少し離して書く。


『M』


麻里「私、アルファベットになった」


璃子「一時的な記号です」


九条「君そのものじゃない。条件を表す仮の記号だ」


麻里「仮名?」


九条「仮名だ」


九条は『閉じた式』の中に、無理やり『M』を書き込んだ。


そして、その下に斜線を引く。


九条「たぶん、警告の意味はこれだ」


璃子「閉じた処理に、Mを無理やり代入するな」


九条「そう。麻里を排除しろ、ではない。閉じた式に、確認もせず押し込むな、だと思う」


麻里「押し込まれるの、やだ」


九条「だから押し込まない」


七瀬「閉じた式とは?」


九条は事故報告書を見た。


九条「救助完了。帰宅確認済み。一時休憩。少し休みたい。全部、終わった形に整えられた言葉です」


璃子「世界側の正規化処理ですね」


九条「はい。その閉じた結論に麻里を入れると、式が壊れるのかもしれない」


麻里「私が壊すの?」


九条「違う」


九条は、はっきり言った。


九条「壊れるのは、君じゃない。閉じ方が雑な式だ」


麻里は顔を上げた。


九条「間違って閉じた式なら、壊れていい」


璃子「ただし、壊し方を間違えると危険です」


九条「だから、混ぜない条件を決める」


三枝「先ほど整理した方針に続きますね」


九条「はい。麻里を単独条件にしない。黒石を開けない。証明はしない。見るだけです」


麻里「私、見るだけでいい?」


璃子「いいです。今日は麻里が何かを起こす日ではありません」


麻里「でも、起きちゃったら?」


七瀬「その時は下がります」


麻里「世界三位、分かりやすい」


九条「ぼくより信用があるな」


璃子「あります」


九条「即答か」


麻里が少し笑った。


それだけで、部屋の空気が少し戻った。


     *


検証は、管理局の地下三階にある小型観測室で行うことになった。


白い壁。


灰色の床。


中央の固定机。


天井のカメラ。


部屋の隅には、高そうな計測器が並んでいる。


九条「管理局にも理科室があるんですね」


三枝「理科室ではありません。観測室です」


麻里「実験される部屋?」


璃子「されません」


璃子の返事は早かった。


麻里は少し肩の力を抜いた。


七瀬が黒石の遮蔽ケースを持って入る。


ケースは二重。


外側は管理局の保護ケース。


内側は璃子が用意した専用ケース。


蓋には、以前の注意書きがそのまま残っていた。


『分類不能。開封禁止』


『くろまるは悪い子じゃないよ』


『善悪不明の物体ほど扱いに困る』


『感情で分類しない』


三枝「注意書きが多いですね」


九条「共同制作です」


璃子「最後の一文だけで十分でした」


麻里「全部いるよ」


七瀬「開封はしません」


麻里「うん」


九条はホワイトボードに今日の範囲を書いた。


『目的:M因子と黒石の関係を断定しないまま、反応条件を分ける』


『禁止:麻里を単独条件にしない』


『禁止:黒石を開封しない』


『禁止:復元・命題提示』


『確認:言葉、記録媒体、戻る判断への反応』


璃子「最後は踏み込んでいますね」


九条「今までの反応は、全部そこへ寄っています」


麻里「戻る判断?」


九条「赤いベンチ。探索をやめたい。戻る判断も探索技術。救助継続中。どれも、進むか戻るかに関わっている」


三枝「そして、弱められた言葉でもあります」


七瀬「黒石との関係は?」


九条「不明です。だから、分けます」


璃子「紙だけ。記録媒体あり。黒石あり。麻里が文を読む場合。条件は一つずつ変えます」


麻里「私だけは?」


九条「やらない」


璃子「やりません」


三枝「記録にも残します」


七瀬「やりません」


麻里は四人を見て、少しだけ笑った。


麻里「四重確認」


九条「今日は、それでいい」


     *


最初に、机の上へ二枚の紙を置いた。


『救助完了』


『救助継続中』


黒石は観測室の外。


麻里は璃子の隣。


記録ちゃん三号は机の端。


九条の視界に、緑色の文字が浮かぶ。


『語句対立:検出』


『事故記録群との関連:弱』


『M因子反応:なし』


『黒石反応:なし』


九条「紙だけでは反応なし」


璃子「記録します」


次に、二枚の紙の間へ記録ちゃん三号を置いた。


麻里「記録ちゃん、がんばって」


