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食べた分は払ってください



「どこでもいい」


そう言って、俺たちはまた泳いだ。


教祖から逃げて。

海上奉仕から逃げて。

魚拓ランキングから逃げて。


深いところへ行っても、俺の名前は先に届いていた。


場所を変えても、存在しない俺の魚拓は有名になっていた。


その次は非公式グッズ。


昨日なんて、俺が否定した証としてつけられたバツ印が、俺の知らないところで公式マークとして勝手に泳ぎ始めた。


もう深いとか浅いとか、どうでもいい。


とにかく俺を知らない魚がいるところへ行きたかった。


そうして適当に泳ぎ続けて、たどり着いたのは、特に何もない海だった。


深すぎもしない。

浅すぎもしない。


岩があって、砂地があって、小さな魚が何匹か泳いでいる。


誰も俺を見ない。


「…………静かだね」


キンメダイが言った。


「ああ」


久しぶりだった。


俺の名前を呼ぶ魚もいない。

チヌ様もいない。

海上奉仕もない。


公式マークのついた貝殻も、今のところ見当たらない。


「ここなら、しばらく平和かもな」


そのときだった。


上から何かが、ぱらぱらと降ってきた。


赤い粒。


オキアミだ。


「…………福音?」


キンメダイが見上げる。


俺も上を見る。


水面に船影が見えた。


海上レクサスじゃない。

教祖の声もしない。


ただの釣り人だ。


「違うな。ただのコマセだ」


「食っていいのか?」


キントキダイが聞く。


俺は少し迷った。


教祖の福音は、散々ろくでもないものを生んだ。


チヌ様。

海上奉仕。

魚拓ランキング。


そこから逃げてきた。


でも、これは違う。


教祖はいない。

信者もいない。

誰も祈っていない。


ただの釣り人が撒いた、ただのコマセだ。


俺は一粒、よく見る。


針はない。


ぱくっ。


「……うまい」


「……うまい」


キントキダイも食った。


「今日のうまいな」


キンメダイも一粒食べる。


「…………粒、大きい」


「教祖のより、いいやつかもな」


「…………うん」


「やめろ。あいつが聞いたら傷つくぞ」


三匹で食った。


久しぶりに、何の意味もないコマセだった。


人間が撒く。

魚が食う。


それだけ。


俺はこういうのでいいんだよ。


「こんにちは」


後ろから声がした。


振り返ると、一匹のマダイがいた。


赤い体に整ったヒレ。傷ひとつなく、泳ぎ方まで妙に上品だった。


「こんにちは」


俺も返す。


マダイはにこりと笑った。


「相模湾沿岸コマセ資源適正利用及び魚類受益負担調整機構です」


「長い長い長い」


いきなり長かった。


「相模湾沿岸コマセ資源適正利用及び――」


「二回言わなくていい!」


「では、相模湾コマセ機構です」


「略せるなら最初からそれで来いよ」


キンメダイがコマセを一粒食べてから、マダイを見る。


「…………何をするところ?」


「相模湾沿岸海域におけるコマセ資源の持続的かつ公平な利用並びに魚類間における受益と負担の適正化を目的として、コマセ利用状況の把握、適正利用の推進、利用魚への周知、必要な負担の徴収及び――」


