死との対面
呼びかけても呼びかけても、声が返ってくることはない。そうこうしている間にもダリアスの体は毒に蝕まれていき、どんどん動かなくなっていく。
(……くそ……)
己を奮い立たせ足を引きずりながら歩く姿はまるで、幾つもの年月を背負った老人のようだった。しかしそれでも、彼は足を進めることをやめなかった。
銀の光を頼りに歩いていくと、不意に鼻が嫌な匂いを捉える。
(この匂いは……)
魔物寄せ特有の濃厚な甘い匂い、獣臭、そして――血の匂い。
「……っ!」
これらの匂いから想起された最悪の事態にダリアスの顔はみるみるうちに青くなっていく。
(いや、違う……そんなはずがない……魔物同士が争った可能性だってあるだろう)
――そうでなくとも、この血の匂いがフィオラのものであるはずがない。
――そんなことが、あってはならない。
心の中で暗示をかけるかのように何度もそう言い聞かせながら、匂いの先を辿る。一歩足を踏み進めるたびに、不吉な匂いも不穏な気配もより濃くより強くなっていく。
進まないといけない。早く見つけたい。
進みたくない。見つけてしまいたくない。
相反する思考が頭の中でぐちゃぐちゃになって呼吸が苦しい。心拍数がどんどん速くなっていく。
(……違う、違う……。これは毒のせいだ……)
胸に拳を当てて数回打ちつける。まとまらない思考も言いようのない焦燥感も、溢れてくる恐れも、すべて毒の影響だ。そうでないと、自分は……。
***
どれくらい歩いただろうか。
長い時間経った気がするが、ろくに歩くことすらできないこの体だ。大した時間は経っていないのだろう。大した距離を歩けてもいないのだろう。
それでも足を進めていると、木々の向こうに何かが横たわっているのが見えた。
――本能が警鐘を鳴らす。
嫌な予感がして不意に足元に目をやると、足元には黒ずんだ何かが滲んでいた。
ダリアスは足を止めた。銀灯花の淡い光では、それが何なのかまでは分からない。
(……こんなもの……いつから……)
咄嗟に振り返りこれまで歩いてきた道を目で追うと、足元にあったものと同じ黒い痕が点々と続いている。まるで、何かを引きずったかのように。
ダリアスは息を呑んだ。
――どうして、今まで気づかなかった?
ここを通ってきたはずだ。それなのに、目に入っていなかった。
視界が暗いせいだけではない。鈍った頭では目の前にあるものすら正しく捉えられなくなっている。
そう気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
ダリアスはしゃがみ込み、銀灯花の光に目を凝らした。黒く見えていたものが、わずかに赤みを帯びている。
――血。
予想はしていたもののそれを確信した瞬間、全身が急に凍りついたかのように冷たくなる。
ダリアスは弾かれたように振り返り、先ほど見た横たわっている何かへと視線を戻す。
(ならばあれは、やはり)
――早く確認しなければ。走らなければ。
覚束ない足取りで次第に速度を上げていくも、全身の至るところに痛みが走る。終いには木の根に足を取られ、身体が大きくよろめく。倒れそうになった身体を、咄嗟に木の幹へ手をついて支えた。
(……くそ、動け……)
――フィオラ、フィオラ、フィオラ。
ふらつきながら、転びそうになりながら、ダリアスは必死に前へ進んだ。
そして木々の向こうに横たわっていたもののすぐそばまで駆け寄ると足を止め、目の前に横たわるものへと視線を落とした。その途端、膝から力が抜けそうになる。
最初に目に入ったのは裂けた衣服だった。泥と血に汚れ、あちこちが無残に引き裂かれている。その隙間から覗く肌にも、幾つもの傷が刻まれていた。
周囲の草は踏み荒らされ、地面には乾きかけた血が黒い染みとなって残っている。
――魔物に襲われた。
そう理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
しかしそれが何者なのか。ダリアスはすぐには考えようとしなかった。脳が思考を拒んでいるかのように。ただそれでも、視線だけはゆっくりと身体を辿っていく。
人の腕。細い指。血に濡れた髪。
魔物に喰われ身体の一部を失っていたとしても、それが人間であることだけは疑いようがなかった。
――ならば、誰なのか。
確かめるまでもなかった。
何度も目にしてきたはずの髪。見たことのあるドレス。震えそうになる指先を握り締める。
そして、恐る恐るその顔へと視線を向ける。
見間違えるはずがない。
青白い頬も、閉じられた瞼も。
引き裂かれ血塗れになり、見るも無惨な姿に成り果ててしまっているその人は……。
誰よりも自分が美しいと思っている彼女。三年以上共に過ごしてきた彼女。
――フィオラ。
そう認識した瞬間、ダリアスの世界から音が消えた。