璃子「USBメモリに応援は不要です」


麻里「でも、言いたい」


九条「今日は言っていい」


璃子「いいんですか」


九条「感情を抜きすぎると、今回の本質から外れる気がする」


三枝「朝倉さんが記録媒体に声をかけた、と記録します」


麻里「ちょっと恥ずかしい」


九条「記録とはそういうものだ」


璃子「違います」


表示が変わる。


『記録媒体:接続』


『語句対立:検出』


『差異標識:未発動』


『M因子反応:微弱未満』


『黒石反応:なし』


九条「ほぼ反応なし」


麻里「記録ちゃん、普通」


三枝「普通は良いことです」


三回目。


七瀬が遮蔽ケース入りの黒石を持って入った。


机から三メートル。


麻里から五メートル。


記録ちゃんから二メートル。


璃子が距離を読み上げ、三枝が紙に書く。


九条「七瀬さん、机まで一メートルで止めてください」


七瀬「了解」


黒石のケースが机から一メートルの位置で止まる。


九条の視界に文字が浮かんだ。


『分類不能残滓』


『遮蔽ケース:有効』


『語句対立への反応:なし』


『M因子反応:なし』


『周辺公理選択確率:変化なし』


九条「黒石単体でも変化なし」


麻里「くろまる、寝てる?」


璃子「寝ているかはともかく、反応はありません」


七瀬「近づけますか」


九条「今日はここまでです」


七瀬はすぐに下がった。


その迷わなさが、今はありがたかった。


四回目。


机の上の紙を変えた。


璃子が一枚目を読み上げる。


璃子「危険を感じたら、一時休憩してください」


九条「正規化後の文だ」


次に、麻里が二枚目を持った。


麻里「危険を感じたら、進まないでください。戻る判断も探索技術です」


九条の視界に、細いノイズが走った。


璃子「反応ありですか」


九条「ああ。弱い」


九条は表示を読む。


九条「語句対立。原記録候補、戻る判断。正規化記録、一時休憩。M因子反応、微弱。黒石反応、なし」


三枝「黒石なしで反応した?」


九条「はい。麻里が原記録側の紙を持った時だけです」


麻里「私、持っただけ」


九条「そうだ。持っただけだ」


璃子「そこをはっきり記録します」


九条「麻里が何かを起こした、とは言わない。条件が重なった時に、世界側の表示が反応した」


麻里「私、悪くない?」


九条「悪くない」


璃子「悪くありません」


七瀬「悪いかどうかの話ではありません」


三枝「記録上も、危険行為なしです」


麻里は紙を持ったまま、少し息を吐いた。


麻里「よかった」


九条は、その言葉をノートに書いた。


『麻里:悪くないか確認』


書いてから、胸が痛んだ。


麻里が平気なはずはなかった。


M。


混ぜるな。


深く連れていくな。


その言葉を一番怖がっていたのは、たぶん麻里だった。


     *


休憩を挟んだ。


管理局の廊下には、自動販売機がある。


麻里は甘いカフェオレを買った。


九条は無糖コーヒーを買い、ひと口飲んで顔をしかめた。


麻里「甘いのにすればいいのに」


九条「自分に厳しい飲み物を選んでしまった」


璃子「判断ミスです」


七瀬は水。


三枝は紙コップの茶。


麻里は缶を両手で持ったまま、ぽつりと言った。


麻里「私、戻った方がいいのかな」


九条「どこから」


麻里「ここから。紀三井寺南の準備から」


璃子が麻里を見る。


麻里「私がいると式が壊れるなら、いない方がいいのかなって」


九条はすぐに否定しかけて、止めた。


軽い否定では届かない。


璃子「麻里を外せば安全、という証拠はありません」


麻里「でも、入れたら危ないかも」


璃子「それも証拠はありません」


九条「分かっているのは、君がいると閉じた処理に揺れが出る可能性があることだけだ」


麻里「揺れるの、危ない?」


九条「橋なら危ない。閉じ込められた人へ気づくなら、必要な時もある」


麻里「私、気づく係?」


九条「まだ分からない」


七瀬が水のペットボトルを閉じた。


七瀬「朝倉さんが外れたいなら、その判断は尊重します」


麻里は顔を上げた。


七瀬「怖いなら戻る。これは負けではありません」


麻里「帰るの、勝ち?」


七瀬「はい」


麻里は少し笑った。


麻里「世界三位も言った」


九条「麻里」


