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第136話 下田は開国しました


翌朝。



「チカメさん!」



イトヨリの声で目が覚めた。



「なんだよ……」


「海天気、いけそうっす!」


「ほんとか?」



イトヨリがスマホを見せてくる。



昨日まで並んでいた、嫌になるような風と波の数字が変わっている。



「Yahoo!天気は?」


「いけるっす!」


「Windy」


「いけるっす!」


「ウェザーニュース」


「ダメっす!」


「tenki.jp」


「んー、きわいっす!」



「出航だ!!!」



天気予報など、こんなものだ。


釣り人とは信じたいものを信じるものだ。



港の外を見る。



台風は抜けていた。



まだ海には大きなうねりが残っている。


福浦堤防の向こうでは波も立っている。



でも。


昨日とは違う。



これなら進める。



「よし。神子元へ――」



「台風抜けたぞーーーー!!!」



どこかで声が上がった。



その瞬間だった。



下田港がざわめいた。



「開国だーーー!!!」


「出国だろーーー!!!」


「どっちでもいい! 帰るぞーーー!!」


「行くぞ行くぞ!」


「東行く奴こっちー!」


「南はこっちだぞー!」


「押すなー!」


「先に行かせろー!」


「群れがまだ揃ってない!!」


「おーい! こっちだー!」


「昨日からここにいたんだぞ!」


「みんな昨日からいるわ!!!」



「うわっ!!」



港の中に散らばっていた魚たちが、一斉に動き始めた。



昨日まで。



食う側も。


食われる側も。



台風から逃げるために、同じ下田港へ集まっていた。



それが。



台風が抜けた途端。



全員帰る。



「チカメさん! すごいっす!」


「イトヨリ! 先行くな!」



「押さないでほしいっすー!」


「魚が魚を押すな!!」



右から群れが来た。



避ける。



左から別の群れが来た。



また避ける。



前から来た魚が、後ろから来た魚とぶつかった。



「どこ行くんだよ!」


「帰るんだよ!」


「俺もだよ!」


「じゃあ同じだろ!」


「方向が違うんだよ!!」



「何の喧嘩だよ!!!」



花火大会後みたいだった。



いや。



魚だから花火大会には行かないけど。



昨日まで避難所だった下田港が。



今度は巨大な帰宅ラッシュになっている。



「キントキダイ!」



返事がない。



「キントキダイ!?」



「私はここだ」



後ろから声がした。



「何してんだよ!」


「後方警戒だ」


「わからなくなるから見える位置にいろ!!!」



「キンメは!?」



「…………ここ」



「近っ!!」



真横にいた。



というか、ほとんどくっついていた。



「離れるとはぐれそうだから」


「それはそうだけど近い!!」



「チカメさん! あーしも近くにいるっす!」


「お前は声で分かる!!」



四匹で固まって、魚の流れに入る。



とはいえ。



流れに乗ったからといって、すんなり港の外へ出られるわけじゃない。



「あっ! ペリーだ!」


「ペリーいるぞー!」


「最後に写真撮ろうぜ!」


「ペリー! また一緒に開国しようなー!」


「マタネー!」


「カステラ持ってこいよー!」


「ソレ、ナガサキ!」


「知ってんのかよ!!!」


「帰れーーー!!」



「まだいるのか反対派!!!」



帰ろうとしていた魚の一部が、今度はペリーの方へ流れ始めた。



巨大なザトウクジラの周りに、また魚が集まっていく。



「ペリーちゃーん!」


「マタネー!」


「また来いよー!」


「マタクルネー!」


「来んなー!」


「アナタモ、マタネー!」


「だから来んなって言ってんだよー!!」



「仲いいだろあいつらもう!!!」



ペリーは巨大な胸びれをゆっくり動かしている。



その周りを。


帰る魚。


写真を撮りたい魚。


見送りたい魚。


帰ってほしい魚。



全部が入り乱れていた。



「全然出られねえ!!!」



イトヨリが楽しそうに笑っている。



「お祭りの帰りみたいっすね!」


「お前ちょっと楽しんでるだろ!」


「楽しいっす!」


「昨日まで遭難しかけてたんだぞ!!」



少しずつ。



本当に少しずつ。



魚の流れが港の入口へ向かっていく。



俺たちも、その中を進んだ。



その時。



目の前にいた小さな魚が止まった。



向こうから。



大きな魚が来た。



「…………」



小さな魚が見る。



「…………」



大きな魚も見る。



昨日。



たぶんこいつらは、同じ港で一緒に台風をやり過ごしていた。



「…………」



次の瞬間。



小さな魚が逃げた。



大きな魚が追った。



「待てーーー!!」


「うわああああ!!」



「食物連鎖、営業再開したあああああ!!!」



一か所だけじゃなかった。



「あっ! こっちもっす!」



「逃げろー!!」


「昨日は食わなかっただろ!!」


「昨日は昨日だー!!」



「避難所解散した瞬間これかよ!!!」



昨日までの平和が終わった。



台風が去った。



