第141話 楽園を出た魚たち
ヒリゾ浜が、少しずつ遠くなっていく。
透明な海も、魚の群れも、岩場も、振り返ればまだ見えていた。
「チカメさん」
「ダメ」
「まだ何も言ってないっす」
「戻りたいんだろ」
「一個だけなら」
「ダメ」
「ちゃんと最後の一個でやめるっすよ……お願いします」
「ダメだ」
イトヨリの身体を押して前へ進ませる。
少し先ではキンメが何度も後ろを見ていた。
「キンメ」
「…………見てるだけ」
「見るな」
「…………岩」
「岩も忘れろ」
「…………いい岩だった」
「どこにでもある岩だよ!!!」
キントキダイだけは、さっきから黙って泳いでいる。
こいつは意外と大丈夫なのかもしれない。
「キントキダイ、お前は平気そうだな」
「当然だ。私はあの程度の餌に執着など――」
「戻るな!!!」
身体だけヒリゾ浜へ向いていた。
「かっちゃんの船を確認しようとしただけだ」
「何をだよ!!!」
三匹ともダメだった。
しばらく泳いだ。
さっきまであれほど騒がしかった魚の群れが、徐々に少なくなっていく。
「…………チカメさん」
「今度はなんだ?」
「なんか、つまんないっす」
「急に現実に戻るな」
「さっきまで何見ても楽しかったっす」
イトヨリが海底を見る。
「岩っす」
「岩だな」
小魚が横を通る。
「魚っす」
「魚だな」
しばらく待った。
「…………」
「…………」
何も起きない。
イトヨリが小さくため息をついた。
「ただの魚っすね」
「当たり前だな」
少しずつ正気に戻ってきたらしい。
キンメも、さっきから岩を見ても止まらなくなった。
「キンメ。岩あるぞ」
「…………うん」
「好きじゃないの?」
「…………別に」
「治ってきたな」
「…………さっきの岩は違う」
「まだ残ってる!!」
さらに沖へ進む。
陸沿いの穏やかな海が、少しずつ変わってきた。
海水の透明度は高い。
だが、流れがある。
身体を止めても、その場にはいられない。
小さな魚たちが好き勝手に泳いでいたヒリゾ浜とは違う。
「チカメさん」
「ん?」
「流されてるっす」
「泳げ」
「泳いでるっす!」
「もっと泳げ」
「ずっと泳いでるっす!!」
イトヨリが必死に尾を振る。
俺も他人事ではない。
油断すると、身体ごと横へ持っていかれる。
キントキダイも少し遅れ始めた。
「これは……なかなかだな」
「お前、岩穴で休みすぎたんじゃないの?」
「体力を温存していたと言ってくれ」
「おかしくなってただけだろ」
「おかしくなってはいない」
「岩穴で何時間もじっとしてた魚が言うな」
キンメだけは黙って泳いでいる。
「キンメ、大丈夫?」
「…………大丈夫」
「疲れたら言えよ」
「…………うん」
しばらくすると、キンメが俺の横へ来た。
「…………チカメ」
「疲れた?」
「…………お腹すいた」
「そっちかよ!!」
正常だ。
こいつは完全に戻った。
「なんか食べるっすか?」
イトヨリも寄ってくる。
「さっき散々食っただろ」
「でも泳いだっす」
「まだ大して泳いでねえよ」
「燃費悪いっす」
「お前の身体どうなってんだよ」
「何か落ちてこないっすかね」
イトヨリが水面を見上げる。
俺も見た。
何も落ちてこない。
「…………」
「…………」
「チカメさん」
「なんだ」
「福音、ないっすね」
「海って本来そういうものだからな」
ヒリゾ浜では、待っていれば食べ物が降ってきた。
石廊崎でも食べ物が降ってきた。
川奈でも教祖が来れば福音が降ってくる。
考えてみれば、俺たちは最近ずいぶん甘やかされている。
「自分で探せ」
「急に野生を求められたっす」
「お前、野生動物だろ!!!」
イトヨリは不満そうに小さな甲殻類を探し始めた。
