深場なら安全だと思っていた
俺たちは逃げた。
チヌ様の福音から。海上奉仕から。そして何より――魚拓ランキングから。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
俺は暗い海を見渡した。
静かだ。魚も少ない。上を見ても、海面なんてもう見えない。
いい。
実にいい。
福音の気配がまるでない。
「ここならチヌ様もいない」
「そうですね」
「魚拓ランキングもない」
「…………たぶん」
「海上奉仕もない」
「それはあるぞ」
キントキダイが言った。
「あるの?」
「人間はここにも来る」
「なんでだよ」
キンメダイが少し遅れて答えた。
「…………魚を釣りに」
「それは知ってるよ」
なんでわざわざこんなところまで来るんだ。魚なんて上にもいるだろ。
サバとか。アジとか。なんかいっぱい。
「むしろ深いところまで来る人間は、最初から俺たちを釣りに来ている」
キントキダイが言う。
「やめろ」
「浅場のように、何か釣れた、ではない」
「やめろ」
「目的を持ってお前を釣りに来ている」
「やめろって」
怖い。
専門性を持つな。
もっと適当に海と接してくれ。
「でも、ここまで深ければ針もそう簡単には――」
「来るぞ」
「来るの?」
「来る」
「何メートル?」
「何百メートルでも来る」
「人間、暇なの?」
俺だって前世では釣りをしていた。だから知っている。
暇だからやっているわけではない。
釣りをするために暇を作っている。
もっと悪い。
「まあいい」
俺は気を取り直した。
「人間が来るとしても、チヌ様の信者はいない。ここなら少なくとも魚社会の面倒には巻き込まれないだろ」
そのときだった。
「おい」
暗闇の向こうから声がした。
「そこの赤いの」
三匹同時に振り返った。
「どの赤いのだ?」
キントキダイ。
「…………僕?」
キンメダイ。
「俺?」
自分たちで言っておいて気づいた。
赤い。
俺も赤い。キンメダイも赤い。キントキダイも赤い。
そして、よく見ると――
「……赤いやつ多くない?」
暗闇に目が慣れてくる。
あっちにも赤。こっちにも赤。奥にも赤。
なんだここ。
赤組の待機場所か。
「…………深いところでは、珍しくないよ」
キンメダイが言った。
「赤い光は、深いところまで届きにくいから。僕たちの色は、ここだと目立ちにくくなるんだよ」
「なるほど」
俺は自分の体を見る。
「俺、この色にもちゃんと意味があったのか」
「…………うん」
「てっきり主人公だから赤いのかと」
キンメダイが少し考えた。
「…………何の主人公?」
「そこ疑問に思うんだ」
俺はキントキダイを見る。
「お前もちゃんと意味があって赤かったんだな」
「どういう意味だ」
「ずっとキンメダイに寄せてるだけかと思ってた」
「お前もだろ」
「俺はチカメキントキだ」
「俺はキントキダイだ」
「お前が一番ややこしいんだよ」
「お前にだけは言われたくない」
キンメダイが俺たちを見た。
「…………二人とも、似てるよ」
「似てない!」
俺とキントキダイの声が重なった。
「…………似てる」
安心した。
いつもの感じだ。
ここまで逃げてきても、俺たちは俺たちだった。
「で、そこの赤いの」
さっきの声がもう一度した。
「ああ、悪い。俺か?」
「違う。その隣」
「俺か?」
「その隣」
「…………僕?」
「もう全員こっち来い」
呼ばれた。
近づくと、岩陰に数匹の魚が集まっていた。どいつも赤い。
もう誰が誰だかわからない。
「上から来たんだろ?」
「ああ」
「最近どうだ?」
「最近?」
「上のほうだよ。なんか変な宗教が流行ってるって聞いたぞ」
俺は固まった。
「…………なんで知ってる」
「昨日サバが落ちてきた」
「落ちてきた?」
「弱ってた」
「情報の伝達方法が怖いな」
赤い魚は続けた。
「なんでもチヌ様とかいうのがいるんだろ?」
「いる」
「魚拓がどうとか」
「ある」
「ランキングも始まったとか」
「始まった」
全部届いてる。
「福音、届いてるじゃねえか」
俺は頭を抱えた。
いや、魚だから抱えられない。
気持ちだけ抱えた。
「深場なら大丈夫だと思ったのに……」
「噂は沈むからな」
「名言みたいに言うな」
そのとき、俺たちの頭上から何かがゆっくりと落ちてきた。
「…………」
太い糸。
その先に、針。
そして餌。
三匹で見上げた。
キントキダイが言った。
「来たぞ」
「嘘だろ」
キンメダイが針を見上げたまま、静かに言った。
「…………本当に来たね」
「お前まで確認しなくていいよ!」
「言っただろ。人間はここにも来る」
キントキダイが言う。
「でもこんな深いところまで……」
「深いところだから来るんだ」
「帰れよ……」
餌が俺たちの前で揺れている。
誰も近づかない。
俺は少し安心した。
そうだ。
ここにいる連中は、上の魚たちとは違う。海上奉仕だの、チヌ様だの、そんなものに踊らされたりは――
「おおっ!」
一匹の赤い魚が飛び出した。
「待て!」
ぱくっ。
竿先の向こうで何かが引かれた。
次の瞬間。
「海上奉仕してくるぅぅぅぅぅぅぅ!!」
赤い魚が、ものすごい勢いで上へ消えていった。
「お前も信者かよ!!」
福音は。
思っていたより深くまで届いていた。