海が日常に戻った。



つまり。



食う奴は食う。



食われる奴は逃げる。



「なんか昨日の方が平和だったな……」


「台風来てたけどな」


「そうなんだよ」



キントキダイが妙に冷静だった。



やっと港の入口が近づいてきた。



魚の数も少しずつ減っている。



その時。



「チカメー!」



後ろから大きな声がした。



振り返る。



ペリーだった。



「ペリー!」



「モウ、イクノ?」



「ああ!」



俺は港の外を見た。



「いつまでもここにいるわけにいかないからな。神子元に行ってくる」



「Oh!」



ペリーが嬉しそうに身体を揺らした。



「ガジガジ、気ヲツケテネ!」



「その言い方だと全然怖くねえんだよ!!!」



実際に九メートル以上あるクジラの身体を噛むような連中がいるなんて笑い事じゃない。



「ペリーも気をつけろよ」


「ダイジョウブ!」



「あと」



嫌な予感がした。



「ナニ?」



「川奈のことは忘れろ」



「…………」



ペリーの目が輝いた。



「オキアミ!」



「覚えてやがった!!!」



「カワナ、イクネ!」


「来んな!!!」



「マタネー!」



「話聞けよ!!!」



ペリーが大きな胸びれを振った。



イトヨリも振り返している。



「ペリーさん、またねーっす!」


「…………またね」


「また会おう」



「お前ら川奈に来るの止めろよ!!!」



三匹とも、別れの挨拶しかしていなかった。



「チカメー!」



もう一度、ペリーの声が飛んできた。



「ナニ?」



俺もつられてカタコトになった。



「サバ!」



「ん?」



「オイシイヨー!」



「知ってるよ!!!」



俺たちは、下田港を出た。



*



港を出てしばらくすると。



急に静かになった。



さっきまで。



前にも。


後ろにも。


右にも。


左にも。



魚がいた。



誰かが叫んで。


誰かが押して。


誰かが帰って。


誰かが食われそうになっていた。



それが。



少し進んだだけで。



後ろから聞こえていた声も、だんだん小さくなった。



「…………静かっすね」



イトヨリが言った。



「さっきまでがうるさすぎたんだよ」



海には、まだうねりが残っている。



身体がゆっくり持ち上がる。



下がる。



また持ち上がる。



でも。



昨日とは違った。



「…………進む」



横にいたキンメが言った。



「ああ」



進む。



当たり前のことなのに。



昨日は、それができなかった。



泳いでも。


泳いでも。



押し戻された。



今日は違う。



一度かいた水が。


ちゃんと後ろへ流れていく。



岩が後ろへ行く。



海藻が後ろへ行く。



景色が。



ちゃんと後ろへ行く。



「進めるって素晴らしいっすね!」



「昨日一日で何を悟ったんだよ」



イトヨリが俺たちの少し前へ出た。



いつものイトヨリだった。



キントキダイも普通に泳いでいる。



「今日は後方警戒しないのか?」


「している」


「してんのかよ」


「私は後ろにいる」


「位置の話じゃねえよ!!」



キンメは俺の横にいた。



「…………チカメ」


「ん?」


「今日、進むね」


「ああ」



それだけだった。



でも。



本当に久しぶりに。



旅が進んでいる気がした。



下田港は、もう後ろだ。



俺たちは海岸に沿って、さらに南へ進んだ。



しばらく泳いでいると。



少しずつ。



海底の景色が変わってきた。



「ん?」



岩が減っている。



代わりに。



明るい砂が増えてきた。



「チカメさん!」



先へ出ていたイトヨリが、こっちへ戻ってくる。



「なんだ?」



「この先、めっちゃ砂浜っす!」



「また白浜じゃねえだろうな」


「違うっす!」



イトヨリがスマホを見る。



「あっ!」



「今度はなんだよ」



「もうすぐ弓ヶ浜っす!」



「弓ヶ浜?」



「はいっす!」



俺は前を見た。



まだ浜は、はっきりとは見えない。



でも。



海底はどんどん明るくなっている。



砂が広がっている。



下田を出た。



台風も越えた。



神子元は、まだ先だ。



それでも。



今度こそ。



ちゃんと近づいている。



「よし。行くぞ」



俺たちは、弓ヶ浜へ向かって泳いだ。



その時だった。



少し前を泳いでいたイトヨリが。



消えた。



「…………は?」



本当に。



一瞬だった。



さっきまでそこにいた。



ピンク色の身体も。


ひらひらした尾びれも。



全部。



視界から消えた。



「イトヨリ!?」



ぱくっ。



少し遅れて。



間の抜けた音がした。



「…………」



「…………」



「…………」



目の前を。



巨大なアカウミガメが、何事もなかったように泳いでいく。



その口から。



ピンク色の尾びれが。



ちょっとだけ出ていた。



「イトヨリいいいいいいいい!!!!!」

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