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魚にもキャッチ・アンド・リリースを

挿絵(By みてみん)

「食べ比べをしましょう」


人間の俺――教祖は、そう言って包丁を持ち上げた。


まな板の上には三匹。チカメキントキ、キンメダイ、キントキダイ。


赤い。


全員赤い。


そして俺だけが、自分を食おうとしている人間と同一人物だった。


「待て」


「何でしょう」


「ひとつ確認したい」


俺は包丁を見た。


「釣った魚って、全部食わなきゃいけないの?」


教祖の手が止まった。


「…………」


「なんで黙る」


「信者ですから」


「信者は食わなきゃいけない決まりなの!?」


教祖は包丁を置き、海の経典を開いた。


「魚はすべて信者である。信者には福音を与えよ。ただし――美味しくいただくこと」


「最後の一行を廃止しろ!!」


隣のキンメダイがおそるおそる口を開いた。


「…………その、海へ戻していただくことは?」


「できますよ」


教祖はあっさり答えた。


「できるの!?」


「キャッチ・アンド・リリースです」


あるじゃん。


生存ルートあるじゃん。


キャッチ・アンド・リリース。釣った魚を持ち帰らず、生きたまま海へ返すことだ。釣り人だった俺には当たり前の言葉だが、今の俺にとっては天から差し込む光に等しい。


「じゃあリリースしろよ!!」


「しかし」


教祖は三匹を見た。


「高級魚ですからな」


「命と値段を天秤にかけるな!!」


「あなたも前世では食べていたでしょう」


「そうだった!!」


反論できない。


俺は頭を抱えたかった。ヒレしかなかった。


考えてみれば当然だった。前世の俺は釣り人だ。釣った魚を食べる。むしろ、美味しく食べるところまでが釣りだと思っていた。


小さい魚は逃がす。食べない魚も逃がす。必要以上には持ち帰らない。そんなことも考えていた。


だが――いざ自分が魚になると、


「全部逃がせばよくない?」


思想が変わった。


ものすごい速度で変わった。


立場が変わると思想も変わる。魚になって初めて知った。


キャッチ・アンド・リリースとは、魚側から見ると、ほぼ恩赦である。


「教祖」


「はい」


「俺たちをリリースしろ」


「理由は?」


「命が惜しい」


「非常に分かりやすい」


「魚の政治思想なんてだいたいそれだよ!!」


教祖はしばらく考えていたが、やがて船内へ入り、一冊の分厚いファイルを持って戻ってきた。


「何だ、それ」


教祖は答えず、恭しく両手でファイルを開いた。


「経典によれば――」


「また経典かよ」


ページをめくる教祖を眺めながら、俺は何気なく表紙を見た。


金色の文字で、


『新宿 ISE◯AN』


と書いてあった。


「百貨店じゃねえか!!」


「静かになさい」


「何で俺が怒られんだよ!」


教祖は真剣な顔でページをめくっている。


魚。


魚。


魚。


そして値段。


値段。


値段。


どう見ても新宿ISE◯ANの鮮魚売場を記録したファイルだった。


「何だよ、そのファイル」


「東京の釣り人にとって重要な経典です」


「初耳だよ」


「釣行前には必ず新宿ISE◯ANを訪れます」


「必ずではない」


「これから釣る魚が、いくらで売られているのか確認するのです」


「何のために?」


教祖はファイルから顔を上げ、俺を見た。


「奮い立たせるためです」


「…………」


「例えばシマアジを見ます」


「うん」


「価格を見ます」


「うん」


「そして思うのです」


教祖は拳を握った。


「これを明日、私は海から無料で持って帰るのだと」


「急に俗物へ戻るな!!」


高級なものには魂が宿る。


それが教祖の教義だった。


思えば昔からそうだった。高級な服、高級な時計、高級な食べ物。そして当然、高級な魚。


教祖にとって新宿ISE◯ANは百貨店であると同時に、海へ向かう前に己を奮い立たせるための場所でもあるらしい。


前世の俺のはずなのだが、魚になってから見ると、かなり気持ち悪い。


そして最後。


教祖が俺を見る。


チカメキントキ。


「…………」


ページをめくる。


「…………」


さらにめくる。


「…………」


「ないの?」


「少々お待ちを」


「俺だけ載ってないの!?」


教祖はファイルを閉じると、別の記録を取り出した。


「こちらにありました」


「どちら?」


「某高級百貨店」


「急に伏せたな」


教祖は記録を確認した。


「チカメキントキ」


「うん」


「三千円」


「…………」


教祖が俺を見る。


俺も教祖を見る。


キンメダイも俺を見る。


キントキダイも俺を見る。


やめろ。


全員で俺を見るな。


長い沈黙のあと、教祖が言った。


「まあ……」


「何だよ」


「あなたは逃がしてもいいでしょう」


「値段でリリース対象を決めるなあああああ!!!」


「三千円ですから」


