釣り人の考えることは魚には分からない
「逃げろおおおおお!!」
俺たちは泳いだ。
チカメキントキ、キンメダイ、キントキダイ。三匹の赤い魚が、海中を全力で逃げる。その後ろから、教祖が新しく投入した仕掛けがゆっくりと沈んでくる。
「何なんですか、あれ!」
キントキダイが叫んだ。
「分からん!」
「さっき知ってるって言ったじゃないですか!」
「知ってるけど分からん!!」
「どっちですか!?」
俺は前世で釣り人だった。だから、釣れない釣り人が仕掛けを変えたことまでは分かる。
問題は――何に変えたのか。
「見えません!」
キンメダイが言った。
「近づけば分かる!」
「近づいて大丈夫なんですか!?」
「ダメかもしれない!」
「じゃあどうするんですか!」
「近づかないと分からない!」
「釣り人の知識、役に立たないじゃないですか!!」
うるさい。
俺も今そう思っている。
三匹で距離を取りながら、沈んできた仕掛けを観察した。餌らしきものが付いている。糸もある。当然、針もある。
「食べなければいいんですよね?」
キントキダイが言った。
「基本的にはな」
「では問題ないのでは?」
「甘い」
「甘い?」
「釣り人というのはな、食わないともっと余計なことを始める」
釣れない。すると釣り人は考える。
餌が悪いのか。針が悪いのか。ハリスが太いのか。棚が違うのか。色が悪いのか。動かし方が悪いのか。場所が悪いのか。潮が悪いのか。
「最終的には?」
キンメダイが尋ねた。
「魚が悪いことになる」
「我々!?」
「そうだ」
「何もしてませんよ!」
「食わないだろ」
「食わないだけで悪者になるんですか!?」
「釣り人とはそういうものだ」
前世の俺を思い出す。
釣れない日の帰り道。
『今日は魚いなかったな』
いた。
魚探には映っていた。
ただ食わなかっただけだ。
「…………」
魚になってから、前世の自分に対する評価が日に日に下がっている。
そのとき、仕掛けが動いた。
すっ。
「うわっ!」
三匹が一斉に離れる。
また動く。
すっ。
止まる。
そして、また動く。
キントキダイが震えた。
「生きてるんですか?」
「違う」
「では何です?」
「誘ってる」
「誰を?」
「俺たちを」
「怖い!!」
人間だった頃は、何の疑問もなくやっていた。竿を少し動かし、餌を動かして魚に見せ、食わせる。それだけだ。
だが魚側から見ると、海中で死んでいるはずの餌が、一定間隔でこちらを誘ってくる。
「ホラーじゃん」
「何がです?」
「いや」
魚になって初めて分かった。
釣り人、海の外から死体を操っている。
「でも大丈夫だ」
俺は海上を見上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
教祖は俺だ。俺なら、この状況で何をする?
魚探には反応がある。コマセには寄っている。だが付け餌を食わない。
なら――
その瞬間、仕掛けが勢いよく海上へ消えた。
「…………?」
三匹で見上げる。
しばらくして、新しい仕掛けが落ちてきた。
「また変えたのか?」
俺は目を凝らした。
さっきまでとは違う。
針の先に、小さな魚が一匹付いている。
「…………ん?」
見覚えがある。
「キビナゴだ」
「魚?」
「ああ。冷凍の」
キントキダイが近づこうとする。
「では、あの方は?」
「死んでる」
「え?」
その瞬間。
キビナゴが跳ねた。
すっ。
止まる。
また跳ねる。
すっ。
「生きてるじゃないですか!!」
「死んでるよ!!」
「でも動いてます!」
「教祖が動かしてんだよ!!」
海上から竿をシャクるたび、死んだキビナゴが不自然に跳ねる。
キントキダイが目を見開いた。
「あの魚、大丈夫ですか? 動きがおかしいですよ!」
「だから死体だって!!」
キビナゴがまた跳ねた。
俺は叫んだ。
「完全にネクロマンサーだよ!!!」
「ネクロマンサー?」
「死霊術師!!」
「教祖様はそんなことまでできるんですか!?」
「ただの釣りだよ!!」
魚になって初めて分かった。
人間が餌を動かして誘うという、ごく普通の釣り。
魚側から見たら完全に死霊術だった。
「いや、それ死体だから! 死霊術だから!!」
「本当に分かるんですね!」
「当然だ。俺は俺だからな」
俺は仕掛けを見つめる。
「次は少し待つ」
キビナゴの死体が止まる。
「そのあと、また誘う」
すっ。
「すごい!」
「そして食わなければ――」
俺は考えた。
次は何をする?
