第127話 【神子元編】ワニワニパニック
熱川。
俺たちは、さっきから岩という岩を疑っている。
「…………あれは?」
「岩っす」
「じゃあ、あっちは?」
「岩」
「…………あれは?」
「岩だと思う」
キントキダイだけが少し離れて泳いでいる。
「後方警戒」
「前も見ろよ!!!」
老婆の話を聞いたせいだ。
魚ではない、大きな影。
海へ投げ出された子ワニたち。
仲間の匂いを追って、熱川へ。
そして夜な夜な現れるという海獣。
「…………」
何もいない。
普通に魚が泳いでいる。
普通に岩がある。
普通の海だ。
「やっぱり、ばあちゃんの作り話だったんじゃない?」
「そうっすよね〜」
イトヨリもようやく俺の横へ出てきた。
「だいたい、とーっても昔っていつなんすかね?」
「知らない」
「雑っすね」
「一福音だからな」
近くを泳いでいた魚が、こっちを見た。
「何の話してるんだ?」
「ワニ」
「ああ」
魚は普通に頷いた。
そのまま通り過ぎる。
「いや待て待て待て!」
「なに?」
「何じゃなくて! ワニいるの?」
「いるよ」
「いるの!?」
イトヨリが俺の後ろへ戻った。
「噂じゃないの!?」
「噂?」
「魚じゃない大きな影!!」
「ああ、ワニだろ」
「地元では普通なの!?」
魚は不思議そうな顔をした。
「たまにその辺にいるよ」
「その辺にいるなよ!!」
「今日は見てないけど」
「今日の話じゃねえよ!!!」
怖がっているのが俺たちだけみたいになっている。
「危なくないの?」
「別に」
「別になの!?」
魚はそのまま泳いでいった。
「…………」
俺たちは顔を見合わせた。
「地元の魚が平気なら、大丈夫なんじゃないっすか?」
「まあ……そうか」
俺は前を向いた。
いつまでも岩を疑っていたら神子元まで辿り着けない。
「行こう」
「はいっす」
岩場を抜ける。
大きな岩がある。
その横を通る。
「…………」
通り過ぎようとして。
止まった。
「チカメさん?」
「…………今、動かなかった?」
「何がっすか?」
「岩」
「岩は動かないっす」
そうだよな。
疲れてるんだ。
俺はもう一度泳ぎ出した。
ぱち。
「…………」
目が開いた。
「…………」
俺と目が合った。
「…………ワニ?」
岩が口を開けた。
「うわあああああああ!!!!」
「ワニいいいいいい!!!!」
イトヨリが逃げた。
キントキダイも逃げた。
「後方警戒はどうしたあああ!!!」
「撤退時の後方警戒だ!!」
「一番前にいるじゃねえか!!!」
キンメだけが少し離れたところからワニを見ている。
ワニは動かない。
「…………」
俺たちを見る。
「…………」
俺たちも見る。
「何?」
「喋った!!!」
「魚が喋るんだからワニも喋るだろ」
「急に世界観の正論ぶつけてくんな!!!」
ワニが大きな口を閉じた。
「騒がしいな」
「いや、お前がいるからだよ!!」
イトヨリが俺の後ろから顔を出す。
「チカメさん、食われないんすか?」
「なんで俺で試すの?」
ワニを見る。
「魚、食わないの?」
「食うよ」
「食うんじゃねえか!!!」
イトヨリがまた引っ込んだ。
「腹が減ったらな」
「今は!?」
「減ってない」
「その情報で安心できると思う!?」
ワニは大きく欠伸をした。
「最近はあんまり食えてないしな」
「え?」
思わず聞き返した。
「餌ないの?」
「いるけど逃げる」
「そりゃ逃げるよ」
これだけデカい口が近づいてきたら俺だって逃げる。
その時。
俺の後ろから声がした。
「何してんの?」
「…………え?」
振り返る。
別の岩の横に。
ワニがいた。
「増えたあああああ!!!」
「何騒いでんの?」
横を見る。
もう一匹。
「三匹目!!!」
「うるさいなあ」
今度は下。
「四匹目!!!」
イトヨリが周りを見回した。
「チカメさん……」
「言うな」
「あっちにもいるっす」
「言うなって」
岩陰から一匹。
向こうの砂地から一匹。
一匹が顔を引っ込めた。
別の岩陰から、また一匹が顔を出す。
「…………」
右からワニ。
左からワニ。
奥からもワニ。
出たと思ったら引っ込む。
引っ込んだと思ったら、別のところから出てくる。
「ワニワニパニックじゃねえか!!!」
「何それ?」
「お前らが知らなくていいやつだよ!!!」
