第139話 朝と夕だけ
弓ヶ浜を離れて、さらに南へ進む。
砂地は少しずつ減っていった。
代わりに増えてきたのは、岩。
その岩もだんだん大きくなり、気づけば海からそのまま立ち上がったような崖が続いている。
「チカメさん!」
「なんだ?」
「首痛いっす!」
「魚に首ねえだろ」
イトヨリは、それでも真上を見続けている。
俺もつられて見上げた。
高い。
海の中から見ると、思っていたよりずっと高い。
「…………すごい」
キンメも見上げていた。
「石廊崎だな」
人間だった頃にも知っていた。
伊豆半島の南端。
灯台があって、断崖があって。
観光地として何度も名前を見た場所だ。
でも。
魚になって下から見る石廊崎は、ほとんど壁だった。
「チカメさん! あそこになんかあるっす!」
「神社だよ」
「神社!?」
「石室神社だ」
崖の途中。
岩に食い込むように建物がある。
「なんであんなところに作ったんすか!?」
「俺に聞くなよ」
「参拝するだけで修行っすよ!」
「人間は上から来るんだよ!!!」
海から参拝しようとするからおかしいのだ。
キントキダイも建物を見上げた。
「あれは落ちてこないのか?」
「神社が?」
「ああ」
「縁起でもねえこと言うなよ!!」
そのまま崖沿いを進む。
石廊崎の海は賑やかだった。
岩の周りをメジナが泳いでいる。
その向こうにはイスズミ。
アイゴもいる。
少し深いところにはイシダイまでいた。
「うわー! 磯物めちゃくちゃいるっすね!」
「すごいな……」
川奈にもいる魚ばかりだ。
珍しいわけじゃない。
それでも。
なんというか。
「…………ここのイシダイ、堂々としてるな」
「そうっすね!」
大きなイシダイが俺たちの横を悠然と通り過ぎていく。
こちらを見ても逃げない。
威嚇もしない。
ただ普通に、自分の海を泳いでいる。
「品がある」
「あー、川奈の石鯛やばいっすもんね」
そう、一言で言えばチンピラ。
同じ魚とは思えない。
川奈の連中なんて、ウニを勝手に食って借金を背負い。
返済のために岩を運んでいる。
強制労働者達だ。
ここのイシダイは。
ただ磯の王者として生きている。
「環境って大事っすね」
「やめろ!! 川奈が更生施設みたいになるだろ!!」
その時。
岩陰から、大きな魚が出てきた。
でかい。
分厚い身体。
黒っぽい模様。
そして、白い口。
「おお……クチジロだ」
そいつがこちらを見た。
「私を知っているのか?」
「有名だからな。釣り人なら知ってる」
大きく育ったイシガキダイ。
その中でも口の周りが白くなった大型魚。
実際に海の中で見ると迫力がある。
「旅の魚か?」
「ああ。川奈から来た」
「川奈?」
クチジロが少し考えた。
「知らんな」
「でしょうね!!!」
イトヨリが前へ出た。
「最近は福音がいっぱい降るところっす!」
「福音?」
「オキアミっす!」
「最初からオキアミって言えよ!!」
クチジロは納得したようだった。
「なるほど。餌が降るのか」
「そうっす! すごいっすよ!」
「ここにも降るぞ」
「えっ!?」
イトヨリの目が変わった。
「福音あるんすか!?」
「ある」
「毎日っすか!?」
「毎日というか人間次第だ」
「そこは川奈と同じっすね!」
クチジロが崖の上を見た。
「朝と夕だけだ」
「毎日どころではなく朝と夕?」
「ああ。朝まずめと夕まずめになると降ってくる」
「釣り人が増えるからか?」
「違う」
クチジロが、さっきの神社を見上げた。
「あそこからだ」
「…………」
俺も見上げた。
石室神社。
「神社!?」
イトヨリも見上げる。
「神社から福音が降るんすか!?」
「そうだ」
「なんで!?」
「知らん」
「お前も知らねえのかよ!!!」
クチジロは気にしていない。
「昔からそうだ」
「雑な伝承だな!!」
だが。
周りを見ると、さっきより魚が増えている。
岩陰からメジナが出てきた。
イスズミも集まってくる。
アイゴもいる。
イシダイまで、いつの間にか神社の下に寄っていた。
「みんな集まってきてるっす!」
「夕まずめだからな」
「みんな知ってるんすか!?」
「知らない魚はいない」
地元では常識らしい。
「もうすぐだ」
クチジロが言った。
イトヨリが上を見た。
キンメも見た。
キントキダイも見た。
俺も見た。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
何も落ちてこない。
「まだっすか?」
「まだだ」
「あと何分くらいっすか?」
「知らん」
「雑っすね!」
その時。