ハリスを細くする。針を小さくする。また餌を変える。それとも場所を変える。
俺なら――
海上から声がした。
「飽きましたな」
「…………え?」
仕掛けが猛烈な勢いで上がっていった。
三匹で見送る。
「…………」
キントキダイが俺を見る。
「これは?」
「…………」
キンメダイも見る。
「予想どおりですか?」
「…………」
海上からガサゴソと音がする。
俺は混乱した。
待て。
俺なら、もう少しやる。
魚探に反応があるんだから、棚を変える。仕掛けを変える。餌を変える。もう少し試す。
少なくとも――
「本日はサバでも狙いましょう」
「飽きただけかよ!!!」
そうだった。
釣り人は、必ずしも合理的に釣りをしているわけではない。
朝は、
『今日はチカメキントキ一本ですぞ』
と言っていた。
一時間後には、
『せっかく海に来たので何か釣りたいですな』
になる。
昼には、
『食べて美味しければ何でもいいでしょう』
になる。
そして帰港直前には、
『今日は海を見に来たのです』
になる。
「目標がどんどん下がってるじゃないですか」
キントキダイが言った。
「釣れない日の釣り人に正論を言うな」
「でも――」
「本人は最後まで一貫した釣行だったと思って帰るんだよ」
「怖いですね」
「俺も今怖い」
なぜなら、それが俺だからだ。
海上では、教祖が新しい仕掛けを準備している。
俺は考えた。
「まずいな」
「何がです?」
「狙いが変わった」
「我々は助かったのでは?」
「一時的にはな。でも、あいつは何か釣るまで帰らない可能性がある」
「なぜ?」
「釣果ゼロで帰りたくないから」
キントキダイが首を傾げた。
「では一匹釣らせれば帰るんですか?」
「…………」
俺は止まった。
なるほど。
そういう考え方もある。
俺たちが逃げ続ける。教祖は釣れない。釣れないから仕掛けを変える。場所を変える。狙いを変える。
結果、被害範囲が広がる。
だったら――誰か一匹、どうでもいい魚を釣らせればいい。
「…………」
キンメダイが俺を見る。
「今、ものすごく嫌なことを考えてません?」
「考えてない」
「誰かを生贄にしようとしてません?」
「言い方」
「顔に出てます」
「魚の顔で分かるの!?」
俺たちは相談した。
「教祖様が満足する魚を一匹だけ釣らせる」
キントキダイが確認する。
「そう」
「そうすれば帰る」
「可能性がある」
「誰を?」
「…………」
三匹で周囲を見る。
小魚。
小魚。
小魚。
少し離れたところにも、何かいる。
「おい」
俺は一匹の魚に声をかけた。
魚が振り返る。
「何?」
「ちょっと相談があるんだけど」
「何?」
「針に掛かってみない?」
「嫌だよ」
「ですよね」
交渉終了。
当たり前だった。
「困りましたね」
キンメダイが言った。
「魚側から自主的に釣られる奴を募集するのは無理だ」
「そもそも何て募集するんです?」
俺は考えた。
「急募。釣られるだけの簡単なお仕事です」
「嫌です」
「未経験歓迎」
「全員未経験でいたいです」
「海面まで送迎あり」
「片道じゃないですか!」
「キャッチ・アンド・リリース制度あり」
「さっき価格で選別されてましたよね!?」
求人として終わっていた。
そのときだった。
海上から、何かが落ちてきた。
ぽちゃん。
「来た!」
俺たちは身構えた。
