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第140話 黄泉戸喫

「チカメさん!」


「なんだ?」


「ヒリゾ浜、調べたらすごいっす!」


イトヨリは、さっきからスマホを見ながら泳いでいる。


「日本でもトップクラスの透明度って書いてあるっす!」


「実際きれいだからな」


「魚もめちゃくちゃ多いっす!」


「いるな」


「船でしか来られないっす!」


「そうだよ」


夏のヒリゾ浜は、中木から渡し船で来る。道路はないし、歩いて来られる場所でもない。


人間だった頃、俺も船に乗ってここへ来た。


今は泳いできた。


魚になると交通費がかからない。


「チカメさん!」


「今度はなんだ?」


「今日も船出てるっす!」


「分かるのか?」


「運航情報出てるっす!」


イトヨリが画面を見せてくる。


Instagramだった。


「かっちゃん?」


「この人が出してるっす!」


今日の運航や海況、ヒリゾ浜の様子。画面を下へ送っても、またヒリゾ浜が出てくる。


さらに送る。


またヒリゾ浜。


イトヨリはしばらく画面を眺めた。


「渡し船が出るかもこの人を見るっす」


「そうだな」


「海がどうなってるかもこの人を見るっす」


「そうだな」


「…………分かったっす」


「何が?」


イトヨリが顔を上げた。


「この人がヒリゾ浜本体っすよ」


「人間だよ!!!」


ヒリゾ浜にも本体がいたらしい。


イトヨリはスマホをしまうと、そのまま魚の群れへ向かっていった。


「どこ見ても魚いるっす!」


「お前も魚だけどな」


本当に多い。


黄色と黒の縞模様をしたカゴカキダイが岩場を横切り、その向こうをタカベの群れが一斉に走っていく。チョウチョウウオが岩の間を抜け、ツバメウオがゆっくり泳いでいた。


イソギンチャクの近くにはクマノミまでいる。


岩の穴からはウツボが顔を出していた。


上にも魚。


下にも魚。


岩の間にもいる。


魚を見ようとすると、その奥にも魚がいる。


「あっちにもいるっす!」


「だからお前もだよ!!」


イトヨリが小魚の群れへ突っ込むと、一斉に散った。散った先にも別の群れがいて、それにつられて大型の魚も動く。


イトヨリは笑いながら戻ってきた。


「何してんだよ」


「楽しいっす!」


「そうかよ」


少し離れた岩場では、キンメが海底を覗いていた。


「…………チカメ」


「ん?」


「ここ、下まで見える」


俺も隣へ行って覗き込む。


俺たちが泳いでいる影まで、海底に落ちていた。


その影の上を、何十匹もの魚が通り過ぎていく。


石廊崎もきれいだった。白浜も弓ヶ浜もきれいだった。でも、ここは少し違う。


水がないみたいだった。


「気に入った?」


「…………うん」


キンメが魚の群れの中へ入っていった。


珍しい。


まあ、連れてきてよかった。道を間違えただけだけど。


その時、水面近くにいた魚たちが一斉に動いた。


タカベが向きを変え、カゴカキダイが浮き上がる。チョウチョウウオまで岩場を離れた。


「ん?」


上に人影が光を遮るように見える。小さな粒が落ちてくる。


「福音っすか!?」


イトヨリが飛び出しかけて、途中で止まった。


「…………違うっすね」


「違うな」


アミエビでもオキアミでもない。


小さなペレット状の餌だった。


「でも食べ物っす!」


「結局行くのかよ!!」


イトヨリが群れへ突っ込んだ。


一粒の餌に何匹もの魚が集まる。


タカベが奪う。


カゴカキダイも食う。


どこから来たのかオヤビッチャまで混ざる。


イトヨリも食う。


「うまいっす!!!」


「さっき石廊崎で食ったばっかりだろ!」


「チカメさんも食べるっす!」


「俺はいいよ。腹いっぱいだし」


そう言った直後、一粒が俺の目の前を落ちていった。


食った。


「食うんじゃないっすか!」


「目の前に来たからだよ!!」


もう一粒落ちてきたので、それも食った。


普通にうまい。


そういえば、人間だった頃に見た覚えがある。中木では、観光客が魚を見るための餌を売っていた。


キントキダイも一粒食べる。


「…………悪くない」


「お前まで食うの?」


「一粒だけだ」


そう言いながら、もう一粒食った。


「二粒目だぞ」


「今のは一粒目とは別だ」


「全部そうだよ!!!」


キンメも一粒くわえている。


「…………おいしい」


「お前、さっき朝の福音も食いたそうだったよな」


「…………これは別腹」


「どこで覚えたんだよ!!」


しばらく四匹で餌を食べた。


いや、四匹だけじゃない。


上ではタカベが群れになって餌を追い、チョウチョウウオやオヤビッチャがその間を抜けていく。カゴカキダイも集まり、さっきまで悠々と泳いでいたツバメウオまで近くへ来ていた。