陸から離れるほど、景色は単純になっていった。
岩場が遠ざかる。
海底も深くなり、見えなくなっていく。
どこを向いても青い。
上も青い。
横も青い。
下はもっと青い。
さっきまで何百匹もの魚に囲まれていたせいか、妙に静かに感じる。
「…………魚いないっすね」
イトヨリが俺の近くへ寄ってきた。
「いるだろ。どっかには」
「どっかってどこっすか?」
「知らん」
「チカメさんが先頭っすよね?」
「そうだよ」
「神子元どっちっすか?」
「…………」
「チカメさん?」
「南東」
「なんで今ちょっと間があったんすか?」
「南東だよ!!!」
危ない。
ヒリゾ浜に着いた理由を思い出すところだった。
俺は神子元へ向かっている。
最初からだ。
ヒリゾ浜はサプライズだ。
そういうことになっている。
流れはさらに強くなった。
その流れに逆らうのではなく、少し斜めに泳ぐ。
「チカメさん!」
「なんだ!?」
「海がもはや川っす!!」
「海だよ!!」
「でも川っす!」
「だから海だよ!!!」
さらに流れが速くなる。
泳いでいる。
間違いなく泳いでいる。
なのに景色が変わらない。
「チカメさん」
「なんだ」
「進んでないっす」
「言うな」
「さっきからあの岩、ずっと横にあるっす」
「見るな」
「現実から目をそらすんすか!?」
俺たちは必死に尾を振った。
進まない。
イトヨリが流される。
「うわっ!」
「イトヨリ!」
追いかける。
俺も流される。
キントキダイも流される。
キンメも流される。
四匹まとめて同じ方向へ運ばれていく。
「チカメさん!! これ神子元行けるんすか!?」
「行くんだよ!!!」
「どうやって!?」
「泳いで!!!」
「だから泳いでるっすーーーーー!!!」
そのときだった。
俺たちの横を、青い影が通り過ぎた。
速い。
一瞬で前へ消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
数秒後。
その影が戻ってきた。
「何をしている」
「…………」
見覚えのある魚だった。
流線型の身体。
無駄のない泳ぎ。
そして、この海で最も規律を持つ魚。
「風紀委員!?」
ホンガツオだった。
「風紀委員長だ!!」
「そこ大事なの!?」
「当然だ!」
「なんでここにいるんだよ!?」
「八丈島からの帰りだ」
「八丈島!?」
イトヨリが目を丸くする。
「帰り道でここ通るんすか!?」
「通るが」
「お前の通学路どうなってんだよ!!!」
「通学ではない。神津島から半島寄りに来た方が早いだろ」
そこじゃない。
「式根島経由か、新島経由の方が早いと思っているのか?」
「なんかすいませんでした」
電車の乗り換えのような話になるとは思わなかった。
ホンガツオは俺たちを一度見てから、周囲の流れを見る。
「それで。何をしている」
「神子元に行きたいんだよ!」
「行けばいい」
「行けないんだよ!!!」
「泳げ」
「泳いでるんだよ!!!!」
ホンガツオが黙った。
俺たちを見る。
流れを見る。
もう一度俺たちを見る。
「遅いな」
「知ってるよ!!!」
こいつに言われると腹が立つ。
「潮に逆らうな」
ホンガツオが前へ向いた。
「え?」
「正面から泳いでも疲れるだけだ。流れに乗れ」
そう言うと、ホンガツオは少し斜めに向きを変えた。
流れに逆らうのではなく、流れの中へ入っていく。
身体が一気に運ばれた。
「ついてこい」
「速えよ!!!」
俺たちも慌てて追う。
「イトヨリ! そっちじゃない!」
「どっちっすか!?」
「風紀委員長についてけ!」
流れに乗る。
さっきまで敵だった海が、一気に俺たちを運び始めた。