麻里「なあに」


九条「戻りたいなら戻る。残りたいなら残る。ただし、どちらでも君を式の部品にはしない」


璃子「そして、どちらを選んでも、私たちは麻里を危険物扱いしません」


麻里はカフェオレを見つめた。


麻里「じゃあ、まだいる」


短い言葉だった。


けれど、自分で選んだ声だった。


三枝がメモを取る。


麻里「今のも記録?」


三枝「はい」


麻里「恥ずかしい」


三枝「重要ですので」


麻里「行政、照れる」


九条「行政に照れを求めるな」


璃子が少しだけ笑った。


     *


最後の確認は、予定になかった。


休憩後、観測室へ戻り、片づけを始めた時だった。


七瀬が黒石のケースを持ち、三枝が封印を確認する。


璃子は記録ちゃん三号を取り外す。


麻里は布袋の紐を結び直していた。


九条はホワイトボードの文字を消そうとして、手を止めた。


『戻る判断』


そこだけ、なぜか残したかった。


麻里がその文字を見た。


麻里「戻るって、どこに?」


九条「安全な場所へ」


麻里「安全な場所が、消えたら?」


誰もすぐには答えなかった。


赤いベンチ。


休憩室。


救助継続中。


帰宅確認済み。


全部が一瞬、同じ場所へ重なった。


麻里は布袋を抱いたまま、黒石のケースを見た。


ケースまでは三メートル。


開封されていない。


七瀬が持っている。


安全な距離。


麻里は、黒石ではなく、自分の足元に向けて小さく言った。


麻里「私、戻りたいって言える場所は、消えないでほしい」


その瞬間。


七瀬の手の中で、黒石のケースが、こつん、と小さく鳴った。


全員が止まった。


七瀬の手は動いていない。


ケースも落ちていない。


ただ、内側から軽く叩かれたような音がした。


璃子「記録、回しています」


三枝「封印、目視確認。破損なし」


九条の視界に、薄い緑色の文字が走った。


『黒石反応:微弱』


『M因子反応:同期』


『対象語句:戻りたい』


『周辺公理選択確率:微変動』


『復元条件:未達』


『照合条件:未達』


『注記:閉じた式への代入を禁止』


『注記:戻る判断との関連を保留』


璃子「何が見えました」


九条は、まず麻里を見た。


九条「麻里が悪い、という表示ではない」


麻里の肩が少し下がった。


九条「黒石が反応した。M因子反応と同期。対象語句は、戻りたい」


三枝「戻りたい」


七瀬「黒石単体では反応せず、その言葉で反応した」


璃子「麻里が言った時だけですね」


九条「はい。ただし確定ではありません。復元条件も照合条件も未達です」


麻里「じゃあ、まだ分からない?」


九条「分からない」


麻里「でも、ちょっと分かった?」


九条はホワイトボードに残った文字を見た。


戻る判断。


戻りたい。


消された休憩室。


弱められた字幕。


救助完了の裏に隠れた救助継続中。


九条「たぶん、Mを混ぜるな、は、麻里を外せという意味じゃない」


璃子「では?」


九条「人が戻りたいと言った瞬間を、閉じた式へ雑に押し込むな、という意味だ」


麻里「閉じた式?」


九条「休憩しただけ。疲れていただけ。帰宅確認済み。そういう言葉で、戻りたいという判断を消すな、ということだと思う」


麻里は黙って聞いていた。


九条「まだ証明はしない。今は書くだけだ」


九条はノートに書いた。


『M因子:戻る判断との関連可能性』


『黒石:戻りたい、に反応』


『結論:未確定』


少し考えて、最後に一行を足した。


『麻里を式に入れるのではない。麻里が拒んだ式を疑う』


麻里がそれを読んだ。


麻里「真先生」


九条「何だ」


麻里「字、やさしい」


九条「字に感情はない」


璃子「あります。今の字は、少しだけまともです」


三枝「記録しますか」


璃子「します」


九条「字の評価は不要だ」


麻里「そこも記録」


七瀬が黒石のケースをもう一度確認した。


もう音はしない。


黒石は、ただの黒い小石のように静かだった。


けれど、全員が聞いていた。


戻りたい、という言葉にだけ、石は応えた。


紀三井寺南へ戻る前に、戻るという言葉そのものが揺れ始めていた。

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