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第123話 【神子元編】旅のお方


城ヶ崎を離れて、俺たちはまた南へ向かって泳ぎだしていた。


海岸線に沿って泳いでいるだけなので、今のところ迷う要素はない。


問題があるとすれば、一匹だけやたら速いことだった。



「チカメさーん! 早く来るっす! 早く〜!」



イトヨリがかなり先から手を振っている。



「お前ちょっと落ち着けよ!」


「もうすぐ赤沢っすよ〜!」


「だからなんだよ!」


「知らないんすか!?」



イトヨリがものすごい勢いで戻ってきた。



「赤沢は伊豆のスパリゾートハワイアンズっす!」


「伊豆なのかハワイなのかどっちなんだよ」


「プール! 温泉! ボウリング! ご飯! 全部あるっす!そして極めつけがインフィニティ温泉っす!!」


「魚に必要なものが一個もねえよ!!」



イトヨリはスマホを見ていて聞いていない。


ものすごい速さで泳いでいる。



「ちょっと寄っていきましょう!」


「寄らねえよ。神子元行くんだろ」


「ちょっとだけっす!」


「お前のちょっとは信用できねえ」


「温泉だけ!」


「魚が温泉入ってどうすんだよ!」


「じゃあプール!」


「今ずっと泳いでるだろ!!!」



キントキダイが俺の後ろから顔を出した。



「どっちでもいい」


「じゃあ神子元」


「温泉っす!」


「お前に聞いてねえよ!」



キンメダイは黙って俺の横を泳いでいる。



「キンメは?」


「…………どっちでもいい」


「二票目入ったっす!」


「どっちでもいいはお前への一票じゃねえ!!」



イトヨリが両手を広げて俺たちの前に立ちはだかった。



「ここまで来て赤沢を素通りするんすか!?」


「するよ」


「人の心ないんすか!?」


「魚だよ!!」



その時だった。



「すいませーん!!」



声がした。



俺たちは振り向いた。


一匹の小さなアジが、沖の方から必死に泳いでくる。



「すいません! 旅のお方!」



俺の前で止まった。


息を切らしている。



「どうした?」


「助けてください!」


「え?」


「家族が……家族が定置網に入っちゃったんです!」



俺はアジを見る。


アジは必死な顔で俺を見ている。



「定置網?」


「はい!」


「どこ?」


「あっちです!」



アジが沖を向いた。



イトヨリもそちらを見る。


そして、赤沢の方を見る。


もう一度、沖を見る。


赤沢を見る。



「…………」



「何?」


「解決って、どのくらいかかるっすか?」


「知らねえよ」


「すぐ終わります?先行って待ってていいっすか?」


「家族が捕まってんだぞ」



イトヨリがアジを見る。



「何匹っすか?」


「七匹です!」


「七匹……」



また赤沢を見る。



「温泉、何時までっすかね」


「お前もう帰れ!!!」



「だってチカメさん!」


「なんだよ!」


「定置網は明日もあるっす!」


「家族が明日いねえかもしれねえだろ!!!」



アジが青ざめた。



「そ、そうなんです!」


「ほら!」


「でも赤沢も今日が最後かもしれないっす!」


「明日もあるわ!!!」



イトヨリはしばらく赤沢を見ていた。



「…………」


「行くぞ」


「…………はい」



動かない。



「行くぞ!」


「今、心の整理してるっす!」


「何を失ったんだよ!!!」



俺はアジについて沖へ向かった。


キンメダイが続く。


キントキダイも俺の後ろにつく。



少し進んで振り返る。



イトヨリがまだ赤沢を見ていた。



「イトヨリ!!」


「今行くっすよおおお!!!」



泣きそうな声で追ってきた。



*



アジについて沖へ進むと、やがて海の中に大きな網が見えてきた。



「でか……」



人間だった頃にも定置網は知っていた。


当然だ。


釣りをしていれば、海に浮かぶブイや網の位置を気にすることもある。



でも。



魚になって、海の中から見る定置網は全然違った。



壁みたいだった。



網が海の中を大きく仕切っている。


その先には、さらに網。


そして、その中をたくさんの魚が泳いでいた。



「います! あそこです!」



アジが前へ出る。



「お母さーん!!」



中にいたアジが振り向いた。



「あっ!」



何匹かのアジが一斉にこちらへ寄ってくる。



「よかった……!」



俺は中を見る。



アジだけじゃない。


ワラサ もいる。


イサキもいる。


いろんな魚が泳いでいる。



「…………普通に出ればよくない?」



アジが黙った。



「入口、開いてるだろ?」



定置網は魚が入るようにできている。


入れるなら、出られないわけじゃない。



「はい」


「じゃあ家族呼んで、みんなで出ればいいじゃん」


「それが……」



アジが網の入口を見た。



「出られないんです」


「なんで?」



答えない。



中にいるアジたちも、入口の近くまで来ている。


でも、そこから先へ来ない。



「おーい!」



俺は呼んだ。



「こっち来いよ! 出られるぞ!」



一匹が少し前へ出た。



その瞬間。



周りの魚が一斉に離れた。



「ん?」



