不穏
「ダリアス」
すべての業務を終えて夜の鍛錬をするために、ダリアスはいったん騎士棟に向かっていた。その時、聞き慣れた声に呼び止められる。
「イゾッタお嬢様」
彼が目の前の存在に一礼すると、イゾッタは気怠そうに片手を振る。
「いちいち生真面目ね」
彼女がダリアスの前に現れるのは久しぶりだった。恐らく、婚姻の話を持ちかけられて以来だ。約一ヶ月振りだろうか。
「何か御用でしょうか」
「ないなら来ないわ」
間髪入れずにあっさりとそう言われる。珍しく感情を隠す様子もなく、苛立っているのが分かりやすい。そしてその声もどこか刺々しい。
「フィオラのことよ」
その言葉にダリアスの眉がぴくりと動く。
――彼女の身に何かあったのだろうか。
今日は一日家庭教師がフィオラについていて、彼は彼女と関わっていない。突然状態が悪化して倒れでもしたのだろうか。いや、しかし彼女の急変でイゾッタがわざわざここに来るはずがない。妹の身を案ずる姉が、侍女を遣わさずに自ら妹の傍を離れることはないだろうから。
恐らく緊急性はないだろう。そう判断したダリアスは小さく息を漏らして口を開いた。
「お嬢様が……何か?」
ダリアスの返答が不満だったのだろう。イゾッタは大きく溜息を吐く。
「貴方、本当に何も知らないのね。半年くらい前から庭師見習いの男が新しく入ってきてるでしょう?」
そう言って彼女は言葉を続ける。
「フィオラはどうも彼のことがお気に入りみたいで、距離が近くて困ってるのよ。とても親しげで確かにお似合いだとは思うわ。あの子には好きに生きて欲しいとも思ってる。でも身分が違い過ぎるもの。恋にうつつを抜かすのはちょっと……」
言いながら彼女は自身の頬に手を当てて再び溜息を吐く。しかしダリアスは僅かに目を見開いたまま微動だにしなかった。
――脳がまるで彼女の言葉を処理することを拒んでいるかのようだ。
彼女が何を言っているのか。その言葉自体は聞き取れているのに、その意味は理解できずにいた。
「……お嬢様の……勘違いでは」
喉からやっと出た言葉はそれだけだった。するとイゾッタは眉根を寄せる。
「信じられない?そう思うなら、庭園に行ってみれば?今も二人は一緒にいるはずだから。貴方は護衛なんだからフィオラの交友関係もしっかり見ててよね。しっかりしてちょうだい」
声に怒りを孕ませたままそう言うとイゾッタは本宮の方へと姿を消した。しかしダリアスがそれを見届けることはない。
彼の足は珍しく焦ったような足取りで足早に目的地――庭園へと向かっていた。
***
大公家の庭園は、まるで一枚の絵画を切り取ったかのように美しく整えられている。丹念に刈り込まれた生垣の間には季節の花々が咲き並び、白い石造りの噴水からは絶え間なく水が流れ落ちている。庭園の奥には古い大樹が枝を広げる。
その木の近くに佇む小さな東屋に、フィオラはいた。――庭師見習いの男と共に。
その光景に胸の奥が冷えていくような、それなのに腹の底は沸騰するような相反する感覚に陥る。
フィオラはいつものように眩い笑顔を庭師見習いの男に向けて何やら楽しそうに話をしている。そして男は、破顔と表現するのが相応しいほどだらしない顔をしている。
ダリアスは奥歯を噛み、拳を握りしめる。
――あの男は、あの人に相応しくない。
ならば誰なら彼女に相応しいんだ。どこからかそんな声が聞こえたような気がしたが、頭を振ってそれを掻き消す。他でもない、彼女の姉が言っていたじゃないか。庭師見習いとはフィオラでは身分が違い過ぎるのだと。
(……身分)
その言葉になぜか胸に鈍い痛みが走る。訓練で痛めた記憶もないのに。
フィオラに声を掛けるでもなく、ダリアスはただただしばらく二人を見つめていた。彼女が笑い掛けるたびに、男が頬を緩めるたびに吐き気が込み上げてくるのを感じながら。
すると不意にフィオラの顔が己へと向けられ思わず体に力が入る。
「ダリアス!」
自分を見た瞬間に花が咲いたような表情になるフィオラ。その笑顔に心臓を殴られたような錯覚を覚える。
彼女は庭師見習いの男に軽くお辞儀をして、ダリアスの元へ彼女なりの精一杯の速度で駆け寄ってくる。
「こんな時間に庭園に来るなんて珍しいね!どうしたの?」
「……お嬢様こそ何をされてたのですか?」
「え、私?私はね……」
そう言ってフィオラは頬を赤らめて目を伏せる。そして躊躇うようにおずおずとダリアスを見つめて口を開く。
「内緒!」
恥ずかしそうに笑って人差し指を唇に当てる。その仕草に、以前も感じた彼女を閉じ込めてしまいたいような衝動に駆られる。そしてそれと同時に、どす黒い何かが体中を渦巻いていく。
――あの男と会っていたことは、話していたことは、自分に言えないようなものなのか。
――やはりフィオラはあの男と特別な関係なのだろうか。
さっさと聞いてしまえばいいのに、なぜかそれもできない。そもそもそんなことが気になる自分が理解できない。しかし、体中を蝕むような黒く不快な感情は消えてくれない。
(……くそ)
不意にスミレの香りが漂ってくる。ダリアスは奥歯を噛み締めた。