だが、針ではない。
餌でもない。
巨大な塊だった。
海中でゆっくり崩れながら、大量のオキアミを放出している。
「福音だ!!」
周囲の魚たちが一斉に集まった。
「待て!! 近づくな!!」
だが遅い。
魚、魚、魚。
あっという間に巨大な群れができる。
キントキダイが塊を見た。
「今度は何ですか?」
俺には見覚えがあった。前世の俺も使っていたものだ。
「コマセだ」
「いつもの福音では?」
「違う」
「何が?」
俺は海上を見る。
教祖が何かしている。
そして気づいた。
「…………あいつ」
「どうしました?」
「解凍するの面倒だからって――」
海上から教祖の声がした。
「海に入れておけば溶けますな!!」
「海を電子レンジみたいに使うな!!!」
凍ったコマセの塊から、少しずつ福音の溶け汁が流れ出す。
魚たちは大喜びだ。
しかも今のところ針は入っていない。
ただスープ。
完全なる無料配布。
キントキダイが口にする。
「美味しいですよ」
キンメダイも漂ってきた溶け汁を飲む。
「…………本当に針ありません」
俺は警戒した。
だが、確かに針はない。
「…………」
これなら大丈夫か。
一口。
美味い。
もう一口。
美味い。
周囲の魚たちも次々に集まってくる。
俺は思った。
なんだ。
教祖にも、純粋に魚へ餌を与えることが――
そのとき。
別の福音が、ゆっくりと海中へ沈んできた。
「…………」
俺は目を凝らす。
今度は違う。
オキアミの先に、細い糸が伸びている。
その先には――針。
「…………あ」
俺は理解した。
さっきの無料配布。
善意ではない。
魚を集めていただけだ。
「集客だったのかよ!!」
海上から教祖の声がした。
「皆様お集まりですなーーー!」
「無料キャンペーンのあとに課金導線作るなああああ!!!」
キントキダイが俺を見る。
「これも予想してたんですか?」
「…………」
「元釣り人ですよね?」
「…………」
キンメダイまでこっちを見る。
「…………教祖様と同じ人なんですよね?」
「うるせえ!!」
俺は仕掛けから逃げながら叫んだ。
「釣り人の考えることなんて、魚に分かるわけねえだろおおおおお!!!」
「あなた元釣り人でしょう!!」
「だから余計に分かんねえんだよ!!!」
――第六話 完――
【教祖と海の経典】
■ コマセ
魚を自分の釣り場へ集めるため、海へ撒いたり仕掛けのカゴに詰めたりするエサですな。
いわゆる撒き餌・寄せ餌で、オキアミ、アミコマセ、イワシミンチなどがありますぞ。
■ 福音
コマセのことですぞ。
海の者どもは、ありがたがってそう呼んでおりますな。
■ ハリス
釣りの仕掛けで、釣り針を結ぶ側の糸のことですな。
リールから伸びる「道糸」の先につないで使いますぞ。
魚に一番近いところで命運を握っている糸ですな。
■ キントキダイ
キントキダイ科の魚ですな。
チカメキントキと非常によく似ていますが、別種ですぞ。
■ オキアミ
釣りでよく使うエサ。
撒いて魚を寄せたり、針につけたりしますぞ。
■ 海上レクサス
レクサスの高級クルーザー。
無論、わたくしの私物ですぞ。
■ チカメキントキ
キントキダイ科の海水魚。全長は三十センチほど。
本作の主人公ですな。
■ キンメダイ
伊豆半島を代表する魚のひとつ。
煮付けが実にうまいですぞ。