救済までの工程が長すぎる。


*


教祖は俺を持ち上げ、船べりへ向かった。


「では」


「おい」


「何でしょう」


「本当に俺からなの?」


「はい」


「魂は平等なんだよな?」


「平等です」


「じゃあ何で俺から?」


「三千円なので」


「資本主義が教義を突破してんだよ!!」


ぽちゃん。


冷たい海水が身体を包んだ。


「…………」


助かった。


ものすごく複雑な気持ちで助かった。


水がエラを通り、身体が軽くなる。俺はすぐに海面を見上げた。


船の上には、まだ二匹いる。


キンメダイ。


キントキダイ。


「おい!! そいつらも逃がせ!」


教祖が船べりからこちらを見下ろした。


「しかし……」


手にはまだ新宿ISE◯AN。


「開くな!!」


「一度この価格を見てしまうと……」


「値札に負ける宗教って何だよ!」


「高級なものには魂が宿るのです」


「だったらなおさら大切にしろ!!」


「…………」


教祖が止まった。


俺も止まった。


船上のキンメダイとキントキダイも止まった。


「高級なものには魂が宿る」


俺は言った。


「そうなんだろ?」


「はい」


「じゃあ値段が高いほど、大事な魂なんだろ?」


「教義上は」


「なら一番大事にしろよ」


「…………」


教祖は考えた。


効いている。


自分で考えた教義だから分かる。


この理屈は――効く。


ものすごく効く。


「なるほど」


教祖が頷いた。


「確かに」


「よし!」


教祖はキンメダイを持ち上げた。


「高級な魂を粗末にしてはいけませんな」


「そういうこと!」


ぽちゃん。


「…………ありがとうございます!」


キンメダイが海へ戻った。


続いてキントキダイ。


ぽちゃん。


「助かったあああああ!!」


三匹とも海へ戻った。


俺は思った。


初めてこの宗教が、魚の役に立った。


コマセで呼び寄せ、針に掛け、水深五十メートルから引きずり上げ、百貨店価格で命を査定したあとではあるが。


救済までの工程が長すぎる。


*


三匹で泳いだ。


大きな目。大きな腹びれ。赤い身体。


昨日まで名前すら知らなかったチカメキントキ。でも今は、これが俺だ。


横からキントキダイがやってきた。


「おかえりなさい」


「おう」


キンメダイも泳いでくる。


「…………助かりましたね」


「ああ」


俺は海上レクサスを見上げた。水面越しに教祖が手を振っている。


「達者で暮らすのですぞー!」


「次からISE◯AN行くなよ!!」


「それは無理ですぞー!」


「即答すんな!!」


まあいい。


とにかく自由だ。今度こそ、俺は魚として生きる。


針には気をつける。


コマセにも気をつける。


新宿ISE◯ANにも気をつける。


某高級百貨店は――三千円だったので、たぶん大丈夫だ。


「…………」


自分で考えて悲しくなった。


そのとき、目の前を一粒のオキアミが、ゆっくりと沈んでいった。


「…………」


美味そうだった。


いや、待て。


俺は学習した。


福音の先には針がある。


これは罠だ。もう騙されない。


オキアミがゆっくり沈んでいく。


「…………」


腹が減っている。


「…………一個だけなら」


ぱくっ。


カチッ。


「…………」


ギュイイイイイイイイン!!


「またかよおおおおおおおおお!!!」


身体が水面へ向かって引っ張られる。


海上から、聞き慣れた声がした。


「おかえりなさいませーーー!!」


「リリースした意味ねえだろおおおおお!!!」


教祖の声が返ってくる。


「ご安心なさい!!」


「何をだよ!!」


「あなたは三千円ですぞーーー!!」


「そこを安心材料にするなああああああ!!!」


――第四話 完――


【教祖と海の経典】


■ キャッチ・アンド・リリース

釣った魚を殺さず、その場で再び水の中へ逃がすことですぞ。

ちなみに私は美味しくない魚はだいたいリリースするので、生まれ変わるなら外道になりたいですな。


■ 外道

自分が狙っている本命とは違う種類の魚のことですぞ。

名前は物騒ですが、魚に罪はありませんな。


■ 新宿ISE◯AN

新宿にある伊勢丹ですぞ。

値段もクオリティも日本最高峰クラス。

見るだけなら無料ですな。


■ 某高級百貨店

新宿高島屋ですぞ。高級鮮魚売り場もありますな。

新宿にはほかにも、小田急ハルク、京王、伊勢丹など鮮魚を眺められる場所がありますぞ。

私の毎日の散歩コースですな。


■ チカメキントキ

赤い魚。本作の主人公。

市場価格は……まあ、微妙ですな。


■ キンメダイ

赤い魚。

こちらは伊豆では立派な高級魚ですぞ。


■ キントキダイ

赤い魚。

チカメキントキによく似ていますが別種ですな。


■ 海上レクサス

レクサスのクルーザーですぞ。


■ オキアミ

釣りでよく使うエサですな。


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