魚の中に魚がいる。


その魚の向こうにも魚がいる。


石廊崎で腹いっぱいになったはずなのに、なぜか俺たちも食べ続けた。


もう一個。


これで最後。


あと一個だけ。


「チカメさん」


「ん?」


イトヨリが水面を見ていた。


「光が揺れてるっす」


「そりゃ水面だからな」


当たり前のことを言うな。


そう思いながら俺も見上げた。


水面から差し込む光が、ゆっくり形を変えている。


その光の中を、タカベの群れが横切った。


銀色の身体が一斉に光る。


ゆらゆら。


キラキラ。


「…………」


確かにきれいだ。


「チカメさん?」


「ん?」


「何見てるんすか?」


「光」


「揺れてるっすね」


「うん」


二匹で見ていると、キントキダイも寄ってきた。


「何を見ている?」


「光」


「そうか」


キントキダイも見上げた。


しばらく三匹で見た。


「きれいっすね」


「きれいだな」


「ああ」


いつの間にかキンメも隣にいた。


「…………何してるの?」


「光見てる」


「…………そう」


四匹で見た。


ゆらゆら。


その間を、魚たちが次々と通り過ぎていく。


「…………ふふ」


キンメが笑った。


「なんだよ」


「…………揺れてる」


「揺れてるな」


なんだか俺も笑った。


何がおかしいのか分からない。


でも、なんか面白かった。


目の前をチョウチョウウオが二匹通った。


「あっ」


イトヨリがそっちを見る。


「魚っす」


「魚だな」


その後ろからカゴカキダイが来た。


また笑った。


ツバメウオがゆっくり横切った。


また笑った。


魚が来るたびに笑った。


魚が魚を見て笑っている。


まあいいか。


「おーい!」


声がした。


振り向くと、オヤビッチャが何匹か泳いできた。


「新入りか!?」


「新入り?」


「ハッピーかい!?」


「…………ハッピー?」


先頭のオヤビッチャがヒレを広げた。


「イェーイ!」


後ろの魚たちも続く。


「イェーイ!」


近くにいたカゴカキダイまで混ざった。


「イェーイ!」


イトヨリもヒレを上げた。


「イェーイっす!」


「イェーイ!」


俺もやった。


キントキダイもやった。


「イェーイ」


キンメまで小さくヒレを上げた。


「…………イェーイ」


「ハッピーだな!」


「ハッピーっす!」


「イェーイ!」


周りの魚まで集まってくる。


何が始まったのか分からない。


でもハッピーだった。


オヤビッチャたちは魚の群れに混ざって去っていった。


俺たちも笑いながら見送った。


少し泳ぐと、キンメが岩の前で止まった。


「…………チカメ」


「どうした?」


「…………この岩、好き」


俺も見た。


丸くもない。変わった色でもない。本当にただの岩だった。


その横をスズメダイが泳いでいる。


岩の穴からウツボが顔を出していた。


「いい岩だな」


「…………うん」


イトヨリも寄ってきた。


「いい岩っすね」


「だろ?」


キントキダイは岩の横へ収まった。


「ここは落ち着くな」


「そうだな」


四匹で岩を見た。


どのくらいいたのかは分からない。


また餌が降ってきた。


一個だけ食べた。


魚たちも集まってきた。


水面の光が揺れていた。


タカベが光った。


魚を見て笑った。


魚達が遠くで叫んでいた。


「イェーイ!」


「イェーイ!」


あちこちから声が返った。


俺も返した気がする。


また岩へ戻った。


「…………この岩、好き」


「いい岩だよな」


それから何をしていたのか、よく覚えていない。


光を見た。


魚を見て笑った。


餌を食べた。


周りには、ずっと魚がいた。



「…………眠いな」


急に身体が重くなってきた。


「俺、ちょっと寝るわ」


「おやすみっすー」


「ああ」


「…………おやすみ」


ちょうどいい岩陰を見つけて横になる。