「おうお様〜おうお様〜神の餌を召し上がりたもう〜」
ポチャン。
何かが海面に落ちた。
「来たぞ」
クチジロの目が変わった。
続いて。
ポチャン。
ポチャン。
神社の方から、小さなものが次々と海へ落ちてくる。
「ほんとに神社から撒いてるうううう!!!」
「あっ!! 福音っすーーーーー!!!」
イトヨリが飛び出した。
だが。
イトヨリが食べるより先に、イスズミが横からかっさらった。
「ああああああ!!!」
さらに降ってくる。
今度はメジナが突っ込んだ。
アイゴも動いた。
「急に始まったっす!!!」
さっきまで岩の周りをのんびり泳いでいた魚たちが、一斉に動き始める。
それだけじゃない。
岩の隙間から。
根の向こうから。
どこにいたのか、さらに魚が集まってきた。
「増えてないっすか!?」
「夕まずめだからな」
完全に地元の祭りだった。
いや。
神社から撒いている。
投げ餅に近い。
「おうお様〜」という声だけが ひたすら掛け声のよう続き魚が乱舞する。
「…………福音」
キンメも行った。
「お前も行くのかよ!」
キントキダイまで動く。
「夕食だな」
「お前、後方警戒は!?」
「食後にする」
「職務放棄すんな!!!」
俺も一粒いただいた。
うまい。
旅先で食う福音はうまい。
ふと見ると。
クチジロだけが動いていなかった。
次々と餌が落ちてくるのに、岩の横でじっとしている。
「お前は食わないのか?」
「私の福音ではない」
「福音に対象魚あんのかよ」
クチジロは動かない。
メジナが走る。
イスズミが走る。
アイゴが走る。
イトヨリが走る。
それでも動かない。
「何待ってんだ?」
「そのうち分かる」
しばらくすると。
ボトッ。
さっきまでとは明らかに違うものが、神社の方から落ちてきた。
その瞬間。
クチジロが消えた。
「速っ!!!」
さっきまでの威厳はどこへ行った。
一直線に突っ込んでいく。
バキッ。
「ウニだ」
「神社からウニ投げたの!?」
クチジロがウニを砕く。
また何か落ちてきた。
ゴトッ。
「貝だ」
再びクチジロが突進する。
「何を撒いてんだよこの神社!!!」
俺たちには小さな餌。
あいつにはウニと貝。
「お前だけ福音の単価高くない!?」
「徳の差だ」
「神社で徳を持ち出すな!! 釣り人の狙ってる魚が違うだけだよ!!!」
クチジロは堂々と貝を食っている。
イシダイも落ちてきたウニに集まってきた。
バキバキと殻を砕いている。
そういえば。
「ここではウニ食っても働かされないんだな」
「何を言っている?」
「だよな!! それが普通だよな!!!」
イトヨリが餌をくわえたまま戻ってきた。
「川奈ではウニ食べたイシダイが働かされてるっす!」
「なぜだ?」
「食べちゃいけないウニだったんす!」
「なぜ食った?」
「チンピラだから」
「なるほど」
「納得すんな!!!」
夕まずめの石廊崎は、しばらく祭りだった。
小さな餌が降るたびに磯物が走る。
ウニや貝が落ちればクチジロや石鯛が走る。
俺たちも混ざる。
何が目的で。
誰が何を思って。
神社からこんなに色々なものを海へ撒いているのか。
俺には分からない。
ただ一つ分かるのは。
魚からすれば、いい神社だった。
やがて。
福音は少なくなった。
一匹。
また一匹と。
集まっていた魚たちも岩場へ戻っていく。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、海が静かになった。
「終わりだ」
クチジロが言った。
「急だな」
「夕まずめは短い」
イトヨリは腹いっぱいになったのか、岩の上で休んでいる。
「チカメさん」
「ん?」
「旅してきて思ったんすけど」
「なんだ?」
イトヨリが石廊崎の海を見回した。
「川奈より南伊豆の方が環境よくないっすか?」
「…………」
言うな。
俺も少し思っていた。
「海きれいっす」
「…………」
「魚いっぱいいるっす」
「…………」
「福音も降るっす」
「…………」
「南側ならどこにでも住めるっすよ」
「旅の目的を根本から揺るがすな!!!」
キントキダイが静かにうなずいた。
「一理ある」
「お前まで!!!」
イトヨリが続ける。
「白浜もよかったっす。弓ヶ浜もよかったっす。石廊崎なんて神社からご飯出るっす」
「宿泊サイトみたいに比較するな!!」
「…………僕は川奈も好き」
キンメ。
お前だけだ。
「キンメえええ!!!」
「…………福音いっぱいあるから」
「お前も結局それかよ!!!」
クチジロが不思議そうに俺を見る。
「川奈はそんなに悪い場所なのか?」
「悪くねえよ!!!」
いいところだ。
