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気づきと死と

目の前に横たわる少女だけがやけに鮮明に見えるこの状況の中で、ダリアスはしばらくその場から動くことができなかった。


ダリアスはゆっくりと膝をつく。そして手を伸ばそうとするが、その手は明らかに震えている。


掌に爪跡ができるくらいにぎゅっと拳を握り締めて再びゆっくりと手を伸ばすと、指先がフィオラの赤黒く染まった頬に触れる。




――冷たい。




「……お嬢様」


返事はない。あるはずがない。それでも、気づけば口から零れ出ていた。


――『ダリアス、どうしたの?』


――『今日もよろしくね』


――『いつもありがとう』


いつもならすぐに澄んだその声が返ってくるのに、いくら待ってもその声は聞こえてこない。聞こえてくるはずがない。……分かっているのに。


「お嬢様……血で、汚れています」


そう言いながらポケットからハンカチを取り出す。白いハンカチを。フィオラから贈られた、刺繍の入ったハンカチを。


頬にこびりついたそれをそっと拭うと、乾きかけた血が布に擦り取られ白いハンカチが赤黒くなる。刺繍も赤黒く染まっている。


――彼女が自分のために縫ってくれた、少し歪な百合の刺繍が。


「……っ」


ダリアスはハンカチを手にしたまま奥歯を噛み締める。比較的損傷の少ない顔しか見ることができない。体を見てしまうと、否が応でも現実をつきつけられてしまうから。


フィオラを果てしない孤独と耐え難い恐怖と激しい苦痛の中で死なせてしまったことに。


そしてこの赤黒い血が時間の経過をありありと証明している。


――長い時間、こんな状態で、独りで。


「……フィオラ……」


声はひどく掠れている。口の中は乾き切っている。


毒でどちらにしても命を助けることはできなかっただろう。しかしそれでも、こんな最期を迎えさせたくはなかった。


ぽたりぽたりと地面に何かが落ちる。それが何かは分からないまま、ダリアスは血塗れでぼろぼろになってしまった彼女をそっと包み込むように抱きしめる。そうすれば、フィオラが温かさを取り戻すような気がしたから。


しかしそれが叶うことはなく、いつまでもフィオラは冷えきったままだ。


分かっている。分かっているのに。


――『貴方が、フィオラを殺したの』


どこからかイゾッタの声が聞こえてきた気がした。


「……その通りだ……」


もっと早くに森に到着していれば。最後のチャンスだとイゾッタに言われた時に結婚すると言っていれば。抱きしめ返していれば。今日フィオラを拒まなければ。紅茶が毒だと疑っていれば。最初に結婚を打診された時に受け入れていれば。護衛の話を受け入れていれば。イゾッタの話を信じていなければ。


自分が一つでも選択を誤っていなければ、違う未来もあったはずなのに。フィオラを生かせたはずなのに。守るべきだった彼女は今、こんなにも冷たい。


自分が、彼女を殺したのだ。


視界が滲んでいく。先程からぽたりと落ちていたものが頬を伝っていく。ダリアスはそれを指で触れるとようやく、それが涙であると認識した。しかし拭っても涙は止まることなく次から次へと溢れてくる。


そんな彼の瞼の裏に浮かぶのはきらきらとした笑顔でこちらを見るフィオラだった。蜂蜜色の髪をたなびかせて青い空のような瞳を輝かせ、花が咲くような顔で笑うフィオラだった。


それなのに今目の前にいる彼女は血で赤黒く汚れ、噛みちぎられ、その瞳は閉じている。


もう二度と、その青い瞳が自分を見ることはない。もう二度と、あの澄んだ声を聞くこともない。




――フィオラを、愛していたのに。




息が苦しい。身体が軋む。意識が朦朧とする。手が震える。それは毒のせいなのか。フィオラの死がもたらしたものなのか。それすらもう、ダリアスには判別できなかった。




ダリアスがフィオラを抱きしめていると、遠くからかさかさと音が聞こえてくる。近くの茂みが大きく揺れる。風ではない。何かが近づいてくる音。


体はもうこんなにも毒に蝕まれているというのに、それでも騎士としての習性で体が強ばる。


低い唸り声が森の奥から響いた。


ダリアスはフィオラへと視線を落とし、抱きしめていた彼女をそっと地面へと置く。名残り惜しそうにゆっくりと彼女から手を離し前を見据えると、霞む視界が魔物を捉えた。


(三体……か)


ダリアスは剣の柄へと手を伸ばす。


本来ならばさほど脅威ではない。万全の状態ならば一人でも難なく倒せる。


しかし今の自分は違う。毒が回り全身が痛む。足元は覚束ない。腕にも力が入りにくい。それでも今、立ち向かわない理由はなかった。


ダリアスは剣を抜き踏み込んで横薙ぎに振り抜く。弱々しい踏み込みであるもののどうにか刃が魔物の首元を捉え、巨体は傾いて大きな音を立てて倒れた。


(……あと……二体……)


まだ一体しか倒せていないというのに彼の呼吸は荒れ、肩は大きく上下している。そんなダリアスに向かって勢いよく突っ込んでくる魔物に、彼は半歩だけ身を引く。爪が肩を掠めるも、すでにある激痛でもはや肩が痛いかどうかすら分からない。下から斬り上げ、剣が魔物の体を貫く。


(……くそ……)


次で最後。それなのに、ダリアスは膝をついている。足に力が入らない。ふらついて、もはや立つことすら叶わない。


立て。動け。剣を構えろ。そう命じても、もう体は言うことを聞かなかった。


――ならば、せめて。


ダリアスは半ば這いながらフィオラの元へ行き、彼女に覆い被さるように魔物に背を向ける。


敵を前にして背を向けるなど、騎士としては失格だ。しかし、もうこれ以上彼女に傷をつけたくはなかった。




全身を引き裂かれるような激痛が走る。


何かを噛みちぎるような音が、噛み砕くような音が森の静寂の中に響く。




ダリアスはフィオラに覆い被さったまま、守るように腕をだらんと伸ばしていた。

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