魚が釣り人を釣る日
がぶっ。
俺は糸に噛みついた。
「…………」
キントキダイが見ている。キンメダイも見ている。
「それで?」
「…………」
「釣り人を釣るんですよね?」
「…………」
俺は糸を噛んだまま考えた。
どうしよう。
「何も考えてなかったんですか!?」
「うるさい!!」
前回、勢いで言ってしまった。
『魚が釣り人にできることを教えてやる』
『釣り人を釣る』
格好よかった。ものすごく格好よかった。
だが、一晩どころか一秒も考えていなかった。
魚には竿がない。リールもない。手もない。
あるのは口とヒレ。そして、前世の釣り人としての知識。
「…………」
俺は糸を引っ張ってみた。
ぐいっ。
遠くで何かが動いた。
「お?」
もう一度。
ぐいっ。
*
遠く離れた海上レクサス。
教祖の竿先が、ぴくっと動いた。
「…………」
教祖が竿を見る。
ぴくっ。
「来ましたな」
*
「来ましたな」
聞こえるはずもないのに、そう言った気がした。
「食いついた!」
俺は叫んだ。
「教祖が?」
「ああ!」
「何に?」
「俺に!」
「それ普通にあなたが釣られてません?」
「違う!!」
危ない。立場が一瞬で逆転しかけた。
俺は針を食っていない。糸を噛んでいるだけだ。
つまり、まだ釣られてはいない。
「ここからだ」
俺は糸を軽く引く。
ぴくっ。
少し待って、また、ぴくっ。
「何をしてるんです?」
「前アタリ」
「前アタリ?」
「魚が餌をつついてるように見せてる」
キントキダイが俺を見る。
「魚ですよね?」
「今だけ釣り人側なんだよ!」
「口で糸を引いてる魚ですけど」
「肩書きを細かくするな!」
俺には分かる。
このアタリなら、釣り人だった俺はまだ合わせない。様子を見る。もう少し食い込むまで待つ。
だから――
ちょん。
ちょん。
ぐっ。
「今だ」
俺は強く糸を引いた。
その瞬間。
ギュン!!
糸が上へ走った。
「うおおおおお!?」
俺まで引っ張られる。
「教祖様が合わせました!」
「知ってるよおおお!!」
俺は慌てて糸を離した。
仕掛けだけが、ものすごい速度で水面へ消えていく。
「…………」
三匹で見上げた。
キントキダイが言った。
「釣り人、釣れてませんよ?」
「…………」
「仕掛け回収されただけでは?」
「第一段階だ」
「今作りましたよね?」
「うるさい」
*
遠く離れた海上レクサス。
教祖は仕掛けを回収し、針を見る。
餌が付いている。魚はいない。
「…………」
教祖は首を傾げた。
「食い込みませんでしたな」
そして、もう一度仕掛けを投入する。
*
「来るぞ」
俺は言った。
「何が?」
「教祖」
潮の向こうから、またコマセが流れてくる。そして付け餌。
「やっぱり!」
俺は笑った。
キンメダイが聞く。
「何がやっぱりなんです?」
「釣り人はな、アタリが一回あると帰れなくなる」
「なぜ?」
「次は釣れる気がするから」
「釣れてないのに?」
「釣れてないからだよ」
二匹が黙った。
「人間って大丈夫ですか?」
「俺に聞くな」
作戦は成功していた。
教祖は、ここに魚がいると確信した。
問題は、それが俺たちにとって何の得になるのか。
「…………」
キントキダイが言った。
「状況、悪化してません?」
「気のせいだ」
「コマセ増えてますよ」
「…………」
「仕掛けもまた来ました」
「…………」
「教祖様、やる気になってます」
「…………」
完全に悪化していた。
「釣り人を釣るって、教祖様のやる気を釣り上げる意味だったんですか?」
「違うわ!!」
俺は考えた。
目的を忘れるな。魚をここから散らす。教祖の釣りを止める。そのために、糸の向こうにいる教祖へ何かする。
「…………」
もう一度、糸を見る。
そして気づいた。
「切ればいいんじゃね?」
「え?」
「糸」
針が危険なら、糸を切ればいい。仕掛けは使えなくなる。魚も釣れない。
単純だ。
なぜ最初から気づかなかった。
「俺、魚じゃん」
「ずっとそうですよ」
「歯あるじゃん」
「ありますね」
「噛み切ればいいじゃん!」
俺は糸へ向かった。
「ついに勝った!!」
がぶっ。
噛む。
「…………」
がじ。
がじ。
がじ。
「…………」
切れない。
「硬っ!!」
