打診
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夜明け前の練兵場はひんやりとした空気が漂っている。空が淡く白み始め、薄い朝露が地面を這う。
騎士になってもダリアスの日常は変わらない。剣を振るうたび、空を割く音だけが静寂の中に残る。彼が日々の早朝の鍛錬を欠かすことは一日たりともなかった。朝日が顔を覗かせてもなお、彼が手を止めることはない。
「ダリアス。今日も早いのね」
「……イゾッタお嬢様」
水場で洗った濡れた顔を拭っていると、背後からイゾッタに声を掛けられる。
早朝にも関わらず彼女の佇まいには気品がある。すっかり淑女となったイゾッタはどこか妖艶さを醸し出していると誰かが話しているのをダリアスは聞いたことがあった。
(……ジギタリスがトリカブトになったようにしか思えない)
「……こんなに早くから何の御用でしょうか」
「ふふ、そんな言い方をしないで。貴方が忙しくて話す時間がないから、私が合わせてあげてるんじゃない」
「……申し訳ございません」
別に話す約束をしているわけでもないのに。大した話をするわけでもないのに。少しの苛立ちを感じつつダリアスはイゾッタを長椅子へと促す。彼女の中庭への訪問は、この三年間も度々行われていた。
「昨日小耳に挟んだのだけど」
イゾッタは言葉を続ける。
「貴方また侍女に好意を伝えられたらしいじゃない?」
そう言われ、ダリアスは眉根を僅かに寄せた後で視線を彷徨わせる。記憶を手繰り寄せながら、少しの時間の後にようやくその出来事が彼の脳で再生され、ああ……と彼は小さく声を出す。その様子にイゾッタはくすくすと笑った。
「貴方にとってはどうでもいいことだったのね」
「そうですね」
間髪入れずに答えると、彼女はさらに可笑しそうに笑う。そう、侍女からの好意などどうでもいいのだ。今のこのイゾッタとの会話と同じくらいに。
大公家で働く侍女たちは子爵家以下の出自の者ばかりだ。侯爵家との縁を結ぼうとしている彼にとって、身分的に釣り合わない人間から想いを打ち明けられたところで答えは一択しかなかった。
「縁談の話もいくつか持ち込まれているのでしょう?」
「伯爵家以下との縁談はそもそも父が受け入れないので」
そう答えるとイゾッタは満足気に口角を上げる。
「それなら、大公家との縁談なら断る理由はないんじゃない?」
「は?」
空模様をぼんやりと眺めながら会話をしていたダリアスは、その言葉に思わずイゾッタの方へと顔を向ける。彼女にそう言われ、ダリアスの頭にフィオラの顔が過ぎる。
「だから、私との婚約よ」
「……ああ……」
なんだそんなことかとも言いたげに、大して興味なさげに返事をするダリアス。そんな彼にイゾッタは僅かに顔を歪める。しかし彼女はすぐに笑顔を貼り付けて口を開く。
「つまらない返事ね。大公家なら文句なしの家格でしょう?」
「……現実的ではありません」
小さく息を吐いてダリアスは言葉を続ける。
「大公閣下がお許しにならないでしょう。大公家のご令嬢と伯爵家では身分差があり過ぎます」
「そうね。確かにお父様のお許しを得るのは大変そうだけど、それを言うのなら……」
イゾッタは僅かに顔を伏せて長い睫毛の下から探るようにダリアスを見つめる。
「貴方はフィオラとも婚姻を結べないわね?」
その言葉にダリアスの眉がぴくりと動く。
「……脈絡のない発言の意図を図りかねます。私は……フィオラお嬢様の護衛に過ぎません」
そう言うとなぜか苦いものが胃の底から込み上げてきて、彼は奥歯を噛む。きっと下らない話に辟易しているからだろう。
「ふふ、そうよね。でも、私との婚姻は可能よ?私が望めばね」
ダリアスの頬に手を添えて妖艶な笑みを浮かべながらイゾッタは言う。その滑らかな動きはさながら毒蛇のようだ。
「貴方は伯爵家の跡取りでもないし、その年齢でもうすぐ上級騎士に叙任されるほどの実力もある。聖女の護衛騎士という実績もある。……お父様は私には甘いから、きっと大丈夫よ」
大公家の娘と縁を結ぶことになれば恐らく、いや十中八九、伯爵は諸手を挙げて喜ぶだろう。
ダリアスは小さく息を吐くと、イゾッタの手を握る。彼女の手が僅かに動いて力が込められるのを感じながら、彼は握った手を静かに降ろさせる。
「……私には過ぎた話です」
「なぁに、嫌なの?」
「……好き嫌いの話をしているのではありません。そもそも、私はまだ護衛に専念するつもりですので」
すると、イゾッタが眉根を寄せる。
「まだって、いつまでなの?」
「……少なくとも、フィオラお嬢様が社交界に出られる年齢になるまでは」
「なぁにそれ、三年も先の話じゃない」
言いながらイゾッタは呆れたように溜息を吐く。そして彼女は言葉を続ける。
「そんなんじゃ私の適齢期も過ぎちゃうわ。せめて婚約くらい先にしたらいいじゃない」
婚約しようが結婚しようが護衛を続けることに何ら支障はない。イゾッタと婚姻することになれば、伯爵の権力も磐石になることだろう。しかし……。
「フィオラお嬢様が社交界に出る頃、侯爵家のご令嬢に数名適齢期の方がいらっしゃいます。私はそのいずれかの方と縁を結びたいと考えておりますので」
大公家と縁を結ぶよりも、侯爵家と縁を結びつつフィオラの護衛を続け大公家との縁も切らさない。その方が政治的地位が強くなり伯爵も満足するはずだ。
いずれ侯爵家以上の人間と結婚する未来は変わらない。バデアラ家の人間として、それはよく分かっている。しかしその現実をまだ自分に近づけたくない。まだ先でいい。
その理由は分からないまま、言い訳をするようにダリアスは淡々とイゾッタに答えた。




