福音には対価が必要です
「ばら撒きって強えな」
俺は、福音へ群がる小魚たちを見ていた。
「教祖様!」
「もっと福音を!」
「今日もお願いします!」
海上では、教祖が何も知らずにコマセを撒いている。
ざばっ。
「うおおおおお!!」
魚たちが群がり、大量のオキアミが一瞬で消えていく。
そして、その中には当然――針がある。
「お前ら! 忘れてないよな!?」
「何を?」
「針だよ!」
「ああ。あるね」
「あるね、じゃねえよ!」
小魚は普通にオキアミを食べ続ける。
「でも福音もあるよ」
「だから何でそっちが勝つんだよ!!」
*
その日、教祖はなかなか釣れなかった。
コマセだけが減っていく。カワハギは餌を盗み、フグは糸をかじり、アイゴとニザダイは「糸付きか、糸なしか」で盛り上がっている。小魚たちは安全なコマセだけを食べる。
教祖にとっては、最悪の海だった。
「おかしいですな」
海上から声がした。
「そりゃそうだ! そのまま諦めろ!」
教祖が竿を上げ、仕掛けを確認する。餌がない。
「帰れ帰れ!」
時計を見る。
「よし!」
「帰れ!」
今度はコマセの入った容器を見る。
「帰れ!」
そして――蓋を閉じた。
「よおおおし!!」
俺は歓声を上げた。
「勝った!!」
エンジンがかかり、海上レクサスが動き出す。
「帰ったぞ!!」
キンメダイが言った。
「やりましたね」
「ああ!」
キントキダイも嬉しそうだ。
「これで平和です」
「ああ!」
俺は小魚たちを振り返った。
「見たか!」
誰も喜んでいなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
ものすごく静かだった。
「どうした?」
小魚たちは、海上レクサスの消えた方向を見ている。
「帰っちゃった」
「帰ったよ」
「福音は?」
「…………」
「もうないの?」
「今日はな」
別の小魚が、ぽつりと言った。
「お腹空くね」
「自分で探せよ!!」
*
翌日。
教祖は来た。
「来た!!」
小魚たちが喜ぶ。俺は嫌な顔をした。
「また来た……」
ざばっ。
福音が降る。
「うおおおおお!!」
魚が群がる。
しかし、釣れない。
そして教祖は帰った。
翌日。また来た。
福音。釣れない。帰る。
その翌日も、福音。釣れない。帰る。
そして――さらにその翌日。
教祖は来なかった。
「…………」
海は静かだった。
「来ないね」
「来ないな」
「福音は?」
「ないな」
昼になっても来ない。夕方になっても来ない。
小魚たちは仕方なく、自分で餌を探していた。
「大変だね」
「大変だな」
「教祖様、明日は来るかな」
俺は答えなかった。
分かっていた。
釣り人は、釣れない場所には通わない。
*
その夜。
魚たちが集まった。
「会議をします」
「何の?」
「福音について」
「嫌な議題だな」
キンメダイ、キントキダイ、小魚たち。アイゴ、ニザダイ、カワハギ、フグ。
いろいろな魚が集まっている。
「教祖様が来なくなりました」
「そうだな」
「福音も来なくなりました」
「そうだな」
「困ります」
「自分で飯探せよ」
魚たちが俺を見る。
冷たい目だった。
「何?」
一匹が言った。
「あなたが釣らせないようにしたからでは?」
「…………」
「教祖様、釣れなくなった」
「いや、俺だけじゃないだろ!」
俺はカワハギを見る。
「こいつ餌盗ってたし!」
「食事です」
「フグは糸切ってた!」
フグは何も言わない。
「アイゴとニザダイなんて遊んでたぞ!」
アイゴが言った。
「自己責任だろ」
「急に人間社会みたいな言葉使うな!!」
だが、魚たちの視線はなぜか俺に集まっていた。
「…………」
嫌な感じだ。
俺、これ知ってる。
集団で何か困ったとき、一番うるさく反対していた奴が、だいたい原因みたいにされるやつだ。
「待て。俺はみんなが釣られないように――」
「でも福音がなくなりました」
「…………」
「前は毎日食べられました」
「…………」
「今は?」
「…………自分で探す」
「大変です」
「それが普通の魚だよ!!」
誰も納得していなかった。
俺は魚になって初めて、村八分の気配を感じた。
村ないけど。
*
一匹の魚が言った。
「提案があります」