「長いって!!」


マダイは口を閉じた。


「……徴収です」


「急に怖くなったな」


マダイは何事もなかったように俺たちの前へ来た。


「それでは本日のご利用分ですが、チカメキントキさん十五粒、キンメダイさん二十一粒、キントキダイさん九粒となっております」


「待て」


俺は言った。


「本日のご利用分って何?」


「コマセです」


「いや、それは分かる」


「十五粒です」


「そこじゃない」


俺は辺りを見た。


海だった。


教祖から逃げて、福音から逃げて、魚拓から逃げて、ここまで来た。


ようやく見つけた、何の意味もないただのコマセ。


人間が撒いた。

俺たちが食った。


それだけのはずだった。


「……コマセ食うのに許可がいるの?」


「今月からです」


「今月から!?」


最悪だった。


ここまで逃げてきた先の海に、新しい制度ができていた。


キントキダイがマダイを見る。


「誰が決めたんだ?」


「相模湾沿岸におけるコマセ資源の適正利用については、以前より一部魚種から不公平との指摘がありまして」


「知らないよ」


「特に大型魚による過剰利用、回遊魚による短期大量摂取、定着魚との受益格差などが問題視され――」


「知らない知らない」


「昨年度、有識魚による検討会を設置し――」


「有識魚ってなんだよ」


「専門的知見を有する魚です」


「何の専門家だよ」


「コマセです」


「嫌な専門家だな!」


マダイは一切動じない。


「検討会での議論を踏まえ、中間取りまとめを経て、魚類から広く意見を募集した結果――」


「募集してた!?」


「はい」


「俺、一回も聞かれてないぞ!」


「意見募集は終了しております」


「どこでやってたんだよ!」


「相模湾全域に周知しました」


「どうやって!」


「回遊魚を通じて」


「またサバか!!」


少し離れたところを泳いでいたサバが、すっと向きを変えた。


逃げた。


最近こいつら、情報を運ぶくせに責任だけは絶対に運ばない。


「なお、制度開始後一定期間は周知期間として――」


「今月からって言ったよな?」


「はい」


「じゃあ今は周知期間?」


「先月終了しました」


「先月知らなかったんだけど!」


「周知は行いました」


「届いてないんだよ!」


マダイは微笑んだまま言った。


「周知を行ったことと、周知されたことは異なります」


「お役所が絶対言っちゃいけないこと言ったぞ!!」


頭が痛くなってきた。


俺が知っているコマセは、もっと単純だった。


上から飯が降ってくる。


食う。


終わり。


針がついていたら気をつける。


教祖の場合は、そこに宗教がついてきた。


それが嫌で逃げてきたのに、今度は食った粒を数えられた。


区分された。


説明された。


そして納めろと言われた。


「昔はもっと適当だったのにな……」


「…………昔?」


キンメダイが聞いた。


「人間の社会もさ。なんか、だんだん細かくなるんだよ」


領収書。

申告。

本人確認。

規約。

同意。


知らないうちに増えていく。


魚になってまで増えるとは思わなかった。


「もっとこう……どんぶり勘定でさ」


「…………どんぶり?」


「昭和だよ」


「…………ショウワ?」


「俺もほとんど知らないけど、たぶん何でも今より適当だった時代」


キントキダイが首を傾げる。


「いい時代だったのか?」


「知らん」


「知らないのに懐かしんでるのか?」


「人間はそういうことするんだよ」


マダイが俺の前に戻ってきた。


「なお、本制度では魚種、魚体、回遊性及び利用状況等を総合的に勘案した上で負担額を算定し、一定の要件を満たす場合には現物による納付、分割による納付、その他当機構が適当と認める方法による代替的な負担も――」


「長い長い長い!」


「まだ説明の途中です」


「途中なの!?」


「大切なことなので」


「もういい! 結局、俺はどうすればいいんだよ!」


マダイは少し考えた。


「簡単に申し上げますと」


「最初から簡単に言ってくれ」


マダイは優しく微笑んだ。


「食べた分は、払ってください」


「何をだよ! 俺、魚だぞ!」


「現物でも構いません」


「何を現物で払うんだよ」


「難しい場合は分割も可能です」


「だから何を!?」


「それも難しいようでしたら――」


マダイは、さっきとまったく同じ笑顔で言った。


「体で払っていただいても大丈夫ですよ」


「税の徴収でその言い方するな!!」


キンメダイが首を傾げる。


「…………体で払うって?」


「お前は知らなくていい」


「…………泳ぐの?」


「そのままのキンメくんでいてくれ」


俺はマダイを見る。


「そもそもこれ、人間が撒いたコマセだぞ?」


「はい」


「お前らの物じゃないよな?」


「はい」


「じゃあなんで相模湾コマセなんちゃら機構に払うんだよ」


「相模湾沿岸コマセ資源適正利用及び魚類受益負担調整機構です」


「そこだけ正式名称に戻すな!」


「制度上、コマセを誰が撒いたかは問題ではありません」


「問題だろ!」


「相模湾内でコマセによる受益が発生したことが重要です」


「人のコマセで受益者負担取ってる!!」


その横を、小さな魚がそっと通り過ぎた。


マダイが振り向く。


「あの」


魚が止まった。


「昨日のご利用分、申告されてませんよね?」


「…………」


魚が逃げた。


「あっ」


マダイが追いかける。


「お待ちくださーい」


「嫌だああああ!!」


「今なら自主的な修正申告として取り扱えますよー」


「何も聞こえませーん!!」


「このままですと無申告加算分が発生する可能性がありまーす」


「増えたあああああ!!」


二匹は暗い海へ消えていった。


「…………」


俺たちはその場に残された。


しばらくして、キントキダイがぽつりと言った。


「……海、変わったな」


「ああ」


遠くから、赤い魚が戻ってきた。


さっきのマダイだ。


逃げた魚の姿はない。


何事もなかったような笑顔で、また俺たちの前に止まった。


昔はよかった。


と言っても、

俺が魚になったのは最近だけど。


昨日まで無料だったコマセに、

今日、

制度ができた。


社会って、

こうやって面倒くさくなっていくのかもしれない。

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