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魚拓は神ではありません

「チヌ様!」

「チヌ様!」

「福音をありがとうございます!」


「魚拓は神ではありません!!!」


俺の声は、海中に虚しく響いた。


海上レクサスの壁には、一枚の魚拓が飾られている。大きなクロダイ。数日前まで俺たちと一緒に泳いでいたチヌ爺だ。


それが今では――


「チヌ様……」

「今日も見守ってくださっている」

「福音をありがとうございます」


「見守ってねえよ!!」


ただの紙だ。魚拓だ。そして福音を撒いているのは、その横にいる教祖だ。


「お前ら! あれはチヌ様じゃない!」


魚たちの空気が変わった。


「いや」


俺は言い直した。


「チヌ爺ではある」


「?」


「正確には、チヌ爺を紙に写したものだ。本人ではない!」


小魚が首を傾げた。


「紙に写す?」

「ああ」

「どうやって?」

「魚に墨をつけて、紙を当てて、魚の形を残す」

「教祖様が?」

「まあ……」

「チヌ様の姿を?」

「そうだけど」

「ずっと残るように?」

「まあ……そうだな」


魚たちがざわついた。


「やっぱり特別なんだ」


「違う!!」


説明するほど、信仰が強くなる。


*


「そもそも魚拓なんて、釣った魚の記念だ!」


「記念?」

「そう!」

「誰でも?」

「いや……」


嫌な質問だった。


「全部の魚を魚拓にするわけじゃない」

「では、どんな魚を?」

「…………」


言いたくない。だが魚たちが待っている。


「大きい魚とか」

「おお……」

「珍しい魚とか」

「おおお……」

「記録に残したい魚……」


「ほら!」


「しまった!!」


小魚が誇らしそうに海上を見上げた。


「チヌ様は選ばれたんだ!」

「釣り人にだよ!!」

「教祖様に選ばれた!」

「言い方!!」

「姿を永遠に残された!」

「紙が劣化するまでな!」

「永遠だ!」

「話聞けよ!!」


一匹の魚が魚拓へ頭を下げた。


「チヌ様……」

「やめろ」


もう一匹。


「チヌ様……」

「増えるな」


また一匹。


「チヌ様……」

「やめろって!!」


気づけば、俺以外ほとんど頭を下げていた。キンメダイまで、なんとなく下げている。


「お前まで何してんの!?」


「皆さんやっているので」


「日本人みたいな理由で宗教に入るな!!」


キントキダイは魚拓を見上げていた。


「私はまだよく分かりません」

「よし!」

「でも、御利益があるなら」

「お前もダメだ!!」


*


問題は、完全な迷信ではないことだった。


チヌ爺が釣られた。教祖が喜んだ。その場所を覚えて、また来て、コマセを撒いた。魚たちが食べた。


つまり――チヌ爺が海上へ行ったあと、実際に福音は増えている。


小魚が言った。


「チヌ様が海上へ行った」

「うん」

「教祖様が喜んだ」

「うん」

「教祖様がまた来た」

「うん」

「福音が増えた」

「うん」

「チヌ様のおかげ」

「最後だけ違う!!」


「どこが?」


「…………」


困った。


因果関係が八割くらい正しい。


「神はいないのに奇跡だけ実在してる!!」


*


その日の夜、魚たちが集まった。


「会議をします」

「また!?」

「議題は、今後も福音を安定して受け取るために」

「解散!!」

「まだ始まってません」

「始めるな!!」


キンメダイ、キントキダイ、小魚たち、アイゴ、ニザダイ、カワハギ、フグ。そして俺。


「チヌ様のおかげで、教祖様はまた来るようになりました」

「チヌ爺が釣れたからな」

「では――今後も海上奉仕を続けます」

「生贄って言え!!」


魚たちがざわついた。


「その言い方はよくない」

「何が!?」

「本人の意思を尊重しています」

「昨日できた制度なのに言葉だけ現代化すんな!!」

「自主的な海上奉仕です」

「名前変えただけだろ!!」


俺は当然反対した。


「チヌ爺は自分から行った。だからって、次も誰かを差し出すのは違うだろ」

「なぜ?」

「なぜって……」

「若い魚は助かる」

「…………」

「福音も来る」

「…………」

「教祖様も喜ぶ」

「…………」

「チヌ様も皆の役に立てた」

「…………」


一匹が聞いた。


「誰が困ったの?」


「俺だよ!!」


全員が俺を見た。


