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第151話 コマセの木



神子元を出た。


あとは北へ向かえば川奈だ。


行きと違って、寄る場所もない。迷う理由もない。


まっすぐ帰ればいい。


そのはずだった。


「…………遅い」


俺たちは止まっていた。


かなり後ろから、小さなネコザメが泳いでくる。


遅い。


とにかく遅い。


「頑張ってるっす」


「それは分かる」


小さなヒレを動かして、こっちへ向かっている。ちゃんと進んではいる。


ただ、俺たちが普通に泳ぐと、すぐに見えなくなる。


ようやく追いついた。


ネコザメが俺の横に並ぶ。


「よし。行くぞ」


泳ぎ出す。


しばらくして振り返る。


いない。


「…………」


止まる。


イトヨリも止まる。キンメも止まる。キントキダイも止まる。


また遠くから、小さなネコザメが泳いでくる。


「これ、川奈まで何日かかるんすかね」


「言うな」


進んでは待ち、進んでは待ち。


俺たちはネコザメの速度に合わせて、伊豆半島を北上した。


そしてようやく河津まで来たところで、休憩することにした。


「疲れたっすー」


「泳いだ時間より待ってた時間の方が長い気がする」


ネコザメは近くの岩陰に入ると、そのまま動かなくなった。


「お前が休むのかよ」


返事はない。


寝ているのかもしれない。


俺は岩陰を見ながら、ぽつりと言った。


「……いっそ、置いてくか」


「……責任を持って」


イトヨリが即答した。


「…………」


俺は何も言わず、ネコザメが寝ている岩陰を見た。


その時、イトヨリが水面の方を見た。


「河津っすね」


「ああ」


「桜、見たいっす」


「なんで桜なんて知ってるんだ。しかも今、秋だぞ」


「知ってるっすよ!」


イトヨリがスマホを取り出す。


「河津といったら河津桜っす。ピンクのコマセが咲く木ですよね!」


「…………」


「…………」


「なんて?」


「ピンクのコマセが咲く木っす。あの色は鮮度が良い証拠っす!」


キンメがイトヨリを見る。


「コマセが咲くの?」


「咲くっす!」


「咲かねえよ!!!」


キントキダイまで興味を示した。


「木からコマセが出るのか?」


「出ねえよ!」


「では、桜とは何だ?」


「花だよ! 木に咲く花!」


「花?」


そうか。


こいつら、桜を知らないのか。


魚だもんな。


「春になると、木にピンク色の花がたくさん咲くんだよ」


「コマセみたいに?」


「なんでコマセ基準なんだよ!」


その時、近くにいた魚がこっちを見た。


河津に住んでいる魚らしい。


「コマセが咲く木なんてないよ?」


「ほら!!!」


俺はイトヨリを見る。


「地元の魚がないって言ってるだろ!」


「じゃあ桜って何なんすか?」


「だから花だって――」


「ああ」


地元の魚が何か思い出した。


「あの食べられないコマセが桜なのか」


「違う」


「春が近くなると、川から流れてくるよ。ピンクとか白っぽいやつ」


「花びらな」


「いっぱい流れてくるけど、食べられない」


「そりゃ花びらだからな!!!」


イトヨリがスマホを見る。


「じゃあやっぱり、これっすね」


画面には満開の河津桜が映っている。


地元の魚が覗き込んだ。


「あー。これが食べられないコマセ?」


「桜!!!」


話を聞いていたのか、少し離れたところからスズキが寄ってきた。


「俺は見たことあるぜ、その木」


「お前まで入ってくるの!?」


「川を上った時にな」


スズキがイトヨリのスマホを見る。


「ああ。これだ。間違いない」


急に証人が現れた。


しかも地上を見たことがある。


嫌な予感しかしない。


スズキは画面を眺めた。


「確かに言われてみれば、地上にはたくさんのコマセが生えてるな」


「生えてねえよ」


「木いっぱいについてるじゃねえか」


「花だよ!!!」


「まだ食べ頃じゃないってことか?」


「食べ頃は永遠に来ない!」


スズキが首を傾げた。


「でも春になると、あれが落ちて川から流れてくるんだろ?」


「落ちるよ」


「その時は?」


「花びらだよ」


地元の魚が答えた。


「食べられないよ」


「なるほど」


スズキが頷いた。


