目覚め
***
「……っ!?」
フィオラは弾かれたように身を起こした。咄嗟に周囲を見るも、見慣れた調度品が並ぶばかり。どうやら自分の部屋のようだ。彼女はベッドの上にいた。
森に、いたはずなのに。
理解が追いつかない。呼吸は乱れ、心臓が激しく鳴っている。耳の奥にまで鼓動が響く。全身が汗でびっしょり濡れている。
魔物に襲われた感覚が今も残っている。
ガチガチと顎が鳴る。震える全身を抑えようと膝を抱えるが、少しも落ち着く気配がない。
(……誰かに、助けられた?)
そう思うものの、身体は少しも痛くない。あんなに全身噛みちぎられたのに?
そこまで思い返し、森での記憶が鮮明に蘇り胃の奥がせせり上がる。
「……っ!」
堪えきれず胃の中のものを吐き出した。苦しい。怖い。
あれは夢だったのか。いや、まさかそんなはずがない。あんな恐怖が夢であるわけがない。牙が肉を裂く音も、骨が砕ける痛みも、血の臭いも、すべて覚えている。
やっとの思いで震える手を伸ばし、鈴を鳴らす。
侍女たちは部屋に入ってくると、床に散らばった吐瀉物にほんの一瞬眉をひそめた。それを見てフィオラの肩が強ばり顔を逸らす。
「……失礼いたします」
そう言って淡々と片付けていくのを視界の端で感じながらフィオラは気づく。傷がない。魔物に食い裂かれたはずの身体に、ひとつも。
「お嬢様、今日は大公様とお会いする特別な日なんですからしっかりして下さいね」
混乱している耳に届いた侍女の何気ない言葉。フィオラはぴくりと反応した。
(……特別な日?)
聖女という呼び名が広まってからは、義父と会うことは特別なものではなくなっていたはずだ。それなのにこの侍女は、なぜこんなことを言っているのだろう。
すべてがまったく分からないまま身支度だけが整えられていき、執務室へと案内される。
すれ違う使用人たちを見るたびに心がざわつく。本当は自分を馬鹿にしているくせに、わざとらしく頭を下げる姿に心がささくれる。苛立ちが募る。
そしてその間も、フィオラは不思議な感覚に襲われていた。
足がもつれない。耳鳴りもしない。息切れもしない。身体が羽のように軽い。あれほど当たり前だった痛みが、どこにもなかった。
いつもの半分の時間で執務室へと到着する。重厚な扉をノックして入室するや否や、フィオラは目を見張る。義父の近くには、ダリアスが控えていた。
――記憶よりも遥かに幼いダリアスが。
目の前のダリアスは出会った当初と同じくらいの背格好に見える。そういえば、初めて会ったのも執務室だった。まるで初対面をやり直しているような感覚に襲われる。もしかしたら夢でも見ているのだろうか。
現状を理解しきれずにいるフィオラを尻目に大公が機嫌よさそうに口を開いた。
「お前も最近よくやっているようだし、そろそろ護衛でもつけようと思ってな」
「ダリアス・ガレオン・バデアラと申します」
あの昏い瞳が脳裏を過ぎり胸をしめつける。
もう誰も信じない。この人だってどうせ自分のことを内心では嘲笑っているはず。この人のことも、もう信じてはいけない。
そう思うのに、どうしても視線だけは彼を追ってしまう。自分の意志に反して見てしまう。あれほど傷ついたはずなのに。
***
執務室を出て歩き出し、当たり前かのようにダリアスが後ろに控える。背後が落ち着かない。
いつ背中から襲われるか分からない恐怖。そしてダリアスの存在が近くにあることに胸が落ち着かなくなる感覚。フィオラは口の中に乾きを感じた。
「ダ、ダリアス」
思わず上擦った声が出てしまう。咳払いして誤魔化したが彼の返答はいつも通りの感情のない声だった。
「はい」
ダリアスが一歩フィオラに近づくが、その瞬間彼女の体がびくりと跳ねる。それを見た彼は、それ以上踏み込んでこようとはしなかった。
――怖い。
ダリアスのあの昏い双眸が、弾かれたように距離を置かれた光景が、頭にこびりついて離れない。その苦しさに耐えきれずにフィオラは口を開いた。
「私は一人で大丈夫だから、ついて来ないで」
その言葉にダリアスがわずかに目を見開く。彼のこんな表情を見たのは初めてかもしれない。
「ですが……」
「ごちゃごちゃ言わないで」
彼の言葉を遮り彼女は言葉を続ける。侮られまいと彼女は目を吊り上げて精一杯彼を睨みつけた。
「貴方のことなんて、信じない」
その言葉が自分自身の胸まで鋭く抉る。ダリアスは何も言わなかった。ただ、その青灰色の瞳が静かに揺れている。それだけのことなのにフィオラは視線を逸らす。
――騙されるな。
誰もが息を吐くように嘘をついていた。どんな言葉も眼差しも、すべて偽物だ。
誰も自分を愛してなどいない。誰も味方にはならない。信じた先にあるのは、裏切りだけ。
――だから、信じたら、負けだ。




