第73話 川奈では普通です
数日後。
川奈の日蓮像の根の先は、
少しずつ賑やかさを取り戻していた。
昨日までいなかった魚がいる。
その魚の隣にも、
知らない魚がいる。
天城越えで百匹以上消えたのに。
「戻るの早くない?」
キントキダイが言った。
「海だからな」
「その一言で全部説明するのやめて」
*
最近来た魚たちは、
川奈のことをよく知らない。
当然だった。
宇佐美から来た魚。
伊東港から来た魚。
城ヶ崎から来た魚。
近所から来た魚でも、
暮らしていた場所が違えば知らないことは多い。
その日。
一匹の魚が聞いた。
「あの船、何ですか?」
「船?」
見る。
小さな手漕ぎボートが浮かんでいた。
「ああ、釣りだよ」
「…………」
魚が俺を見る。
「逃げないんですか?」
「まだ遠いから」
「でも釣りですよね?」
「釣りだよ」
「逃げないんですか?」
「だからまだ遠いって!」
*
魚は落ち着かない。
「こっち来ません?」
「来るかもね」
「逃げないんですか?」
「三回目だよ!!!」
古参のアジは普通に泳いでいる。
根魚も動かない。
キンメダイに至っては。
「福音あるかな」
「お前は近づく気だろ!!!」
*
新しく来た魚が、
周りを見る。
「みんな慣れすぎじゃないですか?」
「まあ……」
言われてみれば。
そうかもしれない。
川奈では。
船が来る。
釣り人が来る。
福音が落ちる。
仕掛けも落ちる。
誰かが食う。
誰かが釣られる。
たまに帰ってくる。
帰ってこないこともある。
そして翌日。
また普通に暮らす。
「…………」
「慣れてるな」
「ですよね!?」
*
その時。
手漕ぎボートが少し近づいた。
新しく来た魚が身構える。
古参はまだ動かない。
「ほら! 来てますよ!」
「まだ大丈夫だって」
「何を基準に!?」
「なんとなく」
「なんとなく!?」
俺は少し考えた。
「船の位置とか」
「はい」
「人間の動きとか」
「はい」
「あと……雰囲気?」
「最後おかしくないですか!?」
*
上から。
ぱらぱら。
何かが落ちてきた。
新しい魚が飛び退く。
「来た!!!」
古参の魚が見る。
「福音ですな」
「食べるんですか!?」
「もちろん」
「釣り人ですよ!?」
「そうですな」
「…………」
新しい魚は、
理解できない顔をしていた。
俺には。
その顔の方が、
少し懐かしかった。
「…………」
そうだった。
普通は。
そう思うよな。
*
キンメダイが福音へ向かう。
「行ってくるね」
「待て」
「何?」
「仕掛け見てから」
「分かった」
ちゃんと待った。
「…………」
成長したな。
少しだけ。
*
仕掛けが落ちてきた。
俺たちは離れて見る。
古参の魚も、
距離を取る。
新しい魚が聞いた。
「食べないんですか?」
「今は食べない」
「さっき福音だって」
「福音だけど」
「???」
「仕掛けが近いから」
「???」
「…………」
説明している俺も、
だんだん分からなくなってきた。
*
新しい魚が聞いた。
「福音って、釣るために撒いてるんですよね?」
「そうだよ」
「危ないんですよね?」
「危ないよ」
「でも食べるんですよね?」
「食べるよ」
「教祖様って、釣り人なんですよね?」
「釣り人だよ」
「でも信仰されてるんですよね?」
「…………」
俺は周りを見た。
古参。
福音。
仕掛け。
それを普通に眺めている魚たち。
「…………」
「川奈では普通です」
「絶対普通じゃないですよね!?」
「俺もそう思う!!!」
*
その日の夕方。
新しく来た魚は、
まだ川奈にいた。
「帰らないの?」
「もう少しいようかなって」
「怖かったんじゃないの?」
「怖いです」
「じゃあなんで?」
魚は少し考えた。
「福音、美味しかったので」
「…………」
「お前もこっち側になるの早くない?」
次回。
『川奈に来て一週間です』