水面の光が揺れていた。


その中を、たくさんの魚が泳いでいる。


遠くから声が聞こえる。


「ハッピーかーい!」


「イェーイ!」


楽しそうだ。


ここはいい。


水はきれいで、食べ物は勝手に降ってくる。


どこを見ても魚がいる。


人間も俺たちを見て喜んでいる。


川奈も神子元も、今は別にどうでもいい。


ずっとここでも。


まあ、いいか。


俺は魚たちの声を聞きながら、そのまま目を閉じた。


◇


「…………ん」


目を開けた。


よく寝た。


岩陰から出ると、水面から差し込む光が目に入った。


きれいだ。


その中をタカベの群れが通り過ぎる。


しばらく眺めた。


やっぱり、きれいだ。


でも。


「…………何がそんなに面白かったんだ?」


笑うほどのものではない。


頭の奥にはまだふわっとした気持ちよさが残っている。


それでも、寝る前よりはずっと頭が動いた。


「…………チカメ」


キンメがいた。


「おう」


「…………この岩、好き」


「まだ見てたの!?」


一気に目が覚めた。


「お前、俺が寝る前からそれ見てただろ!!」


「…………うん」


「何時間見てんだよ!!!」


少し離れたところにはイトヨリがいた。


「イトヨリ!」


「…………チカメさん」


「何してんの?」


「光が揺れてるっす」


「知ってるよ!!!」


キントキダイは同じ岩の隙間に収まっていた。


「お前もかよ!」


「ここは落ち着く」


「まだそこにいたの!?」


三匹とも、俺が寝る前から何も変わっていない。


そして。


三匹だけじゃなかった。


タカベの群れが、同じ場所をぐるぐる回っている。


カゴカキダイが何匹も集まって、何もない水面を眺めている。


チョウチョウウオはゆっくり岩の周りを回り、ツバメウオは流れに身を任せたまま、幸せそうに漂っていた。


ウツボまで穴から半分身体を出して、ぼんやりしている。


クマノミはイソギンチャクから出たり入ったりしていた。


出る。


入る。


出る。


入る。


ずっとやっている。


「…………何してんだ、こいつら」


「ハッピーかーい!」


遠くから声がした。


「イェーイ!」


あちこちから返事が返る。


「ちょっと、そこの魚!」


「ん?」


知らない魚が、岩陰から俺を呼んでいた。


「こっち! 早く!」


「俺?」


「そう! あなた!」


近づくと、その魚は周囲を気にしながら小声になった。


「あなた、正気に戻りかけてるでしょ」


「…………は?」


「ここの餌、もう食べちゃダメ」


「なんで?」


魚は水面を見上げた。


ちょうど餌が落ちてきた。


タカベが一斉に向きを変える。


カゴカキダイも集まる。


オヤビッチャが飛び込む。


さっきまでぼんやりしていた魚たちが、幸せそうに餌へ群がっていく。


「みんなヒリゾ浜に捕らえられてるの」


「捕らえられてる?」


「ここはきれい。水も澄んでる。食べ物もある。人間とも上手くやってる。まさに楽園よ」


「いいところじゃん」


「そう。いいところなの」


魚は真顔だった。


「だから出られないの」


「…………」


「ここの餌を食べて、この暮らしに慣れると、もう外へ行こうと思わなくなる」


俺は周りを見る。


魚。


魚。


魚。


どこを見ても魚がいる。


そして、みんな幸せそうだった。


寝る前の俺も、あの中にいた。


「でも、お前は平気なの?」


「私?」


「ここにいるんだろ?」


「平気よ」


「なんで?」


魚は普通の顔で答えた。


「私、カニしか食べないから」


「食性!!!!」


急に神秘性が消えた。


「うへへ……」


今度は上の方から声がした。


「…………なんだ?」


水面近く。


キビナゴの群れが白い粉を吸い込みまくっている。


粉は水の中にふわふわと広がり、キビナゴたちは夢中でそれをついばんでいた。


「うへへ……」


一匹が白い粉へ突っ込む。


