決意
朝日が窓から差し込み、部屋を淡く照らす。穏やかな朝だ。けれどフィオラは一睡もできなかった。寝られるはずがなかった。
赤く腫れた目を鏡に映しながら、昨夜の日記へと視線を落とす。そこに記された日付が、この現実が夢ではないことを残酷なほどに突きつけてくる。
もう二度と、誰も信じない。もう二度と、愛を願ったりしない。
奥歯を噛み締め、鏡に映る愚かな自分をきっと睨みつけた。
「失礼いたします」
朝の支度をすべて終えた頃、ダリアスがフィオラの元へやって来た。相変わらず美しい彼に思わず息を呑み、我に返って頭を振る。すぐに彼に引きずられてしまいそうになる自分が嫌になる。
「お嬢様、本日のご予定ですが午前は領民の治療でございます」
遠慮のない、空気を割るような侍女の声。反射のように肩が強ばる。喉を上下させて、フィオラは口を開いた。
「行かないわ。治療なんてしない」
「……お嬢様、お戯れはおやめください。大公様がお決めになられた予定です。聖女としてのお役目を果たされてください」
予想もしてない彼女の返答に侍女は一瞬目を丸くする。しかし子供の我儘だと思ったのか、淡々と話を進めていく侍女をフィオラは鼻で笑った。
役目。その一言だけでどす黒い何かが胸の中で広がっていく。ここにいる人間たちはまた、自分を使い潰す気なのだ。何の躊躇いもなく。
「役目ですって?ふざけないでよ」
そう言って近くにあった手鏡を手に取り、侍女に投げつける。肩辺りに命中し、侍女は呻き声と共にしゃがみ込む。手鏡が割れる音が響いた。
「私は大公閣下の駒なんかじゃない」
割れた鏡の欠片を握り、一歩ずつ侍女に近づく。手から血が滴り落ちるが、そんなことはどうでも良かった。
下手に出たら舐められる。舐められたら、負けだ。
「大公閣下に伝えてくれる?フィオラお嬢様は体調が優れないって。治癒術師を呼んでくれるまでは誰も治さないって」
鏡の欠片を侍女の顔に当てながら、不気味な笑顔でそう告げる。侍女の左の頬はフィオラの血で赤く染まっているのに、その顔は真っ青だ。
「ねぇ、聞いてる?」
こくこくと頷くだけの侍女を見て言葉を続けようとしたその時、後ろから手首を強く握られ引っ張られた。
「お嬢様、それ以上はおやめになった方がよろしいかと」
ダリアスが冷たい目で彼女を真っ直ぐ射抜く。その双眸があの日の昏い瞳と重なって見える。手首が、欠片を握った手が、そして心がズキズキと痛む。フィオラは乱暴にその手を振りほどいた。
「貴方は私の護衛でしょう!?守るべき対象が違うんじゃないの?勝手なことしないで!」
フィオラの矛先がダリアスに向かっている隙に、侍女はバタバタと部屋から出て行った。それを見てダリアスをキッと睨みつけた。
「貴方のせいで出て行ったじゃない!」
「そんなことより、お手を」
そう言ってダリアスの両手が血だらけになった手を包み込む。フィオラの顔に熱が集まる。それを見られたくなくて咄嗟に顔を伏せた。
「治癒魔法は術者本人には使えないのですから、余計なことはなさらないように」
窘めるような口調で言いながら傷口を確認すると、室内の薬剤が保管してある棚のところへ歩いていき、ひとつひとつ薬瓶の中身を確認していく。そして紫色の瓶と包帯を手に持ち、またフィオラの前へと戻って来る。
「よ、余計なことじゃないわ!何も知らないくせに!」
ぼろぼろの身体になるまで治癒魔法を使い続けても、貴方は一度だって止めてはくれなかったじゃないか。その言葉が喉まで込み上げてくるのを飲み込んだ。
過去では三年間一度だって自分を止めなかった彼が、今回は出会ってたった二日で自分を止めた。しかも、侍女をかばう形で。自分は自身を守ろうとしただけなのに。
自分を守ろうとしたことは余計なことで、周りにいいように利用され、壊れるまで働かされることは余計なことではないというのか。口の中に苦い味が広がる。目に涙が滲みそうになるのを頬の内側を噛んで必死で耐えた。
「そうですね。何も知りません。……お手を」
慣れた手つきで瓶の栓を開け、布に薬液を染み込ませながら抑揚のない声でダリアスが言う。
「このくらい自分でできるわ!放っておいて!子供扱いしないで!」
「……お嬢様は子供です。利き手を怪我されては包帯もご自身では巻きにくい。……お手を」
何も言い返せずに手を差し出すと、ダリアスは丁寧に処置をしていく。その優しい手つきに、まるで自分は大切なものなのではと錯覚しそうになる。そんなこと、あるはずがないのに。
心の中で自嘲する。そして侍女の言葉を反芻した。
――聖女としての役目。
聖女なんてくだらない称号はもういらない。人に罵られたって構わない。悪女と呼ばれたっていい。
――今度こそ、生きてやる。