「嫌な予感しかしない」
「教祖様は、なぜ来なくなったのでしょう」
「釣れないからだろ」
「では、釣れればいいのでは?」
「…………」
俺は止まった。
「どういう意味?」
「たくさん釣られる必要はありません。毎回、一匹」
「…………」
「一匹だけ釣れれば、教祖様はまた来るのでは?」
海が静かになった。
俺は周囲を見る。
誰も笑っていない。
「待て」
一匹が続ける。
「一匹の犠牲で、みんなが福音を得られる」
「待て待て待て」
「合理的です」
「合理的じゃねえよ!!」
俺は叫んだ。
「それ、生贄だろ!!」
魚たちがざわつく。
「生贄?」
「何ですか、それ」
「人間が昔やってたんだよ!」
俺は前世の知識を引っ張り出した。
神に供物を捧げ、恵みを得る。作物や動物、時には――。
「…………」
俺は周囲を見る。
魚たちは真剣に話し合っている。
神に供物を捧げる。
恵みを得るために。
雨。豊作。安全。
そして、ここでは――コマセ。
「…………ああ」
俺は呟いた。
「こうやって昔の人類も、神に供物を……」
「教祖様は神ではありませんよ」
キントキダイが言った。
「分かってるよ!!」
よりによって、俺だよ。
*
問題は、誰を差し出すかだった。
俺はもう会議から帰りたかった。だが帰ろうとすると、魚たちが妙に道を空けない。
「俺、反対だからな」
「分かっています」
「絶対やめろよ」
「分かっています」
「その『分かっています』、採用する気ないだろ」
「では選考に入ります」
「入るな!!」
俺は思った。
こういう話なら、若い魚が犠牲になる。昔話でもだいたいそうだ。
若者。美しい娘。未来ある命。
だからこそ悲劇になる。
一匹の魚が言った。
「年長者がよいのでは?」
「え?」
俺は予想外すぎて止まった。
「なんで?」
「大きいので」
「…………」
「教祖様が喜びます」
「そっち!?」
別の魚も頷く。
「小さい魚では、教祖様が逃がすかもしれません。大きい方が確実です」
「生贄の選考基準が釣果写真なんだよ!!」
魚の世界では、長く生きた魚ほど大きい。
大きい魚ほど、釣り人は喜ぶ。
人間社会と、犠牲にする年齢層が逆だった。
*
群れの奥から、一匹の大きな魚が出てきた。
黒っぽい身体。分厚い背中。周囲の小魚とは明らかに存在感が違う。
「チヌ爺……」
一匹の小魚が呟いた。
「チヌ?」
俺はその魚を見る。
クロダイだ。人間だった頃なら、俺も普通にチヌと呼んでいた。
かなり大きい。長くこの辺りで生きてきたのだろう。
「私が行こう」
チヌ爺は静かに言った。
「行くな!!」
俺は即答した。
「もう十分生きた」
「そういう問題じゃねえ!」
「若い者たちが福音を得られるのなら」
「急に感動的にするな!!」
チヌ爺は海上を見た。
「私一匹で、皆が腹いっぱい食べられる」
「ダメだって!」
「悪くない」
「悪いわ!!」
周囲の魚たちは静かにチヌ爺を見る。誰も止めない。むしろ、感謝している。
「ありがとう、チヌ爺」
「チヌ爺……」
「忘れないよ」
「やめろやめろやめろ!!」
俺はチヌ爺の前へ出た。
「釣られるってことはな!」
言葉に詰まる。
針に掛かる。海上へ引き上げられる。教祖が喜ぶ。
そして――新宿ISE◯AN。
「最終的に価格調べられるんだぞ!!」
「それは少し楽しみだ」
「楽しみにすんな!!」
*
翌朝。
海上からエンジン音がした。
「来た!」
魚たちがざわつく。
海上レクサス。
教祖だ。
「なんで今日に限って来るんだよ!!」
教祖が魚探を見る。
「おや」
魚たちは一斉にチヌ爺を見る。
チヌ爺が前へ出た。
「行ってくる」
「待て!!」
ざばっ。
福音が降ってきた。
だが魚たちは、いつものようには群がらない。静かに道を空ける。
その真ん中を、チヌ爺だけがゆっくりと進んでいく。
「何この儀式!?」
オキアミ。
その中に、付け餌。
チヌ爺が近づく。
「食うな!!」
俺は追った。
だが周りの魚が、俺の前に出る。
「邪魔するな」
「お前ら正気か!?」
「みんなのためだ」
「飯くらい自分で探せ!!」
「福音は楽です」
「本音が軽い!!」
チヌ爺が付け餌を見る。
「では」
「やめろおおお!!」
ぱくっ。
ギュイイイイイイン!!