顔を上げた。


口の周りが真っ白だった。


「うへへへ……」


別の一匹も食べる。


「…………」


なんだこれ。


一匹のキビナゴが俺を見る。


「…………いる?」


「…………」


白い粉。


虚ろな目。


真っ白な口。


「それ釣りの配合餌だーーーーー!!!」


「うへへ……」


「やめろ!! 絵面が完全にアウトなんだよ!!!」


さっきまで、俺もあっち側にいた。


まだ完全に抜けたわけじゃない。


水面の光は今見てもきれいだし、あの岩も少しだけいい岩に見える。


でも、寝ている間は何も食べていなかった。


こいつらは寝ていない。


「お前ら、ずっと餌食ってた?」


イトヨリがこっちを見る。


「一個ずつっす」


「その一個を何回食ったんだよ!!」


「分かんないっす」


キントキダイも顔を出す。


「私はそれほど食べていない」


「お前のそれほどは信用しない」


キンメはまだ水面から落ちてくる一粒を目で追っていた。


「…………一個」


「食うな!!」


俺はキンメの前に出た。


「三匹とも、もう食うな!」


「なんでっすか?」


「いいから食うな!!」


「一個だけっす」


「その一個をさっきから何十回食ってんだよ!!!」


キントキダイも寄ってきた。


「私は別に欲しくは――」


パクッ。


「食ってんじゃねえか!!!」


キンメも別の一粒を見ている。


「…………一個だけ」


「お前まで一個だけ制度を導入するな!!!」


「神子元!!!」


三匹が俺を見る。


「俺たち神子元行くんだよ!! 小サバ探しに来たんだろ!!!」


イトヨリが止まった。


「…………あ」


キントキダイも顔を上げる。


「そうだった」


キンメも俺を見る。


「…………忘れてた」


「全員忘れてんじゃねえか!!!」


思い出しただけだ。


顔はまだ幸せそうだった。


「行くぞ!! 今すぐ!!」


「行くっすかぁ?」


「ああ」


「…………うん」


俺たちは魚の群れを抜けて、岩場を離れた。


三匹とも神子元へ行くことは分かっている。


なのに、後ろを何度も見ている。


俺だって少し見たい。


あの岩。


ちょっとだけ、もう一回見たい。


ダメだ。


前を向け。


ポチャン。


「…………」


三匹が同時に振り返った。


俺もちょっと振り返った。


「見るな!!!」


自分にも言った。


イトヨリの身体が戻ろうとする。


「一個だけっす!」


「ダメだ!!!」


キントキダイも水面を見ている。


「最後に一粒だけなら――」


「お前さっき欲しくないって言ったよな!?」


キンメまで止まった。


「…………チカメ」


「ダメ」


「…………まだ何も言ってない」


「顔に一個だけって書いてある!!!」


俺は三匹を前へ追い立てた。


「行くぞ!! 前見ろ!! 餌見るな!!」


「チカメさん、一個だけ!」


「ダメ!!」


「…………一個」


「ダメ!!!」


「私は別に――」


「お前が一番信用できねえよ!!!」


少しずつ、ヒリゾ浜が遠くなっていく。


後ろでは、タカベが銀色の群れを作っていた。


カゴカキダイとチョウチョウウオがその間を泳ぎ、ツバメウオがゆっくり漂っている。


オヤビッチャたちはまだ楽しそうだった。


「ハッピーかーい!」


「イェーイ!」


水面近くでは、キビナゴが白い配合餌を食べている。


「うへへ……」


その向こうでは、たくさんの魚が人間から撒かれた餌へ集まっていた。


ヒリゾ浜への渡し船が海上を走っている。


みんな幸せそうだった。


きれいな海。


食べ物には困らない。


人間にも大切にされる。


確かに、楽園なのかもしれない。


でも。


幸せに慣れると、幸せだとは感じなくなる。


楽に慣れると、それが当たり前になる。


魚も人間も。


案外、同じなのかもしれない。

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