キントキダイが近づく。
「代わりましょうか?」
「頼む」
がじ。
「…………」
キンメダイも来る。
がじ。
「…………」
三匹で糸を見る。
「丈夫ですね」
「釣り糸だからな」
「何のために丈夫なんです?」
「魚に切られないためだよ!!」
「ちゃんと対策されてる!!」
人類、魚との戦争を何千年やってるんだ。
*
「でも待て」
糸そのものを切れなくても、仕掛けを使えなくすればいい。
絡ませる。引っ掛ける。何かに巻きつける。
俺は海底を見る。
岩。根。海藻。
ある。
「これだ」
「何です?」
「根掛かりさせる」
「根掛かり?」
「針を岩とかに引っ掛けるんだよ」
魚ではなく、海底を釣らせる。
そうすれば教祖は仕掛けを失う。少なくとも、しばらく釣りはできない。
「行くぞ!」
俺は付け餌へ近づいた。針そのものには触れず、糸を身体で押す。ヒレで方向を変え、潮に乗せて少しずつ岩場へ運んでいく。
「こっち!」
三匹で仕掛けを運ぶ。
「もう少し!」
針が岩へ近づく。
あと少し。
「そこだ!!」
針が岩の隙間へ入った。
俺は糸を引く。
ぐっ。
引っ掛かった。
「よし!!」
*
遠く離れた海上。
教祖の竿先が、ぐぐぐっと曲がった。
「…………!」
教祖が立ち上がり、竿を持つ。
さらに曲がる。
「来ましたな!!」
*
「来た来た!」
俺は笑った。
「引いてる!」
糸が張る。針は岩に掛かっている。
「もっと引け!」
ぐぐぐっ。
「それ魚じゃねえぞ!」
教祖が竿を煽る。
ぐぐぐっ。
外れない。
「どうだ!」
キントキダイが感心する。
「これが釣り人を釣る?」
「そうだ!」
俺は胸を張った。
「魚じゃなくて、海底を食わせた!」
「食べてませんけど」
「雰囲気だよ!」
糸がさらに強く張る。
「さあ教祖! 根掛かりと戦え!」
教祖は竿を引く。外れない。
角度を変える。外れない。
糸を緩めて、また引く。
外れない。
「…………」
俺には分かる。
今、教祖が何を考えているのか。
魚か?
根掛かりか?
いや、さっきアタリがあった。なら魚かもしれない。
でも動かない。
根掛かりか?
でも、ひょっとしたら大物が根に潜ったのかもしれない。
「悩んでる悩んでる」
俺は笑った。
「ものすごく悩んでるぞ」
キンメダイが聞いた。
「分かるんですか?」
「分かる」
なぜなら俺も、何度も同じことを考えた。
根掛かりなのに、『いや、魚かもしれない』と数分粘ったことがある。
「人間は希望があると、岩まで魚に見えるんだよ」
「大丈夫ですか?」
「釣り人に正常性を求めるな」
*
そのとき、糸が緩んだ。
「お?」
教祖が引っ張るのをやめ、しばらく完全にテンションを抜いた。
「何してるんです?」
キントキダイが聞いた。
「根掛かりを外そうとしてる」
「外れます?」
「場合による」
俺は見守った。
糸がふわりと潮に揺れ、針も少し動く。
「…………」
嫌な予感がした。
教祖がもう一度、ゆっくり引いた。
するっ。
針が岩から外れた。
「…………」
三匹で見た。
仕掛けが、何事もなかったように海中へ戻ってきた。
「外れましたね」
「…………」
「教祖様、上手ですね」
「褒めるな!!」
作戦失敗。
また仕掛けが自由になった。
俺は考える。
次だ。
次の手。
そのとき、教祖が仕掛けを回収し始めた。
「お?」
どんどん上がっていく。
「諦めた?」
キントキダイが聞く。
「かもしれない」
ついに。
今度こそ。
俺たちは教祖に勝った――
海上から、遠く声が聞こえた。
「根が荒いですな」
「…………」
「少し移動しましょう」
「…………」
エンジン音。
海上レクサスが動き出す。
俺は固まった。
キンメダイが言った。
「やりましたね」
「え?」
「教祖様、いなくなります」
「…………」
キントキダイも喜ぶ。
「釣り人を追い払いました!」
「…………」
確かに。
目的は達成した。
教祖は移動する。
俺たちは助かる。
「勝った……?」
「勝ちです」
「そうだよな」
俺は笑った。
やった。
魚が釣り人に勝った。
海上レクサスの音が少しずつ遠ざかる。俺たちは三匹で、その音を聞いていた。
そして俺は、ふと思った。
「…………待て」
「?」
教祖は何と言った?