どうやら老婆の話は、思っていたよりずっと現実だったらしい。
しかも一匹どころじゃない。
「おーい!!」
今度は上から声がした。
「まだ増えるの!?」
若いワニが一匹、岩の上から降りてきた。
「ウヒッ! 客?」
「なんか一匹だけテンション違うぞ」
頭には赤いものを巻いている。
口には。
バナナ。
「…………なんでバナナ食ってんの?」
「バナナは正義!」
「質問に答えろ!!!」
最初にいた大きなワニが言った。
「二代目だ」
「何の!?」
「ここの」
「ここの何!?」
若いワニが胸を張った。
「いずれ、あたしがこの群れを継ぐ!」
「ワニって世襲制なの!?」
「ウヒッ!」
よく分からないが。
どうやらこいつが、このワニたちの跡取りらしい。
「で、二代目は何食ってんの?」
「バナナ!」
「それは見れば分かる」
「主食!」
「ワニとして大丈夫!?」
二代目はバナナを飲み込んだ。
「でも最近バナナがない」
「そりゃ海だからな」
「魚も捕れない」
「それはワニとしてもっと大丈夫!?」
二代目が俺の前まで来た。
「なんかいい方法ない?」
「なんで俺に聞くんだよ」
二代目がニヤッと笑った。
「詳しそうだから……ねっ! 川奈のチカメ!」
一瞬だけ、鋭い眼光がのぞいた気がした。
「えっ?」
「おまえ、赤沢のエイ退治しちゃった奴だろ?」
「…………」
「あれ、俺らが狙ってた獲物なんだ」
「エイ食うの!?」
「食うよ」
「ワニだもんな……」
二代目が顔を寄せてくる。
「だから代わりと言っちゃなんだが、なんかいい方法教えてくれよ。なっ!」
「…………」
代わりの獲物。
ワニでも捕まえられるもの。
魚を集める。
水面へ追い上げる。
ナブラを作る。
そうすれば。
「…………あるかもしれない」
「マジ!?」
「ただ、俺たちだけじゃ無理だ」
「なんで?」
「ナブラを作る」
二代目が首を傾げた。
「ナブラ?」
「小魚を水面まで追い上げるんだよ。数がいる」
俺は近くにいた地元の魚たちを見た。
「ちょっと手伝ってくれない?」
「何を?」
「魚を集めたい」
「嫌だよ」
「早いな!!」
一匹の魚が二代目を見る。
「集めた魚、こいつら食うじゃん」
「食わせない」
「ほんとに?」
「今回は魚を食わせるんじゃない」
魚たちがこっちを見る。
「じゃあ何するの?」
「ちょっとこっち来て」
俺は地元の魚たちを集めた。
ごにょごにょごにょ。
「…………」
魚たちが一斉に水面を見る。
「なるほど」
「それなら俺たちも得するな」
「だろ?」
二代目が割り込んでくる。
「何? 何食うの?」
「まだ内緒」
「なんで!?」
「うまくいくか分かんねーからだよ」
まず。
ナブラを作ります。
地元の魚たちが、小魚の群れの周りへ回る。
俺たちも手伝う。
横から。
下から。
逃げ道を少しずつ水面へ向ける。
小魚の群れが上がっていく。
バシャバシャバシャ!!
「できたっす!!」
「ナブラだ!!」
二代目が目を輝かせる。
「これ食っていい!?」
「だから食うな!!!」
しばらくすると。
上空から鳥が一羽。
二羽。
三羽。
水面の騒ぎに気づいて、次々に集まってくる。
「来た……」
地元の魚たちも上を見る。
鳥が旋回している。
一羽が水面へ突っ込んだ。
二代目が俺を見る。
「鳥来たけど?」
「二代目」
「ん?」
「古いワニたち呼んで」
「じいちゃんたち?」
「そう」
二代目が振り返った。
「じいちゃーん!!」
岩だと思っていたものが、ゆっくり動き始める。
一匹。
二匹。
三匹。
でかい。
改めて見ると、めちゃくちゃでかい。
「で、何すんの?」
二代目が寄ってくる。
「ちょっと耳貸せ」
「ん?」
ごにょごにょごにょ。
「…………」
二代目の口元が上がった。
「ウヒッ!」
「うまくいくかは分かんねーぞ」
二代目が古いワニたちのところへ行く。
また、ごにょごにょ。
古いワニたちが静かに水面を見上げた。
そして。
沈んだ。
「…………」
鳥がまた一羽、水面へ突っ込む。
その瞬間。
ばぐ!!!
「…………」
巨大な口が海面から飛び出した。
鳥が消えた。
水しぶきだけが落ちてくる。
「…………」
二代目が笑っている。
「ウヒッ!」
別の鳥が降りてくる。
ばぐ!!!