嫌な納得の仕方だった。


「自然に落ちたやつは、まだ食えないのか」


「まだってなんだよ」


「じゃあ人間が収穫するんだな」


「しねえよ!!!」


イトヨリが顔を上げた。


「ああ!」


何かに気づいた。


気づかなくていい。


「それで分かったっす!」


「何が?」


「木から自然に落ちたやつは、まだ食べられないコマセなんすよ」


「違う」


「人間が食べ頃になったやつを収穫するんす」


「違う」


「それを釣り場まで持ってきて――」


「違うって」


イトヨリが両手を広げた。


「海に撒くっす!」


「違う!!!」


スズキが感心したように頷いた。


「なるほどな」


「納得するな!」


「だから俺たちが普段見るコマセは食えるのか」


「それは最初からコマセだからだよ!!!」


キントキダイも考え込んでいる。


「筋は通っているな」


「どこが!?」


「自然に落ちたものは食べられない。しかし、人間が収穫し、釣り場へ持ってきたものは食べられる」


「別のものだからな!」


「同じものではないのか?」


「違うよ!」


イトヨリがスマホを俺に見せた。


満開の河津桜。


「これ、コマセじゃないんすか?」


「桜!」


「じゃあ人間が釣りの時に撒いてるのは?」


「コマセ!」


「元は?」


「オキアミとか!」


「どこに生えてるんすか?」


「生えてねえよ!!!」


「じゃあ、こっちの方がコマセっぽいじゃないっすか」


「見た目だけで決めるな!!!」


まずい。


スズキという地上の目撃者。


地元魚という、春になると花びらが流れてくることを知っている証人。


そして、人間はどこからか大量のコマセを持ってきて海へ撒くという、魚たち全員が知っている事実。


魚側では、完全に話が繋がってしまった。


スズキが整理する。


「木で育てる」


「違う」


「自然に落ちたものは、まだ食えない」


「違う」


「人間が食べ頃を収穫する」


「違う」


「釣り場へ持ってくる」


「違う」


「海へ撒く」


「違う!」


「俺たちが食う」


「そこだけ本物のコマセの話だよ!!!」


キンメが小さく頷いた。


「…………コマセの木」


「やめろ!!!」


イトヨリがスマホに何か打ち込んでいる。


「何してんの?」


「メモっす」


「見せろ」


「河津桜。春にピンク色のコマセが咲く。自然に落ちたものはまだ食べられない。人間が収穫して海に撒くと食べられる」


「全部消せ!!!」


「なんでっすか!? 今みんなで解明したじゃないっすか!」


「何ひとつ解明してねえよ!!!」


地元の魚が感心している。


「そうだったのか。毎年流れてくるのに、なんで食べられないのか不思議だったんだよ」


「今日まで正しかったんだよ! そのままでいろ!」


「まだ収穫前だったんだな」


「戻ってこい!!!」


もう遅かった。


河津の魚たちは話し始めている。


桜という木がある。


春になると、ピンク色のコマセが咲く。


自然に落ちたものは、まだ食べられない。


人間が食べ頃になったものを収穫し、釣り場へ持ってきて海に撒く。


そこで初めて、魚が食べられるコマセになる。


「なんでこんな綺麗に間違ったんだよ……」


スズキが頷いた。


「勉強になったな」


「お前の証言のせいだよ!!!」


こうして魚の世界では。


桜は、コマセの木になった。


俺は訂正した。


何度も訂正した。


誰も信じなかった。


「チカメさん、そろそろ行くっすよ」


「誰のせいだと思ってんだよ……」


岩陰を見ると、ネコザメが起きていた。


俺たちが動き出すと、ネコザメもゆっくりついてくる。


遅い。


やっぱり遅い。


「…………置いてくか」


「責任を持って」


「分かってるよ!!!」


俺たちはネコザメの速度に合わせて、再び北へ向かった。


河津には、まだ桜は咲いていない。


それだけが救いだった。


もし咲いていたら。


こいつらは本当に収穫しようとしていたかもしれない。


「春になったら見に来たいっすね!」


「来なくていい!!!」


「収穫時期も確認したいっす!」


「だから収穫しねえんだよ!!!」


川奈への道は、まだ少し続く。

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