穏やかな時間
――三年も関わってきた。
その関わりの中で培ってきた彼女への情は確かにある。それでも、その情の中で自分でも不可解なこの感情も蠢いている。それがどうしようもなく不快で気持ち悪い。自分を自分たらしめなくなる感覚で、居心地が悪い。
***
「あのね、これ、ダリアスに渡したくて」
ある日の昼下がり、ダリアスの元に駆け寄ってくるフィオラにダリアスは小さく眉根を寄せる。
(そんな足取りで……。まともに歩けてないじゃないか)
今にも転びそうな危なげない彼女を制して自身がフィオラの前まで歩き立ち止まると、彼女はハンカチを手渡してくる。そして彼の目は何気なく視線をうつしたハンカチの刺繍に釘付けになる。
「これは……」
歪な百合の刺繍。見る者によっては、これが何の刺繍か分からないだろう。
――バデアラ家の、家紋だ。
それを見ただけでダリアスは瞬時に理解する。
適当な図案ではない、家紋の刺繍。これは他の誰でもない、自分だけのために、自分に宛てた、彼女からの贈り物なのだと。
「いつも私を守ってくれてありがとう」
穏やかに澄み切った蒼い瞳がダリアスを捉える。そのまっすぐな笑顔に、吸い込まれたように目が離せない。いつまでも見ていたくなるような笑顔だった。言葉が何も出てこない。
「あ、あのね!この前夜に私庭師見習いの男の人と話してたでしょ?」
唐突に話題を変えられ、ダリアスのハンカチを持つ指先がぴくりと動く。
――なぜ今、その男の話題が出てくるんだ。
黒い染みが胸にぽたりと落ちる。体の中の温度が急激に冷えていく。
「私ってば刺繍が下手で図案だけじゃよく分からなくて。だから百合の花について教えてもらってたの」
はにかみながらそう言うフィオラに、ダリアスは僅かに目を瞬かせる。自分に贈る物を作るためにあの男と一緒にいたのかと思うと、胸の中でごちゃごちゃに絡まっていた何かがほんの少しだけ緩んだ気がした。
「へ、下手くそだよね、ごめんね……!」
申し訳なさそうな顔をしたフィオラが焦った様子でハンカチを回収しようとする。ダリアスが何も返事をせずにいたせいで不安になったのだろう。ようやくそのことに気づいた彼は抑揚のない声で礼を告げ、ハンカチを丁寧に畳み直し自身の内ポケットへと仕舞おうとする。
その時ふわりとスミレの香りが鼻腔をくすぐる。彼女の香油の香りがハンカチにうつったのだろう。そうして彼の内ポケットに収まったハンカチ。それははまるで胸に楔を打たれたように、しっかりと彼の中に刻み込まれていた。
「あらフィオラ、そんなところにいたのね」
「お姉様!」
突然聞こえてきたイゾッタの声。ダリアスからすれば何の感情も湧かない彼女の姿だが、妹であるフィオラにとってはそうではないようだ。
フィオラはよく懐いている仔犬のように喜んだ様子でイゾッタと近づき、姉に頭を撫でられている。もし彼女が本当に犬だったならしっぽをちぎれんばかりに振っていたことだろう。
――本当に仲の良い姉妹だな。
微笑ましい光景にダリアスの頬が緩みそうになる。持病で苦しい思いをすることの多いフィオラだが、姉の存在に大きく救われているのだろう。
「これ、商人から買ったの。フィオラにあげるわ」
イゾッタはそう言ってフィオラに異国の珍しいお茶だと言って銀色の缶を渡す。
「フィオラへの贈り物だから、他の人には内緒よ。ああ、でもダリアスは飲んでもいいわよ」
姉らしい威厳を湛えた笑顔。しかしその言葉を耳にしたダリアスの胸には小さな違和感が落ちる。彼女の言葉の節々に感じたのは矛盾だった。
(……いや、気のせいだろう)
フィオラがイゾッタに何やら耳打ちされているのを眺めながら、彼は自身が感じた違和感に蓋をする。たとえ気のせいでなかったとしても、そこにあるのは姉が妹にお茶を贈ったという事実だけだ。大したことはないだろうと。
***
それ以降、フィオラはダリアスと茶を飲む時間を度々設けるようになった。
甘い香りのするお茶。ダリアスにとって、イゾッタがフィオラに贈ったそれはあまり得意ではない味だった。苦手な味だと、そう言えばフィオラは金輪際自分にこれを飲ませることはなくなるだろう。
そう。もし彼女に言ってしまえば、この時間は終わってしまうのだろう。
「それでね、私昨日は五十九人も治療できたの!過去最高なんだよ」
「存じております。傍におりましたので」
「……あ、そっか、そうだよね。私ったらごめんね。……あ、えと、お茶美味しい?」
「はい」
この心地よい時間が。この穏やかな時間が。終わってしまうのだろう。
――終わらせたくない。
(……これは、彼女のためだ)
フィオラが自分と茶を飲む間は、彼女が治癒魔法から解放されて勉強も何もせずにゆっくり休むことができる。
これは、彼女の体調のために必要なことだ。これは、彼女に必要な時間だ。
そんな言い訳めいたことを考えながらダリアスはお茶を口に運ぶ。喉にそれが流れると、甘ったるい香りが口の中に広がる。
苦手な香り。そのはずなのになぜかそれが不快だとは感じなかった。




