死
揺れる馬車の中でフィオラは吐き気でうずくまっていた。それなのに思考だけは止まらない。
どうしてあんなことをされたのだろう。自分の何がいけなかったのだろう。怖い。怖い。怖い。けれど、自分もあの人に大怪我を負わせてしまった。どうしよう。なんてことをしてしまったのだろう。帰ったらきっと屋敷中に知れ渡っているはずだ。ただでさえみんなから嫌われているのに、もっと嫌われてしまう。どうしたらいい?姉なら味方になってくれるだろうか。それよりダリアスに……ダリアスにだけは知られたくない。嫌われたくない。どうしよう。どうしよう。
頭に靄がかかったようで、何ひとつ解決策が浮かばない。どんどん吐き気が強くなってくる。まるで内臓を掻き回されているようだ。激しい目眩もあり天地の感覚すら曖昧になっていく。極度の緊張によるものなのか、馬車酔いなのか。はたまた別の理由なのか。それすらも判断できない。フィオラはただ目を閉じて耐えることしかできなかった。
「着きましたよ」
いつの間にか意識を手放していたフィオラは御者の声に目を覚ました。ずきずきと身体中が痛い。今日はほとんど治癒魔法を使っていないのに、一体どうしたというのだろう。
馬車を降りてよたよたと歩き出す。頭が鈍器で殴られているように痛む。けれど、姉のために銀灯花を持ち帰らなければ。価値のない自分にできることなんて、これくらいしかないのだから。
***
森に入って少し歩くと、鬱蒼と生い茂る木々の隙間からぼんやりとした光が点々と見えてきた。フィオラが近づくにつれ、その魔力に反応するように淡い光は次第に強さを増していく。
――銀灯花だ。
見たことはないが、これが銀灯花に間違いない。彼女はそう直感する。
夜風に揺れるたび淡い銀光をこぼすその花は、夜露をまとった星々が咲いているかのようだった。
「きれい……」
身体のつらさも一瞬忘れて見惚れてしまう。ダリアスと見ることができたならどんなに嬉しかっただろうか。……いつか一緒に見に行けるだろうか。
朝のダリアスの昏い瞳を思い出し、胸がずきんと痛む。目をぎゅっと瞑り、それを消し去るかのように首を振った。きっと大丈夫。元の関係に戻り、ダリアスと見に行ける日がきっとくる。そう自分に言い聞かせた。
フィオラはそっと銀灯花に手を伸ばす。
こんなにも美しい花なら、きっとイゾッタも喜んでくれるはずだ。そう思うと、胸の奥に張り詰めていたものが僅かにほどけた。
その時、遠くの方でガサガサと音がした。
悪寒が走り目を凝らしてみても、闇夜で遠くまで目が利かない。風で木々が揺れる音だったのだろうか。それとも……。
なんとなく嫌な感覚がして、フィオラは馬車を停めていたところへと戻り始めた。けれど身体がふらふらして思い通りに歩けない。
身体が鉛のように重い。一歩踏み出す度に全身が軋み、胃の奥がせり上がってくる。
やっとの思いで目的の場所へとたどり着くと、彼女は驚愕した。
「馬車が……ない……?え……?」
場所を間違えたのだろうか。いや、ここは一本道だった。間違えようもない。確かにここに停めていたはずだ。
それなのに、馬車は一体どこへ?
困惑していると背後の茂みが大きく揺れ、低い唸り声が森に響いた。
「……っ」
フィオラはびくりと肩を震わせる。悪寒が走り、全身の肌が粟立つ。本能が警鐘を鳴らしていた。
息を呑み、強ばる体をどうにか動かしてゆっくりと振り返る。そして、目を見開いた。
闇の奥でいくつもの瞳が鈍く光っている。
「……っ!」
反射的に逃げようとするも、足がもつれてしまう。その拍子に衝撃でポケットから香り袋が転がり落ちる。
(お姉様からいただいたものなのに……!)
拾おうと手を伸ばすも、それよりも遥かに早く一匹の魔物が香り袋に飛びついた。鋭い牙が香り袋を無惨に噛み裂き、中に詰められていた花弁や香草が辺りへ舞い散っていく。
甘く濃厚な香りが一瞬にして夜の森へ広がった。
その途端、魔物たちは我先にとその香りへ群がっていく。そして互いに唸り声を上げながら奪い合いを始めた。
「ど……して……」
フィオラは呆然としていた。
もし、もしも。転んでいなかったなら。あの香り袋がポケットに入ったままだったなら。今頃魔物に切り裂かれていたのは――その先を想像して吐きそうになる。
けれど、ただの香り袋に魔物があんな反応をするはずがない。胸の奥がざわりと騒ぐ。
イゾッタの顔が頭を過ぎる。まさか、そんなはずがない。けれど何度考えても出てくる結論は同じだった。
――魔物寄せ。
自分の出したその答えに背筋が凍った。魔物寄せを渡した理由を考える暇なんてない。逃げなくては。一刻も早く。
だって、肌身離さず香り袋を身につけていた自分にも、この匂いは染み付いているのだから。
そう思うのに、頭では分かっているのに、恐怖で身体が動いてくれない。そもそも全身の激痛で、もはや立っているのがやっとだった。
その時魔物がぴくりと鼻をひくつかせ、彼女の方を振り向いた。そして、恐ろしい咆哮が夜の森に響き渡った。魔物たちが眼前に飛びかかってくる。
「ひぃ……っ!」
助けて。お願い。ダリアス、助けて。
けれど、その願いは砕け散る。
激しい痛み。骨の軋む音。肉を裂く音。フィオラの意識はそこで途絶える。
彼女の短い生涯は、終わりを告げた。