別の場所から、また巨大な口。
「ジュラシックパークだああああああ!!!!」
古いワニが沈んでくる。
もぐもぐしている。
「うまい」
「感想それだけ!?」
もう一匹が水面を見る。
「次、俺」
「俺も」
「もう一回やろう」
「待て待て待て待て!!!」
俺は慌てて止めた。
「これ絶対、夜中しかやるなよ!!!」
二代目が首を傾げる。
「なんで?」
「なんでじゃねえよ!! 昼間に熱川の海から巨大なワニが飛び出して鳥食ってたら大騒ぎになるだろ!!!」
「夜ならいいの?」
「よくはないけど見つかりにくい!!」
俺は地元の魚たちを見る。
「お前らも絶対、昼間にこいつらとナブラ作るなよ!!」
「分かってるよ」
「人がいる時もやるなよ!!」
「分かってるって」
一匹の魚が水面を見る。
さっきまで何羽もいた鳥が、少し離れたところを飛んでいる。
「最初に聞いた時は、そんなうまい話あるかと思ったけど……これはいいな」
「鳥も警戒するようになる。むやみやたらに突っ込めなくなるぞ」
「…………」
さっき作戦を聞いていた老魚が、静かに頷いた。
「抑止力」
「軍事用語でまとめんな!!!」
でも成立している。
魚は鳥に食われたくない。
ワニは獲物が欲しい。
魚がナブラを作る。
鳥が来る。
ワニが鳥を食う。
鳥が警戒する。
二代目が笑った。
「ウヒッ! これいいな!」
「お前らが魚食わなければな!!」
「そこは任せろ!」
「急に信用できなくなった!!!」
俺は水面を見た。
ナブラ。
鳥。
捕食者。
またこれか。
「結局またナブラじゃねえか!!!」
イトヨリが笑った。
城ヶ崎でもナブラ。
熱川でもナブラ。
魚を集めて。
鳥を集めて。
今度はワニに食わせる。
「ホンガツオ様様だな……」
あいつに会っても、絶対に報告しないでおこう。
「で、お前ら、このあとどこ行くんだ?」
二代目が聞いてきた。
「神子元」
「南か...」
二代目の顔が止まった。
「稲取はどうするつもりだ?」
「何?」
二代目がキンメを見る。
「お前、キンメダイだよな」
「…………うん」
「だったら、あたしも行く」
「なんで!?」
二代目が南を向いた。
「稲取にはアオザメがうようよいる」
「アオザメ?」
「キンメダイが好物だ」
「…………」
俺はキンメを見た。
キンメは黙っている。
「おい、そういう情報もっと早くくれよ!!!」
二代目が笑った。
「ウヒッ! 心配すんな」
そしてキンメの前へ出る。
「餌の取り方を教えてもらった礼だ。稲取まで、あたしが守ってやる」
「…………ほんと?」
「任せろ!」
頼もしい。
初めてこいつが二代目に見えた。
「まあ、狩った獲物は持ち帰るがな」
「何を守りに行くんだよ!!!」
その夜。
月が海を照らしていた。
ワニたちが水面を見上げている。
地元の魚たちも集まっていた。
「昼は禁止だからな」
「分かってる!」
「人がいる時もやるなよ」
「分かってる!」
「魚まで食うなよ」
「腹減ったら分かんない!」
「そこは分かれよ!!!」
不安だ。
ものすごく不安だ。
キントキダイが月を見上げた。
「月が満ちる時、空より降りし翼を、深淵の顎が喰らう……」
夜のお前出すな。
と、声にならない声で言った。
俺たちは熱川をあとにした。
二代目も一緒に。
それからしばらくの後。
熱川の月明かりに照らされた海には。
海獣が出ると言われるようになりました。
静かな夜。
突然、海面にナブラが起きる。
鳥たちが集まり、月明かりの下で舞い始める。
そして……。
ばぐ!!!
月明かりの中。
魚ではない巨大な影が、海面から飛び出す。
鳥が一羽、消える。
その正体を知る者は少ない。
熱川の海に現れる、謎の海獣。
そんな噂が語られるようになった。
【教祖と海の経典】
■ イリエワニ
世界最大級のワニですな。
東南アジアなどの河川や汽水域に生息しておりますぞ。
熱川温泉には野生では生息しておりません。
本作では生息しております。
■ 北川温泉
東伊豆町にある海沿いの温泉地ですな。
海岸沿いに温泉宿が並び、相模灘を望むことができますぞ。
「ほっかわおんせん」と読みますな。
■ 熱川温泉
東伊豆町にある温泉地ですな。
温泉街のあちこちから湯けむりが上がる、伊豆を代表する温泉地のひとつですぞ。
ワニで有名な場所もありますが、野生のイリエワニがいるわけではありませんぞ。
■ ナブラ
大型魚に追われた小魚の群れが、水面付近で逃げ惑っている状態ですな。
釣り人が見つけると、だいたい急に忙しくなりますぞ。
■ 鳥山
大型魚に追われて水面へ出てきた小魚を狙い、海鳥が上空に集まっている状態ですな。
魚がいる場所を空から教えてくれる、ありがたい目印ですぞ。