「…………しまった。いや違う!」


「チカメさんが?」

「そういう意味じゃない!」


アイゴが言った。


「本人がいいって言ったなら、いいんじゃないか?」


ニザダイも頷く。


「参加は自由だろ」


「お前ら命でギャンブルしてるくせに、こういう時だけ自由主義者になるな!!」


アイゴは近くを流れていたオキアミを食べた。


ぱくっ。


全員が止まる。


「…………」


少し待って、アイゴが言った。


「セーフ」


ニザダイが悔しそうに呟く。


「また糸なしか」


「会議中に福音チャレンジすんな!!」


*


俺は魚たちを見た。


「教祖が来なくても、俺たちは生きていける」

「どうやって?」

「自分で餌を探す!」

「毎日?」

「毎日だよ!」

「大変では?」

「魚だぞ!!」


反応がものすごく悪い。


「前はそうしてただろ!」


小魚が言った。


「でも今は福音がある」

「針もある!」

「ほとんどは福音だよ」

「その『ほとんど』から漏れた奴が海上に行くんだよ!」


小魚は少し考え、海上を見た。


「チヌ様みたいに?」

「…………」

「だったら、悪くないかも」


「信仰が死への恐怖を突破し始めた!!」


まずい。ものすごくまずい。


別の小魚が言った。


「それに、チカメさんは大きいから」

「ん?」

「僕たちより、自分で餌を探せるよね」

「…………」

「僕たちは小さい。だから福音が必要なんだ」


俺は黙った。


全部が、怠けたいだけではない。小さい魚には小さい魚の事情もある。餌を探すこと。食われないこと。生き残ること。楽ではない。


こういう話、人間だった頃にもあった気がする。


必要な支援。依存。ばら撒き。負担。受益。


「…………」


やめよう。


これ以上考えると、魚なのに社会保障審議会へ呼ばれる。


*


「では、決を取ります」


「いつ多数決導入した!?」


「海上奉仕制度を今後も続けることに賛成の方」


魚たちが動く。


「賛成」

「賛成」

「福音ほしい」

「賛成」

「福音チャレンジが続くなら賛成」


「アイゴは別の目的だろ!!」


「餌が増えるなら」


カワハギも賛成。


フグは少し離れたところで糸をかじっている。


「お前は民主主義に参加しろ!!」


圧倒的だった。


「反対」


俺。


キンメダイが少し迷ってから、俺の横へ来た。


「反対……です」


「よし!」


キントキダイは真ん中にいた。


「お前は?」

「まだよく分かりません」

「棄権かよ!」


結果、圧倒的賛成。


「では、海上奉仕制度は継続されます」

「多数決なら何でも正しいわけじゃねえぞ!」

「でも多数決です」

「強いな多数決!!」


*


その日から、少しずつ俺を見る目が変わった。


「チカメさんって、福音嫌いなの?」

「そういう話じゃない」

「教祖様も嫌い?」

「それは……」


前世の俺だ。答えづらい。


「嫌いというか、見てると腹が立つというか」

「教祖様を追い払おうとしてたよね」

「釣られるからだ!」

「福音も止めようとしてる」

「針も止まるだろ!」

「チヌ様も否定してる」

「あれは魚拓だ!」


ざわっ。


空気が変わった。


「チヌ様を、ただの魚拓って」

「ただの魚拓だよ!!」

「チヌ様を侮辱した」

「事実を説明しただけだ!」

「海上から見守ってくださってるのに」

「紙だっつってんだろ!!」

「チヌ様のおかげで福音が戻ったのに」

「教祖が釣れたから戻ってきただけだ!」


魚たちが、俺から少し離れた。


キントキダイが小声で言った。


「異端っぽいですね」


「言うな!!」


*


翌朝、俺は目を覚ました。


周囲に誰もいない。


「…………?」


少し泳ぐと、向こうに小魚たちがいた。


「あ」


近づく。


すっ。


群れが離れた。


「…………」


もう一度近づく。


すっ。


また離れる。


「おい。おいって!」


返事がない。


一匹だけ小魚が残り、申し訳なさそうに言った。


「ごめん」

「何が?」

「チカメさんと一緒にいると、福音が来なくなるかもしれないから」

「…………誰が言った?」

「みんな」

「教祖が?」

「言ってない」

「チヌ様が?」

「魚拓は喋らないよ?」


「そこだけ正気に戻るな!!」


*


俺は完全に群れから外された。