竿が曲がった。
海上から教祖の絶叫が響く。
「でかいですぞおおおおおお!!!」
「喜んでんじゃねえええええ!!!」
チヌ爺の身体が、水面へ向かって上がっていく。
小魚たちは静かに見送った。
「チヌ爺……」
「ありがとう……」
「忘れないよ……」
そして――教祖が追加のコマセを撒いた。
ざばっ。
「福音だあああああ!!」
「切り替え早っ!!!」
魚たちが一斉に食べ始めた。
ぱく。ぱく。ぱく。
俺だけが海上を見ていた。
チヌ爺は、もう戻ってこなかった。
*
それから、教祖はまた来るようになった。
一匹釣れる。
福音が降る。
魚たちは喜ぶ。
俺は喜べなかった。
そして数日後、小魚の一匹が俺のところへ来た。
「ねえ」
「何?」
「チヌ爺、まだいるよ」
「…………え?」
俺は止まった。
「何言ってんの?」
「見えるんだ。たまに」
小魚は海面を見上げた。
「どこに?」
「海の上」
「…………」
背中が冷たくなった。
魚だけど。
「チヌ爺は教祖に釣られたんだぞ」
「うん」
「戻ってきてない」
「うん」
「じゃあ――」
小魚が海面を見上げる。
「でも、いるよ」
「…………」
「ほら」
俺も見上げた。
海上レクサスが、こちらへ近づいてくる。
船体。白い服の教祖。竿。
そして、船の壁。
何かが黒い。
大きい。
魚の形。
「…………え?」
小魚が言った。
「チヌ爺」
俺は目を凝らした。
船の壁に、黒い魚体。
大きなチヌ。
間違いない。
チヌ爺だった。
「チヌ爺……」
小魚たちが静かに見上げる。
「チヌ様は、今も海の上から我々を見守っている」
「いや、ただの魚拓だから」
「…………」
小魚は嬉しそうに言った。
「ずっと教祖様と一緒にいる」
海上レクサスの壁で、大きなクロダイの魚拓が波に揺れている。
小魚たちは知らない。
あれが何なのか。
ただ、チヌ爺が今も海の上から、自分たちを見ていると思っている。
「…………」
俺は思った。
これ。
宗教でもないのに、どんどん宗教みたいになってない?
そのとき、小魚が魚拓へ向かって頭を下げた。
「今日も福音をありがとうございます」
「そいつに祈るなああああああ!!!」
一匹。また一匹。
小魚たちが、海上の魚拓へ頭を下げ始める。
教祖は何も知らずにコマセを撒いた。
ざばっ。
福音が海へ降り注ぐ。
「チヌ爺が福音をくださった!」
「違う!!」
「チヌ爺ありがとう!」
「撒いてるのは教祖だ!!」
「チヌ爺が教祖様のもとへ行ったから、福音が戻ったんだ!」
「因果関係だけ妙に合ってるのやめろ!!」
そして一匹が、ぽつりと言った。
「チヌ爺じゃないよ」
「?」
別の小魚が聞いた。
「じゃあ何?」
その魚は、海上の魚拓を見上げたまま答えた。
「海上へ行ったんだから――」
一拍。
「チヌ様」
「昇格させるなああああああ!!!」
「チヌ様!」
「チヌ様!」
「福音をありがとうございます!」
「もう広まってる!!」
海上では、教祖が今日も何も知らずにコマセを撒いていた。
そして船には、ただの魚拓が貼られていた。
――第十一話 完――
【教祖と海の経典】
■ カワハギ
名前の通り、皮を簡単に剥ぐことができる魚ですな。
釣りでは小さな口で器用にエサだけ取っていくため、「エサ取り名人」としても知られておりますぞ。
肝醤油で食べる刺身は絶品ですな。
■ キタマクラ
フグ科の小型魚ですな。
皮膚や内臓などに毒を持つため、食用には向きませんぞ。
名前の由来もなかなか物騒ですな。
■ チヌ
クロダイの別名ですな。
沿岸や堤防、磯など身近な場所にも生息し、釣りの対象魚として人気がありますぞ。
警戒心が強く、なかなか一筋縄ではいかない魚ですな。
■ アイゴ
磯場などに生息する海水魚ですな。
背びれ・腹びれ・尻びれのトゲに毒がありますぞ。
釣り上げても、うっかり握ってはいけませんな。
■ ニザダイ
磯場などでよく見られる海水魚ですな。
釣り人からは「サンノジ」と呼ばれることもありますぞ。
■ 海上レクサス
レクサスの高級クルーザーですな。
無論、わたくしの私物ですぞ。
■ コマセ
魚を自分の釣り場へ集めるため、海へ撒いたり仕掛けのカゴに詰めたりするエサのことですな。
いわゆる撒き餌・寄せ餌ですぞ。
主なものにオキアミ、アミコマセ、イワシミンチなどがありますな。
■ 福音
コマセのことですぞ。
海の者は、ありがたがってそう呼んでおりますな。
■ 新宿ISE◯AN
新宿にある伊勢丹ですぞ。
値段もクオリティも日本最高峰クラスですな。
■ 某高級百貨店
新宿高島屋ですぞ。高級鮮魚売り場もありますな。
新宿にはほかにも、小田急ハルク、京王、伊勢丹など鮮魚を眺められる場所がありますぞ。
私の毎日の散歩コースですな。
■ チカメキントキ
赤い魚。本作の主人公。
値段は……まあ、微妙ですな。
■ キンメダイ
赤い魚。
伊豆では立派な高級魚ですぞ。
■ キントキダイ
赤い魚。
チカメキントキによく似ていますが別種ですな。
■ オキアミ
釣りでよく使うエサですな。
コマセにも付けエサにも使えますぞ。
尾びれの付け根付近に硬い骨質板がありますので、素手で扱うときはお気をつけくだされ。




