運命の日
その日は朝から不快だった。
***
数日前から体の節々に痛みを感じてはいたが、今日はその痛みの鋭さが増している。筋肉痛ともまた違う。体の内側から蝕まれているような感覚。少し息苦しさまである。
(風邪でも引いたか……?)
ただでさえフィオラには持病があるのだ。彼女にはうつさないようにしなければならない。咳払いをしながらそんなことを考えていると、目の前に影が伸びる。
「ちょっとダリアス、貴方私の言ったこと全然してくれてないじゃない」
唐突にイゾッタが話しかけてきたと思えば怒りをぶつけられ、ダリアスは眉根を寄せる。しかしそれ以上に目の前のイゾッタは眉間に皺を寄せている。最近の彼女はよくダリアスに怒りの感情をぶつけてくる。
今はフィオラの護衛に向かう時間だ。余計な手間は取られたくないというのに。
「……何のことでしょう」
「フィオラのことよ。フィオラと庭師見習いの話」
その言葉にダリアスの目つきが僅かに鋭くなるが、イゾッタはそんな彼のことはお構いなしに言葉を続ける。
「あの二人、親密度が増してるじゃない。この前なんか庭園で体を寄せ合ったりして、終いには抱きしめ合ってたわよ」
――まるで頭を鈍器で殴られたようだ。
脳が思考を拒む。イゾッタの話がまるで耳に入ってこない。怒りでも悲しみでもない。しかし決して快とは言えない感情が腹の中でぐつぐつと沸騰している。そして、なぜ自分がそんな状態になっているのかも分からない。
気づけばダリアスは足早に庭園へと向かっていた。
***
庭園はいつも通り穏やかだ。朝の光が昨日の雨で濡れた石畳を優しく照らし、花々は咲き誇っている。遠くでは小鳥がさえずり、噴水から流れ落ちる水の音が静かに響く。
しかしそれとは対称的にダリアスの心は荒波のように揺れている。理由も分からないまま焦燥感に支配されていた。
庭園を見渡しながら歩いていると、探していた人物が視界に入る。――フィオラが。フィオラが男と抱きしめ合っている姿が。
体温が急激に冷えていく感覚に襲われ、一瞬足から力が抜けそうになる。
――『この前なんか庭園で体を寄せ合ったりして、終いには抱きしめ合ってたわよ』
ああ、イゾッタの言っていたことに嘘偽りはなかったのか。いや、彼女の言葉が真実だからと言って何だと言うのだ。
ダリアスはゆっくりと一歩ずつフィオラの元へ足を進める。
「お嬢様、何をなさっているのですか」
その声は自分でも驚くほど冷えて掠れていた。
「ダリアス、えっと、その、あの……」
しどろもどろになりながら何かを言おうとするフィオラを見て苛立ちが募る。
自分に恋路を反対されていることを恐れているのか。そんなに関係を誤魔化したいのか。そうまでして、この男との関係を守りたいのか。
すると不意に、フィオラの手がダリアスの腕へと伸びる。
「……っ」
――あの男を抱きしめた手で、俺に触れるな。
ダリアスは反射的に身を引いてその手を拒否する。しまった、そう思った時には遅かった。フィオラは明らかに傷ついた顔をしている。
「……申し訳ございません」
その言葉にフィオラは返事をせず、ただ顔を俯かせる。そしてしばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「……ごめんね。今日は護衛、無しでお願い。……一人でいたいの」
ぽつりと呟くような小さな声。
どんな状況でも護衛は必要だろう。そう思うのに、ダリアスは言葉を発することができなかった。
(……体が、重い)
フィオラが部屋へと戻ってからも彼はただ立ち尽くしていた。
***
「ダリアス、どう?見た?」
「イゾッタお嬢様」
薔薇の香りが吐き気を促して妙に気持ちが悪い。後ろから声を掛けられ肩越しにイゾッタを見ると、彼女は薄らと笑みを浮かべながらダリアスへと近づいてくる。薔薇の香りがどんどん濃厚になり、不快な感覚が増していく。
「ねぇ、見たの?抱きしめ合ってるところ」
「……はい」
ダリアスがそう答えるとイゾッタの口角はさらに上がる。彼女は眉を八の字にして、情けないものに施しを与えるような顔で口を開く。
「ふふ、可哀想なダリアス」
「……は?」
「せっかく誠心誠意尽くしていたというのに、こんな形で裏切られるなんて」
「……語弊があります。私は尽くしたのではなく護衛として責務を果たしていたまでです。そして……お嬢様が誰と恋仲になろうと……私が口出しする権利はございませんので」
言いながら吐き気はさらに強くなっていく。
「そうね。貴方はただ護衛をしただけ。フィオラとも何も特別な関係ではないものね。でも、自分で気づいてない?」
イゾッタはダリアスの頬にそっと手を添え、言葉を続ける。
「貴方、傷ついた顔してるわよ?」
そう言って彼女は距離を詰めていき、ダリアスとの間の距離はなくなる。
イゾッタはそっとダリアスに身を寄せる。彼女の腕が背中へと回る。
――拒否をする気すら、おきない。
鼻につく薔薇の香りに胃の底から込み上げてくる吐き気を感じながら、ダリアスは腕をだらんと伸ばしてただぼんやりと立っていた。