福音が降る場所へ行けば魚たちが離れ、餌場の話をしていても俺が来ると黙る。チヌ様の魚拓を否定すれば、嫌な顔をされる。


村八分だ。


村ないけど。


前世では仕事をして、税金を払って、人間関係に疲れて、魚なら楽だろうと思った。


魚になった。


宗教みたいなものができた。生贄制度ができた。多数決で負けた。異端になった。村八分になった。


「人間より展開早くない?」


*


夕方。


俺は一匹で泳いでいた。腹が減ったので餌を探すが、なかなか見つからない。


遠くでは魚たちが集まっている。


その上から――ざばっ。


福音。


「…………」


教祖が来ていた。


「福音だ!」

「今日も来た!」

「チヌ様ありがとうございます!」


俺の腹が鳴った。


行けば食える。


でも俺は福音依存を批判した。海上奉仕に反対した。チヌ様信仰も否定した。


今さらコマセだけ食いに行く?


「…………」


一粒のオキアミが潮に乗って、俺の目の前へ来た。


「…………」


食わない。


俺には思想がある。


二粒目。


「…………」


食わない。


信念がある。


三粒目。


「…………」


ぱくっ。


「うまい」


「…………」


俺は止まった。


周囲を見る。


誰も見ていない。


もう一粒。


ぱく。


「うまい」


もう一粒。


ぱく。


「…………」


俺は理解した。


思想より、オキアミの方が強い。


「見ました」


「!!」


後ろに、小魚がいた。


「…………」


「食べましたね」

「違う」

「何が?」

「これは……」


何だ。


研究。検証。毒見。


「福音ではない」

「オキアミです」

「そう!!」


俺は叫んだ。


「俺はオキアミを食っただけだ!」


「教祖様が撒いた」

「海に入った時点で海のものだ!」

「それ、カワハギさんが言ってました」


「俺はあいつと意見同じかよ!!」


*


翌日、噂は広まっていた。


「福音を否定しながら食べたらしい」

「食べたって」

「三粒」

「五粒らしい」

「十粒だって」


「増やすな!!」


一匹が言った。


「チヌ様に祈らずに食べたらしいよ」


「祈りまで必須になったの!?」


俺が近づくと、魚たちがひそひそ話す。


昨日まで、ただの異端。


今日から、異端で、福音だけは食う魚。


「立場悪化してんじゃねえか!!」


キンメダイが久しぶりに俺のところへ来た。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫に見える?」

「見えません」

「じゃあ聞くな」


キントキダイも来る。


「噂、聞きました」

「忘れろ」

「二十粒食べたとか」

「インフレが止まらねえ!!」


*


そのとき、魚たちの群れがざわついた。


一匹の大きな老魚が、ゆっくりこちらへ泳いでくる。魚たちは道を空け、老魚は俺の前で止まった。


「あなたがチカメさんですか」

「そうだけど」

「福音に反対していると」

「まあ」

「海上奉仕にも」

「反対」

「チヌ様にも」

「チヌ爺の魚拓だ」


ざわっ。


「今それ言わない方がいいですよ」


キントキダイが囁く。


「事実だろ!」


老魚はしばらく俺を見て、静かに言った。


「私も反対です」


「…………え?」


初めてだった。


俺以外の、明確な反対者。


「本当に?」

「はい」


俺は思わず前へ出た。


「分かってくれる魚いた!!」


「ただし」

「ん?」

「理由は、あなたとは違います」

「どう違う?」


老魚は海上レクサスを見る。


そこには、チヌ様と呼ばれ始めた魚拓。


「私は、あそこへ行きたくありません」


「そりゃそうだろ!」


「今は」


「…………?」


老魚は魚拓を見上げた。


「もっと大きくなってから行きたい」


「…………」


俺は黙った。


「今の大きさでは、チヌ様に負けます。あそこへ飾られるなら、チヌ様より大きく残りたい」


「…………」


「ですから、今年の海上奉仕には反対です」


「お前も信者じゃねえかああああああ!!!」


海上では、教祖が今日も何も知らずにコマセを撒いていた。


船の壁では、チヌ様がただの魚拓として飾られていた。


――第十二話 完――



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