回帰
「……承知しました。ではまた明日お伺いします」
ダリアスはそう言って静かに一礼する。明日からもずっともう来なくていい、そう言いたいのに喉に引っかかって言葉が出てこない。まるで、本当はそんなことを言いたくないと心が叫んでいるかのように。
「失礼いたします」
去っていく彼の背中をいつまでも見続けてしまう。そんな自分に腹が立つ。フィオラは唇を噛んで、無理やり視線を断ち切った。
***
夜になり、彼女は一人椅子に腰掛けて机に向かっていた。今日は色々と理解できない不可思議なことばかりで、胸の奥が落ち着かない。
魔物に襲われて噛みちぎられたはずなのに、誰もそのことには何ひとつ触れやしない。そもそも傷ひとつ残っていないし、痛みもない。
痛みと言えば治癒魔法を酷使したことによる身体の不調すら、今日はほとんど感じない。たまに軽い頭痛がある程度だ。
それに何より、ダリアス。あの初対面の再現のようなものは一体なんだったのか。そして彼本人も記憶の中の彼より明らかに幼かった。
違和感ばかりが募っていく。
気持ちを落ち着けようと彼女はいったん席を立ち、棚から果物ナイフを取り出した。予め侍女に持ってこさせておいたテーブルの上の林檎を布で丁寧に拭く。使用人たちに任せたらいつ何を仕込まれるか分かったものじゃない。そんなことを思いながら林檎の皮を器用に剥き一口サイズに切り、皿に乗せていく。
いつもなら痛みでもっと手がもたついてしまう。それなのに、今日はやけに簡単に皮が剥けた。その現実にまた驚く。
切った林檎を口に入れ、しゃくりと噛むと爽やかな酸味と甘さが口いっぱいに広がる。頭の中まですっきりした気がしてくる。
フィオラはふと思い立ち、ナイフを乗せた皿ごと持って机にまた移動した。そして、引き出しを開ける。
そこから取り出したのは一冊の日記帳。頭でいくら考えても埒が明かないので今日の違和感を書き溜めておこうと思ったのだ。ゆっくりとページをめくる。そして、手が止まった。
「……え……?」
思わず掠れた声が漏れる。開いたページは三年も前のものだった。
そんなはずがない。身体が動きにくくなってもなお、毎日のように書き続けていたのだから。
フィオラは慌ててページをめくる。次も、その次のページも。けれど記されている日付はどれも三年以上前のものばかりだった。小刻みに指先が震える。
ありえない。そんなことがあるはずがないのに。
「……嘘……」
使用人たちの反応。軽い身体。義父との面会。そして、ダリアス。今日感じた違和感が、バラバラだった欠片が、音を立てて繋がっていく。
「まさか……」
机に肘がぶつかり皿が床へ落ちる。林檎が転がり、果物ナイフが甲高い音を響かせた。そんなことすら耳に入らない。唇から血の気が引いていく。
「じゃあ、私は……」
森で魔物に喰われて、死んで。そして――。
「…………戻った?」
その一言を口にした瞬間、全身が凍りついた。
生き返ったのではない。助けられたのでもない。時間そのものが巻き戻っている。
「う……っ」
猛烈な吐き気が込み上げ、口元を押さえる。
十三歳で死に、十歳に戻った。それが事実なら。
「どうして……」
何が変わるというのだ。知識も。力も。味方も。何一つない。
また同じ地獄を最初から味わえと言うのか。また裏切られろと言うのか。また魔物に喰い殺されろと言うのか。
「……嫌」
喉が震える。
「もう、嫌……」
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。涙が次から次へと零れ落ちる。こんな思いをするくらいなら、もうあの時に死んで終わってしまいたかった。
けれどそれすら許されない。
彼女は神様にすら見放されているという現実に絶望した。
***
呆然としてしばらくへたりこんだまま動けずにいた彼女は、急に我に返ったかのように顔を上げた。
――このままでは、また同じ未来になる。
またぼろきれのように使い潰されてしまう。馬鹿にされたまま、使い古した道具のように扱われてしまう。身体が、また壊れてしまう。
裏切られて。傷つけられて。利用されて。最後には殺されてしまう。
「……っ」
そんな未来だけは、もう嫌だった。
言いようのない怒りが、フィオラの中に昏く渦巻いていく。それは周りの人間たちに対してだけでなく、無力な自分に対しての感情でもあった。
彼女は震える手で床に落ちていた果物ナイフを拾い、立ち上がる。ナイフを持ったまま向かったのは日記を広げてる机の前。
胸の奥で、何かがぷつりと切れる。ザクリと机にナイフを突き刺した。
「誰もいらない……!許さない……!信じない……
!死んで、死んで、死んで……!」
月明かりがかすかに差し込む暗い部屋からギリギリと音がする。ナイフが机の木目を噛み、ささくれを散らしながら机を深く抉っていく。机にぽたりと涙の染みが広がった。