俺たちの住んでいる場所だ。
ウニを食ったら労働が待っているだけだ。
「ここならウニを食っても自由だぞ」
「それが普通なんだよ!!!」
イトヨリが笑った。
「やっぱこっちの方が――」
「比較表作るな!!!」
クチジロは岩陰へ戻りながら言った。
「泊まっていけばいい。朝になれば、また降る」
「朝ごはん付きっす!」
「宿じゃねえって!!」
「…………朝も」
「ダメだ。旅の途中だろ」
「…………残念」
キンメがもう一度、神社を見上げる。
「お前、目的忘れかけてるだろ」
俺は岩場を離れた。
「行くぞ」
「えー! もう行くんすか?」
「行く!!」
みんなもついてきた。
「世話になったな」
「ああ」
クチジロが俺たちを見る。
「神子元へ行くなら気をつけろ」
「ハンマーヘッドか?」
「知っているのか」
「ここに来るまでにも言われた」
「ならいい」
ペリーまでガジガジされた海だ。
油断するつもりはない。
「また来るっすー!」
イトヨリがクチジロにヒレを振った。
「次は朝に来い」
「朝食も食わせる気かよ!!!」
俺たちは石廊崎を離れた。
夕方の光が少しずつ弱くなっていく。
そのまま崖沿いを進む。
岩。
崖。
また岩。
「チカメさん」
「なんだ?」
「ずっと崖っすね」
「南伊豆だからな」
「そういうもんっすか」
「そういうもんだ」
たぶん。
人間だった頃は道路から見ていた。
今は海の中から見ている。
同じ南伊豆でも、まるで違う。
どこまで行っても崖が続く。
それを下から眺めながら進んでいるうちに。
キンメが止まった。
「…………チカメ」
「なんだ?」
「…………海、きれい」
「海はずっときれいだろ」
「…………もっと」
言われて、俺も気づいた。
水が。
やたらと澄んでいる。
「なんだこれ……」
少し先へ進む。
さらに澄んでいく。
海底が見える。
いや。
見えすぎる。
深さが分からなくなるくらい、水が透明だった。
「うわああああああ!!!」
イトヨリが先へ飛び出した。
「なんすかここ!!!!」
魚も多い。
岩の周り。
水面近く。
海底。
あっちにも。
こっちにも。
色んな魚が泳いでいる。
「さっきの石廊崎もすごかったっすけど、ここはもっとすごいっす!!」
キントキダイまで周囲を見回していた。
「これは……すごいな」
「…………きれい」
キンメも珍しく泳ぎ回っている。
俺だけが。
少しずつ。
この景色に見覚えがあることに気づいていた。
この透明度。
この岩。
この海。
「…………あれ?」
来たことがある。
人間だった頃。
船に乗って。
わざわざここまで来た。
「チカメさん?」
「…………ヒリゾ浜だ」
「ヒリゾ浜?」
そうだ。
間違いない。
ヒリゾ浜。
伊豆でも有名な、海がとんでもなくきれいな場所。
そして。
俺はようやく気づいた。
道を間違えた。
「ここがヒリゾ浜なんすか!?」
イトヨリがスマホを出した。
「知ってるのか?」
「ネットで見たことあるっす!」
画面を見る。
海を見る。
また画面を見る。
「写真よりすごいっす!」
「そりゃお前、今は海の中だからな」
まずい。
完全に違う方へ来た。
言えない。
川奈からここまで。
散々偉そうに先頭を泳いできた俺が。
道を間違えましたとは。
「チカメさん」
「ん?」
「でも、なんでヒリゾ浜に来たんすか?」
「…………」
来たんじゃない。
着いちゃったんだ。
だが。
ここでそれを言うわけにはいかない。
「お前が見たがると思ってな」
「え?」
「サプライズだ」
「えええええええ!!!」
イトヨリが一気に俺の前まで泳いできた。
「チカメさん、あーしのために連れてきてくれたんすか!?」
「まあな」
「やっさしーーーーー!!!!」
違う。
迷子だ。
「チカメさん! ありがとうございますっす!!」
「お、おう」
まずい。
思ったより喜んでいる。
「…………チカメ」
「なんだ?」
「僕には?」
「…………」
お前まで乗ってくるのか。
「お前にもサプライズだ」
「…………ふふ」
キントキダイが俺を見る。
「私もか?」
「全員だよ!!!」
引き返しづらくなった。
イトヨリはもう魚の群れを追いかけている。
キンメも楽しそうに岩場を泳いでいた。
キントキダイまで周囲を見回している。
「確かに、休むにはいい場所だな」
「だろ?」
よし。
誰も気づいていない。
「じゃあ、せっかくだから少し休んでいくっすー!」
「おう」
澄んだ海。
大量の魚。
きれいな岩場。
まあ。
道を間違えたことなんて。
今はどうでもいい。
「少しくらい、ゆっくりしていくか」