少し、移動する。
俺は周囲を見る。コマセで集まった大量の魚。そして、海上レクサスが向かった先。
ほんの少し、潮上。
「…………」
嫌な予感。
ものすごく嫌な予感。
「あいつ」
「?」
「俺たちより上流に回っただけだ」
「上流?」
「潮上だよ!!」
船が止まる音。
そして数分後、遠くからまたオキアミが流れてきた。
「…………」
さっきより自然に。
さっきより大量に。
その中に、付け餌。
キントキダイが言った。
「戻ってきましたね」
「戻ってきたんじゃない」
俺は震えた。
「改善してきやがった」
教祖は俺たちに根掛かりさせられた。
だから、根掛かりしにくい位置へ移動した。魚に邪魔された結果、釣り方を修正したのだ。
「学習すんなよ!!」
俺は叫んだ。
「釣り人だけ学習するのおかしいだろ!!」
キントキダイが言った。
「我々も学習してますよ」
「じゃあなんでお前さっきからコマセ食ってんだよ!!」
「無料なので」
「魚ァァァァァ!!!」
再び福音が流れてくる。
戦いは振り出しに戻った。
いや。
違う。
教祖は、さっきより少し上手くなっている。
俺も、さっきより少し魚になっている。
「…………」
これ、いつ終わるんだ?
そのとき、海上から聞き慣れた電子音が響いた。
ピピッ。
ピピッ。
俺は知っている。
「…………魚探?」
教祖の声がした。
「おや」
嫌な予感がする。
「別の場所にも反応がありますな」
「…………」
海上レクサスが、俺たちとは違う方向へ向きを変えた。
「助かった?」
キンメダイが言った。
俺は答えなかった。
釣り人が魚探に新しい反応を見つけたときの顔を、俺は知っている。
あれは今いる魚を諦めた顔ではない。
「新しい信者を見つけた顔だ」
海上から教祖の声が響いた。
「新規開拓ですぞーーー!」
「宗教法人みたいに漁場広げんなあああああ!!!」
海上レクサスは、新しい反応へ向かって走り出した。
俺はその後ろ姿を見る。
「…………」
キントキダイが聞いた。
「追いかけます?」
「なんで?」
「放っておいたら、別の魚が釣られますよ」
「…………」
俺は黙った。
助かった。
俺たちは助かった。
ここにいれば安全だ。追いかける理由なんてない。
ないはずなのに、遠ざかる海上レクサスを見て、俺は嫌なことに気づいてしまった。
「俺……」
「?」
「魚はすべて信者だって、教祖に教えたの俺なんだよな」
「そうなんですか?」
「前世でな」
**自分で作った教義。**
**自分で撒いた福音。**
**自分で信者と呼んで釣っている魚。**
そして今、自分が魚になって、それを止めようとしている。
「…………」
意味が分からない。
俺の人生、転生してからずっと意味が分からない。
俺は海上レクサスを追った。
「行くぞ!」
「やっぱり追うんですね」
「しょうがねえだろ!」
「なぜ?」
俺は叫んだ。
「俺の前世の不始末だからだよ!!」
三匹の赤い魚は、海上レクサスを追って泳ぎ出した。
その先に、何がいるのかも知らずに。
――第九話 完――
【教祖と海の経典】
■ 海上レクサス
レクサスの高級クルーザーですな。
無論、わたくしの私物ですぞ。
■ コマセ
魚を自分の釣り場へ集めるため、海へ撒いたり仕掛けのカゴに詰めたりするエサのことですな。
いわゆる撒き餌・寄せ餌ですぞ。
主なものにオキアミ、アミコマセ、イワシミンチなどがありますな。
■ 福音
コマセのことですぞ。
海の者どもは、ありがたがってそう呼んでおりますな。
■ 新宿ISE◯AN
新宿にある伊勢丹ですぞ。
値段もクオリティも日本最高峰クラスですな。
■ 某高級百貨店
新宿高島屋ですぞ。高級鮮魚売り場もありますな。
新宿にはほかにも、小田急ハルク、京王、伊勢丹など鮮魚を眺められる場所がありますぞ。
私の毎日の散歩コースですな。
■ チカメキントキ
赤い魚。本作の主人公。
値段は……まあ、微妙ですな。
■ キンメダイ
赤い魚。
伊豆では立派な高級魚ですぞ。
■ キントキダイ
赤い魚。
チカメキントキによく似ていますが別種ですな。
■ 海上レクサス
レクサスのクルーザーですぞ。
■ オキアミ
釣りでよく使うエサですな。
コマセにも付けエサにも使えますぞ。