速い。
泳いでいるというより、海そのものに押されている。
「うわああああああ!!!」
イトヨリが楽しそうに流されていく。
「遊ぶな!!!」
「何もしてないっすーーーーー!!!」
キントキダイが必死についてくる。
「これは……速すぎないか!?」
「今さら怖がるな!」
「怖がってはいない!」
「顔が怖がってるよ!!!」
キンメだけは、いつも通り俺の横にいた。
「キンメ、大丈夫か!?」
「…………楽しい」
「ヒリゾ浜思い出すからその感想やめろ!!!」
どのくらい流されたのだろう。
ホンガツオの後を追っているうちに、陸はさらに遠くなった。
「…………チカメ」
「ん?」
キンメが前を見ていた。
「…………あれ」
遠くに何かが見える。
海の上に突き出した岩。
その上に、白い建物が小さく見えた。
「…………」
俺は止まった。
知っている。
人間だった頃、何度も名前を見た。
釣り人が行く場所。
ダイバーが行く場所。
潮が速く、魚が集まる場所。
そして。
今回、俺たちが目指してきた場所。
「神子元だ」
イトヨリが前へ出た。
「ついたっすか!?」
「ああ」
「やっとっすーーーーー!!!」
「まだ泳ぐぞ」
「見えてるから着いたっす!」
キントキダイも前を見る。
「ずいぶん沖にあるな」
「島だからな」
「…………岩に見える」
キンメが言った。
「島だよ」
「…………いい岩?」
「その評価軸まだ残ってんの!?」
ようやく着いた。
川奈を出て。
城ヶ崎を越えて。
熱川へ行って。
稲取へ行って。
白浜へ行って。
台風で下田に逃げ込んで。
弓ヶ浜へ行って。
石廊崎へ行って。
道を間違えてヒリゾ浜に囚われて。
ようやく。
神子元。
「長かった……」
思わず声が出た。
「チカメさん?」
「なんでもない」
本当に長かった。
小サバを探しに来ただけなのに。
ホンガツオがこちらを振り返った。
「小サバ?」
「え?」
「今、小サバと言ったな」
「ああ。そうだよ。俺たち、小サバを探しにここまで来たんだ」
「なぜだ」
「川奈からいなくなったんだよ。じいさんに頼まれて、連れ戻しに来た」
ホンガツオは少し考えた。
「分かった」
「何が?」
「探してこよう」
「え?」
「お前たちの速度で探していたら日が暮れる」
「なんか腹立つな!!!」
「事実だ」
言い返せない。
ホンガツオは神子元の方を見る。
「この周辺を一周してくる」
「一周!?」
「いたら戻る」
「ちょっと待て! 俺たちも――」
もういなかった。
速い。
「…………行ったっすね」
「行ったな」
「…………速い」
「すごいな、あいつ」
キントキダイが咳払いをする。
「本人には言わない方がいいだろうな」
分かってる。
「チカメさん!」
イトヨリが叫んだ。
「今度はなんだよ」
「魚いるっす!」
「そりゃいるだろ」
「でかいっす!」
「何が?」
イトヨリの視線を追う。
青い海の向こう。
神子元の周りを、黒い影が動いていた。
一つ。
二つ。
三つ。
いや。
もっといる。
「…………」
キントキダイが俺の横へ来た。
「チカメ」
「うん」
「あれは魚か?」
「魚だよ」
キンメも見ている。
「…………頭、変」
「言ってやるな」
黒い影が向きを変えた。
横に大きく張り出した、奇妙な頭がはっきり見えた。
シュモクザメ。
通称、ハンマーヘッドシャーク。
一匹ではない。
その奥にもいる。
さらにその奥にもいる。
ハンマーヘッドの群れが、神子元の青い海を回っている。
ペリーの言葉を思い出した。
――ガジガジされたよ。
「…………チカメさん」
「なんだ?」
「帰るっすか?」
「ダメだよ!!!」
ここまで何話かかったと思ってるんだ。