アジも止まった。



何かに怯えたように、奥へ戻っていく。



「どうした?」



イトヨリが俺の横から中を覗いた。



「何かいるんすか?」



小さなアジが、ゆっくり下を向いた。



「あいつです」



俺たちも下を見る。



砂地。



何もいない。



「どれ?」


「そこです」


「どこ?」


「そこにいます」


「いや、砂しかないけど」



しばらく見ていると。



砂が動いた。



「…………ん?」



大きな影が、ゆっくり砂の中から浮かび上がった。



平たい体。


長い尾。



でかい。



「エイ……?」



エイはゆっくりと泳ぎ出した。



中の魚たちが一斉に逃げる。



「うわっ!」



イトヨリが俺の後ろに隠れた。



「お前さっきまで温泉行こうとしてただろ!」


「温泉にエイはいないっす!!」



エイは魚の群れの下を通り、そのまま入口の近くまで来た。


そして止まった。



「…………」



俺たちを見る。



「…………」



俺も見る。



「こいつがいるから出られないの?」


「はい……」



アジが小さな声で言った。



「出口に近づくと来るんです」


「でもお前ら、入る時は平気だったんだろ?」


「はい」


「なんで?」


「入ってくる魚には何もしないんです」


「…………は?」



俺はエイを見る。



エイはまた砂地へ降りていった。


そのまま、ゆっくり砂の中へ潜っていく。


体の輪郭が消える。



「…………どこ?」


「そこです」


「どこ!?」


「そこにいます」


「砂にしか見えねえよ!!!」



アジが頷いた。



「だから、みんな入ってきちゃうんです」


「じゃあ中にいる魚が教えてやればいいだろ。『入るなー!』って」


「前は教えてました」


「?」


「教えに入口へ行った魚から食べられました」


「…………」


「…………」


「よくできてんなこいつ!!!」



その時。



中にいた一匹の小魚が、入口へ向かって泳ぎ出した。



砂が弾けた。



エイが動く。



速い。



さっきまでの鈍い動きが嘘みたいに、小魚へ向かう。



「危ない!」



小魚が慌てて向きを変えた。



エイの口が、そのすぐ後ろを通る。



「うわっ!!」



小魚は群れの中へ逃げ込んだ。



エイは追わない。



また入口へ戻る。



「…………」



完全に分かってやってる。



「こいつ、ずっといるの?」


「ずっといます」


「いつから?」


「分かりません」


「漁師に獲られないの?」



アジが首を振った。



「船が来ると、出ていきます」


「…………は?」



「網を上げる前に、外へ出るんです」


「出られるの!?」



「はい」


「じゃあこいつだけ毎回逃げてんの!?」



「網が戻ると、また戻ってきます」


「戻ってくんの!?」



俺はエイを見る。



エイは何も言わない。


また砂の中へ潜っていく。



入ってくる魚は襲わない。


入ってから食う。


出ようとしたら食う。


助けようとしても食う。


船が来たら自分だけ出る。


網が戻ったら、また入る。



「…………」



なんだこいつ。



「定置網を食べ放題だと思ってやがる……」



イトヨリが小声で言った。



「プロっすね」


「感心するな」



イトヨリが俺を見た。



「チカメさん」


「何?」


「赤沢温泉にしません?」


「まだ言ってんのかよ!!!」



「だってあれと戦うんすか!?」


「まだ戦うとは言ってねえよ!」


「じゃあどうするんすか!」


「それを今考えてんだよ!」



俺は定置網を見る。



中にはアジの家族。



その周りにも、たくさんの魚。



下にはエイ。



そして入口は、普通に開いている。



出られる。



ただし。



出ようとすれば、あいつが来る。



「…………面倒くせえな」



キントキダイが俺の後ろから言った。



「後方異常なし」


「今は前を見ろ!!!」



キンメダイは何も言わず、定置網の中を見ていた。



俺はもう一度エイを見る。



砂の中に潜っている。



もう、ほとんど見えない。



「…………」



なんだろう。



すげえ腹立つ。



ただ定置網に住んでるだけなのに。



「とりあえず」


俺は入口へ向かった。


「中、入ってみるか」



「えっ」



イトヨリが止まった。



「チカメさん」


「何?」


「やっぱ赤沢温――」


「入るぞ!!!」



俺は定置網の中へ泳いだ。



キンメダイが続く。


キントキダイも続く。



「ちょ、ちょっと待ってくださいっすー!!!」



最後にイトヨリが入ってきた。



「来るっす! 来るっすよ!!」



イトヨリが俺の後ろに隠れる。



「…………」


「…………」



何も起きない。



「…………来ないっすね」


「来ねえな」



砂の中のエイは動かない。



俺たちは今、入ってきた魚だ。



「…………そういうことか」



俺はエイを見る。



こいつ。



俺たちのことも、まだ獲物だと思ってない。



少し離れた砂の中で。



エイの目だけが、こっちを向いていた。

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